夜食もつまみ終え、各自が寝支度を済ませて疎らに部屋へ消えてゆく。
 ソファーが備え付けられているアクアリウムバーはサンジと錦えもんが依然酒を楽しんでおり、それなら測量室を借りられないかとも一度は考えたが、いつの間にか甲板に戻っていたローは外で寝ると言うので倣う事にした。

 潮風は止まないし、夜間も気候が変わらない保証は無い。用心して毛布を分けて貰おうかとクルーを探して芝生を歩いていると、ナミが向かいの階段を降りてきた。

「アルト、まだ寝ないの? 疲れてるんじゃない?」
「そろそろ休ませて貰うよ。悪いんだけど、余ってる毛布ってある? 寝冷えしないように借りられたら助かるんだけど……」
「あるわよ、女部屋の貸してあげる。ちょっと待ってて」
「え」

 そういうつもりで言った訳ではなかったのだが、驚く程あっさりとそんな返答をくれたナミは、シャンプーの甘い香りを残して船首の方へ小走りで向かう。風呂上がりだったらしい。
 女部屋の扉が開閉し、一分も経たない内に、ナミは淡いクリーム色の掛け布団を抱えて戻ってきた。

「本当に良いの? 俺とローが使うんだよ? 潮風浴びるし…」
「それで明日の朝風邪でもひいてたら大変じゃない」
「…ありがとう」

 年頃の女性が男に私物を、それも身に触れる物を貸すのは敬遠したがっても何等可笑しくはないと思うのだが、ナミは快く渡してくれた。洗剤の優しい香りが仄かに漂う。
 確かに、夜風が原因で体調を崩すのは避けたい。特にローはただでさえ能力の行使に体力を奪われる。

 明朝以降、ドレスローザに着いてからの動きは主に三つに別れる。この船の防衛と、『SMILE』工場の破壊と、シーザーを介した交渉だ。

 ローは、シーザーの受け渡しに行きたがる筈だ。ドフラミンゴの自主脱退が実現すれば、ローもまたシーザー解放の約束は守らなければならない。

 当初もローがドレスローザ内の離れ小島であるグリーンビットへ行き、俺は街でドンキホーテファミリー構成員を締め上げて工場の所在地を聞き出して、破壊するつもりだった。
 万が一工場内で不覚を取って捕らわれても、海楼石の効かない俺なら脱出も可能と考えての事だ。人数が大幅に増えたが、この役割分担をローが変えるとは思えない。

 グリーンビットには、シーザーの生存と本人であるかどうかを確かめに、ドフラミンゴが赴く可能性もある。それでもローならば逃げ切れると思っていた。今日、ローの胸中を聞くまでは、逃げて来てくれると思っていた。

 だがローは、機に恵まれたならドフラミンゴを討ちたいと本気で思っている。一番の目的は工場破壊だが、仇敵を前に何もせず退く選択が出来るだろうか。

 ローの意志の弱さを案じているのではない。俺でさえ、ローに怪我をさせたヴェルゴに対して、心臓を殴りつけたシーザーに対して、御し難い怒りを覚えたのだ。己が育ててきた理性と倫理がとても脆いと知ったのだ。
 もしもあの時、ローがヴェルゴに殺されていたら。その後自らの手でヴェルゴを殺めたとて俺の心は僅かも晴れないだろう。何度詫びさせても足りないだろう。想像、したくもない。

 けれどもローは、俺が脳裏に仮の映像を描く事も拒みたがるような目に実際遭っている。
 自分にとって代わりなどあろう筈もない存在が他人に踏みにじられて消え失せる、その底が知れない恐怖と絶望と、喉を掻きむしりたくなる憤怒の一端を知った今となっては、ローが目的から逸れてドフラミンゴへ斬りかかろうとも咎められる気がしなかった。寧ろその為に体調を整えたい程ではないかと勘繰りたくなる。

「ねえ。……大、丈夫?」

 はっ、と、たった今目が覚めたような錯覚と共に意識の焦点が定まる。
 深々と沈んでしまった思考をナミの声が引き戻した。彼女にこう尋ねられるのも何度目になるのか。

 海に生息する種の鳥が何処かで鳴いている。
 形の整った双眸を頻りに瞬かせて、片手を自分と俺との間で半端に浮かせているナミは、その細い五指の行き場を探しているようだった。

 何と答えよう、と。そんな事が脳裏に浮かぶ。

 はぐらかしたり誤魔化す気は起こらなかった。昼間にオーラの制御も感情の抑制も利かない所を麦わらの一味全員に見られていて、ナミが何に対してこう問うているにせよ、適当に答えても流石に看破される。

「……私ね。戦災孤児なの」

 白い手がゆっくりと降りてゆく。風が弱い今はナミの小さな声もよく聞こえた。

「素敵な人が拾ってくれて、養母になってくれたけど。私の、目の前で、十年前に殺されたわ」

 全く予想していなかった告白に、思わず無遠慮に眼下の顔を見つめてしまうも、ナミの面差しは柔らかい。少なくとも怨嗟を無理に抑え込んでいるようには見えない。

「だから、……ううん、だからって言うのも正解じゃないんだけど。アルトが昼間シーザーに怒ったのは、良くない事じゃ…ないと思うの。詳しい事は知らないけどアイツ、トラ男君に何かしたんでしょ?」

 ナミが瞳だけを動かして、甲板で眠るシーザーを指す。
 つられて顔を視界に入れれば芋蔓式に色々と思い出して腹が立ちそうなので俺は波打つ豊かな橙色の髪へと目線の位置をずらし、浅く首肯を返すだけに留まった。

「そりゃ怒るわよ。悔しいもの。……でも、アルトが無茶したら今度はトラ男君が苦い顔するわ。きっとね。それに、あんなクズ私だって大っ嫌いだけど、クズなんだからアルトが態々構ってやる価値も無いわよ!」
「……ありがとう」

 果たして俺は先刻どんな顔をしていたのか、ナミは俺を心配してくれていた。せめて一味の前だけでも表情を繕えない俺の未熟さを晒して悪いが、腰に片手を宛がって反対の手は拳を作るナミの仕種が微笑ましくてするりと礼が言える。

 過去にナミが受けた傷の深さは俺と比較出来るものではないが、他人の方が更につらい思いをしたからと言って自分の痛みを忘れられる程、人間の中身は善性で造られてはいない。
 ただ、寄り添おうとしてくれたナミの優しさと、踏み込み過ぎない気遣いを嬉しいと思えるだけの余裕はまだ持てていた。

「毛布、借りるね。おやすみナミちゃん」
「おやすみなさい」

 踵を返し、甲板の手すりと部屋の壁の間の通路を進む。足元が芝生から木の板に変わると足音も大きくなり、草葉の匂いも遠のいてゆく。

 マストに連なるロープの根元近くまで歩み寄ると、胡座をかいて座るローの目が帽子の下から覗いた。
 



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