傍らの呼吸が、深く、ゆっくりとした間隔に変わる。瞼を持ち上げて隣を見ると、アルトは顔を真下に俯けていた。
 首が真っ直ぐ伸びた形になっており、いざ起きた時に項へ鈍痛や強張りを感じる可能性が高い。

 寝入ってから幾らも経っていない為些か迷ったが、重ねていた掌を抜き取って下方からアルトの側頭部に添え直し、慎重に手前へ押す。
 頬骨が俺の肩に触れ、手を離すと適度に重みがかかった。前髪が額を擽っても睫毛が震える様子も無く、本当に寝ている。

 腕を組み、先刻のアルトを真似て空を見遣る。

 夜明けは遠く、三日月の輪郭が少しぼやけていて、左方向からは時折芝生を踏む足音が風に運ばれて届く。
 大方、俺の見解を信用しきれない一味の誰かが夜襲の警戒にあたっているのだろう。ドフラミンゴに襲撃を禁じてはいないので余計な行動ではないし、海獣の出現に備えて複数人が見張りをするのは悪くない。

 顔を傾け、再びアルトの目元を眺める。こうも至近距離で寝顔を見たのは初めてだ。

「…………」

 息を吐きそうになって、飲み込む。
 アルトはパンクハザードでの生活で、気配の動きに対し若干敏感になった。見聞色の覇気が鍛えられたと言うよりは、俺以外の他人の気配を警戒して損はしない生活環境が、察知の精度を育ててしまった。

 分かっていたようで、分かっていなかった。アルトの中に棲む"俺"は、俺が想像するよりもずっと大きい。きっかけは確実にウォーターセブンの一件だろう。

 白鉛病の俺を受け入れ、触れて、守り、庇ってくれたコラソンの存在がどれ程俺にとっては得難かったか。どんなに感謝したか。どれだけ、あの人の苦痛の呻き声が耐え難く、その身から赤い色をした命が流れ出す景色が恐ろしかったか。
 ほんの少し前まで俺の名を呼んでいた唇が、もう開かないと悟る事が、自分の四肢を断ち落として尚足りぬ程の苦痛であると知っていた筈だった。しかしアルトに殆ど同じ思いをさせかけていた事には、昼間アルトの我慢が決壊するまで気付いてやれていなかった。

 戦闘経験を重ねて流血や怪我にもある程度は慣れ、今回の俺の負傷も大事には至らなかったからと、何処かで楽観していたのだろう。
 大した怪我ではない事をアルトに伝え、驚かせた事を詫びた己に満足していた節もあったのかもしれない。

 怪我の程度は関係がない。俺が怪我をする、他者に害される事そのものが、アルトの心に罅を入れるのだ。
 よもやアルトにとっての自分が、俺にとってのコラソンと並ぶ程に価値が在るとは露ほども考えた事の無かった、俺の落ち度と言えばそうだった。

 俺がアルトに向ける感情は、慈愛と呼ぶには温もりが足りず、親愛と名付けるには重いようで、とてもあの人に並び立ちはしないといつの間にか決め付けていた。それを決めるのは、そもそも俺ではないと言うのに。

「…………ハァ、」

 結局、溜め息は堪えきれなかった。
 此処まで連れてきて、それでも、俺はアルトより自分を優先する。
 "コラさん"の本懐を遂げたい自分を、優先する。

 もうアルトも、ドフラミンゴは通過点だとする俺の自己欺瞞を感じ取っているだろう。まるで通過点かの如く易々と打ち倒せれば最高の結末だが、その考え方は希望的観測ではなく最早油断だ。
 ドフラミンゴの能力の汎用性には、十三年前当時から子供の俺でも目を見張るものがあった。景色に溶け込みやすく、見えにくく、射程が長い。一度に襲いくる数も咄嗟の見切りが難しい。

 何より、向こうにも俺にも、互いに互いを殺したい理由がある。対峙したが最後、一方が死ぬまで戦いは終わらない。

 アルトには、オペオペの実をドフラミンゴが渇望していた事だけは話していない。昔話の際にも省いて、コラソンが手を尽くして見つけてくれたとだけ教えてある。そこまで話して、ならば今回死闘になると察せない程、こいつは頭の回らない人間ではない。

「……よく、お前は、俺の狡さに薄々気付きながらこうして着いて来てくれたモンだ」

 答えが確実に返らないからこそ、落とせる呟きだ。
 この身に万が一があれば、昔の自分と同じ思いをさせると分かっている俺に。その未来に進ませる位なら共に冥府へ道連れにしてやるとも言ってやれない、身勝手な生を押し付ける俺に、アルトは黙って着いてくる。

「なァ、アンタも。こんな気持ちだったのか、あの時は」

 死に場所を求めているなどという事は無い。帰るべき場所もある、待たせている奴等も居る。
 その為に、明日を生きようとする意思は、これでもきちんと保っている。

 ただ、もし。俺の人生がもう直ぐ終わるとしても。こいつに後を追って欲しくない。
 偶然の出逢いでも、確かに俺がアルトの命を拾い上げる事を選択したのだ。そして、何も俺の為に死なせたくて傍に置いていた訳ではない。

 いつまでも、島に降り立つ度に忙しなく露店や飲食店を見て回って、最初に何を食べるか決められずに弱った顔で悩む海賊らしからぬ姿を見せていれば良いと、思っていた。

 更に顔を深く傾けると、俺の物に比べて柔らかい黒髪が頬に触れて、地肌の淡い体温が伝わってきた。

 温かい。生きているのだから当然だ。
 なのに今更どうして、当たり前の事に初めて気が付いたような、或いは思い出したような心地になるのだろうか。

 疲労感はアルトが拭い去ったばかりだ。なのにどうして、たった今、僅かに呼吸が楽になった気がするのか。

「────嗚呼。そうだな。死にたく、ねェな」



 夜明けはまだ、遠い。





 



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