二章 淡雪を掻き抱く


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 一言で述べるなら、今回俺達が撮影で着用する衣装のブランド専属スタイリストだと名乗ったその女性は、気合いが入っていた。

「今日はよろしくお願いします〜! もうめっちゃ楽しみに待ってたんですよ、やっぱり本物カッコイイですね〜! あのっ、記念に握手オッケーですか! わたし普通にBEPOのファンなんです〜!」

 許可を求めつつも、大きな紙袋を二つ纏めて腕に下げた女性は既に両手を差し出してきている。

 せめて上手い事先に荷物を受け取っていれば回避出来たかも、と脳裏に過ぎって、流石に失礼かと自分を叱る。一緒に仕事をする事を現場で働く人間に喜んで貰える事自体は有難い。世に出るBEPOの作品や宣伝は、各分野のスタッフのサポートと協力があって初めて形になるのだ。

「此方こそ、よろしくお願いします」
「きゃっ、嬉しい〜! コレ今日の衣装です! 青い方がローさん、白い方はアルトさんで! もし裾とか丈とかが気になるようでしたら呼んでくださいね〜!」
「分かりました。どうも」

 すげなく対応すれば関係者の間での評判に関わりかねないし、人によっては初対面の時に握手を交わす。
 同じように声をかけてくれる一般人の握手には応じられないのにな、とファンに対して何度目かの申し訳なさを抱きながら片手を差し出すと、両手で左右から包むように握られた。

 女性はそのまま話し終えるまで手を離さず、俺が答えてから漸く握手を解いて出入り口横に在るハンガーラックの下へと袋を置き、此方に向けて小刻みに両手を振りつつ退室した。思わず深い溜め息を漏らす。

「一応はこっちにも会釈をしたが、あからさまだったな。……大丈夫か」

 隣まで来て自分の衣装が入った袋を持ち上げたローが、シンプルな心配の言葉を寄越してくれる。

「そう長い事近くに居なければ、多分……」
「どうだろうな。仕事相手、且つスタッフとしての距離感が判ってるとは思えねェぞ、あの女」
「初対面で友達にするみたいな手の振り方してくる人は俺も初めて」
「……服にまで匂いが移ってる訳じゃなさそうだな」
「本当? 良かった」

 これまでに出会ったスタイリストは、男女問わず比較的動きやすい服装で居る事が多かった。仕事内容が服の調達から管理、場合によっては撮影のチェックだけでなく手伝いも担う為に体力勝負なので、自身がテレビにでも映らない限りは機能性重視だと言っていたスタッフも居る。

 そういうものなのか、とスタイリストという人々に対する印象が多少固まっていたからか、背中まである茶髪をゆるく巻き、華奢なヒールを履いてオフショルダーのトップスを着たあの女性がスタイリストだとは初見では思わなかった。
 生放送の仕事を終えてアカシアテレビの本社へ移動し、九階でエレベーターを降りた先で待っていたというのもあり、雑誌の広報担当者かと最初は勘違いした。

 そして、ああも香水の匂いが強いスタッフは、初めて会った。

「まあ、ブランドと契約してるスタイリストさんだったら、どの現場でも絶対一緒になるって訳じゃないし……今回は偶々あの人が所属する、何だっけ、スミラ?」
「スフィラ」
「ヤベ、さっき名前言わなくて良かった。其処の服の特集記事の写真撮りだから参加してるんだろうし……うん、多分そんな、会わないよ……」
「出来れば会いたくはねェだろ。水飲んで暫く座ってろ」
「そこまでじゃないから大丈夫。ありがと」

 俺が特定の香水に弱い事を知るローが気遣ってくれる。
 それだけで、恐らくローが思っている以上に気持ちの面は楽になるのだ。

 香水全般を毛嫌いしている訳ではない。好きな香りを纏って気分を上げたい、或いは落ち着けたいという楽しみ方を否定するつもりはないし、ローも一緒に調香店で選んだ練り香水を使っている。
 俺自身、ナミに紹介して貰ったオーガニックスキンケアの専門店で扱われているピンクグレープフルーツの香りのミストコロンだけは、まるで本当に生の果汁を搾ったかのような、他に何も余分な物が混ざっていない果実の爽やかな香りが気に入って購入した。

 ただ、薔薇と、バニラの香りだけは駄目だ。この二種類の系統の香りは妙に鼻の奥に残り、どうにも胸がむかむかとして気持ち悪くなってしまう。
 普段周りに居る馴染みのスタッフ達は何か香りを帯びていたとしても大抵は洗剤や柔軟剤で、サボも以前ネット記事の取材で対談したインタビュアーが着けていたローズ系の香水に酔ってしまった俺の姿を見てからは化粧品の香料を気にかけてくれるようになった。

 周囲の心遣いのお蔭で避けられていたその苦手な香りを久しぶりに至近距離でガツンと浴びて、しかもその香りの持ち主と今から結構な時間関わらなければならない状況に、自分の荷物を取りつつも二つ目の溜め息が出る。

「俺の方サコッシュ入ってる。気にはなってるんだよな、やっぱり何かシンプルな奴一個買おうかな……」

 渡された袋を覗いてみると、畳まれた濃いグレーのテーパードデニムの上に、ナイロン生地の真っ白なサコッシュが乗っていた。近場へ食事の材料を買いに行く時は財布と携帯しか持たない事も多いので、嵩張らなさそうなサコッシュは気になりつつも結局買っていない。

「お前も適当なキャッシュレスアプリ使えば良いんじゃねェのか。近所ならスマホと鍵だけ持って出かけられるぞ」
「ローはスマホ決済使う事多いよね。今はもうそっちの方が何かと得する事多いんだろうけど、目の前で現金が動かないと払った感じがしないんだよ。クレカも金を前借りしてる気分になる……」

 ローは還元率が高いクレジットカードを複数枚作っているようで、しかしそれ等は持ち歩く事なくスマートフォン用の決済アプリと紐付けて利用している。今日も荷物はモバイルバッテリーと携帯、コインケースのみだ。

 俺は目に見えて空欄が埋まってゆくのを眺めるのが何となく好きなのでスタンプカードを作りがちで、レイリーが買い物の殆どを現金で支払う人だったからなのか、これまた何となく現金で会計をするのが落ち着く。よって外出の際は財布必須だ。
 対してローは持ち物が少ない為よくフェイクレザーのクラッチバッグを使っているが、俺は多少マチがある鞄でないと全ての荷物が入らないし、もしスマートフォン自体に不具合が生じたらと考えると現金を持っておきたくなる。

 とは言え手中の端末一つで買い物から食事、電車移動まで済むのは単純に楽そうなんだよな、とローを見ると、控え室のテーブルへ黒のナイロンジャケットと同色のダメージジーンズを乗せている所だった。インナーは少しくすんだオリーブ色のサマーニットのようだ。

「まァ、金を使った感覚が薄いっつうのは分かる。病院だとかは現金しか使えねェ所もまだ多いし、スマホ決済に偏り過ぎてもそういう時にうっかり手持ちが足りないとなりゃ恥をかくしな」
「えっ、病院行ったの? いつ? 具合悪かったなんて一言も……」

 随分具体的と言うか実感のこもっている感想を語られて、向かい側に紙袋を置きながら尋ねる。心配をかけまいとしたのだとしても、不調は教えて欲しかった。

 けれども思わず声音が揺れた俺に対してローは静かに瞬きをすると、双眸をほんの少し細めた。
 たったそれだけの微細な仕種で此方を見下ろす眼差しが和らいで、然して口角が上がっていなくともローが仄かに笑んだと判る。まだ本人は何も言っていないのに、表情のみで俺の心配をするりと拭われすらしたかのようだ。

「例え話だ、何処も悪くねェよ。お前は心配性だな」
「……何だ、良かった。でも心配はすると言うか、心配ぐらいはさせてよ……」

 本当にただの例えだったらしい。ローが日頃から運動をしていて健康管理にも気を遣っているし、休息と睡眠を重要視していると知ってもいるのだが、何故だかローの疲れや不調が時々やけに心配になる。
 過去に無理を押して倒れただとか、つい懸念を抱くきっかけになるような出来事もないのに、漠然と不安になる事がある。

 案外前世の影響だろうかと内心で首を傾げる傍ら続けて衣装を取り出す。トップスはカットソーかと思いきや、広げてみるとビッグシルエットのTシャツだった。袖は五分丈ほどの長さがありそうで、柔らかなグレージュ一色に染まっている。

「──お、もう着替えてくれてるのか。お疲れ二人共」
「お疲れ様です」
「お疲れ」

 衣装に袖を通したところで、サボが入ってきた。俺とローを交互に見てから自身の手荷物をパイプ椅子に乗せる。

「アルトお前、あのスタイリスト大丈夫か? 髪型のニュアンスとか決めてェから先に打ち合わせしてきたけど、結構香水キツいな。嗜みって呼べる度合いを超えてる。周りが注意しても良いんじゃないかと思ってその辺のスタッフに聞いてみたけど、この局に勤めてる古参プロデューサーの男の娘らしい。まァ、何だ。可愛がられてるみたいだな」
「うわ」

 思わず声が漏れた。
 プロデューサーはテレビ番組の企画の骨子考案も担う総括的な立場であると共に、番組側がタレント達と出演交渉をする際に顔を合わせる事も多い役職だと聞く。

 BEPOの場合はテレビに出るにしても各局の音楽番組、ツアー中の楽屋裏密着、娯楽施設でのロケと、台詞一つまで綿密に練られた台本が必要と言うよりは現場での全体の流れをあらかじめ把握しておく事が重要そうな企画ばかりだったからか、過去に打ち合わせをした相手は全て現場総指揮者であるディレクターだった。

 自らが演技指導と編集を行うが故か、ディレクターは誰もが企画の概要を踏まえて具体的な展望や懸念を挙げてくれてかなり仕事がしやすかったのだが、今後アカシア局から何か仕事を貰っていざ打ち合わせとなった時にそのプロデューサーが現れないとは限らない。やり過ごすしかなさそうだ。

「現場のスタッフがそれとなく指摘も出来ねェ程度には、娘を溺愛してる訳か」
「多分な。娘も娘で、何かあると父親に相談……要は告げ口するかも、って仄めかすような奴らしい。適当に合わせてやれってカメラマンが助言くれた」
「プロデューサーって、予算管理する方の立場の人ですよね? だとしても娘さんが独り立ちして社会人として働いてるなら、それはちょっとどうなんだ? って思うような事は、普通親の耳に入れば諌められそうなものだけど……」
「親馬鹿、なんて言葉がある位だからな。ソイツは優しい父親だが、良い親ではないのかもな。あんま人の親御さんにこんな事言いたくねェが」

 プロデューサーにも色々な人は居るのだろうが、撮影や編集の内容へ強気に口を出してくるような人物だとしたら、制作スタッフ達は確かに下手な事を言いにくい。

「あのスタイリストが、番組や雑誌から選ばれるんじゃなく、逆に出る媒体を選ぶレベルで数字が取れるような演者を一回ガッツリ怒らせでもすれば、父親もそう庇えないんじゃねェのかなとは思うが。ブランド専属なんだろ? アイツが居るならそのブランドは着ないとか、父親の名前出すんだったらその局の番組出演も考えるとか……そこまで言わせちまえば、地方局の一プロデューサーが口出し出来る事なんて限られるだろうし」
「でも専属契約結べる位なんだから、仕事は出来るんじゃないですか?」
「んー。……よし、ローからやってくな。ちょっとの間顔は上げてて欲しいから、スマホとか見るなら肘ついてくれ」
「ああ」

 シザーケースに鋏ではなく細身のスプレー缶や整髪剤のチューブを収納して腰から提げたサボが、壁に大きな鏡が横並びに三枚取り付けられた一画のテーブルについたローの前にバニティポーチを置く。

 隣の椅子に座ると、艶のある真っ赤なコームでローの髪の流れを整え始めたサボの目が、鏡越しにちらりと俺を見た。
 



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