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 数分前から話題の中身を唐突に変える事が増え、それを自分では不自然だと思っていなさそうなアルトは少し酔ったのだろう。
 本人はビールとワイン類を避けて口当たりの軽いサワー類ばかりを、且つ誰よりゆっくりと飲んでいた筈だが、見た目よりも疲れが溜まっている可能性もある。

 幸い明日は揃って休みだ。昼頃まで寝かせてやるかと思いつつテーブルに備え付けられたタッチパネルでアルトの言った鯛茶漬けと焼き握り飯茶漬けを注文して隣に視線を戻すと、アルトはシャチにメッセージを送っていた。確かに二人共戻って来ない。

「あ、直ぐ既読になった……ペンギンさんと話してた、今戻るって。どうしたんだろう」

 俺達が今居るのは居酒屋の個室だ。電話を受けたペンギンは気を遣って部屋の外に出たが、シャチを捕まえて相談しなければならないような内容だったらしい。

 アルトの指が動き、アプリ画面が直近でやり取りをした相手の一覧を表示する。並ぶアイコンは見える限りではBEPOのグループ、俺、サボ、カクと、女っ気がない。

「ロー、明日どうする? この前話した本棚見に行く?」
「先にダンボールに入ったままの服を片しちまった方が良いんじゃねェか。どうせ出かけるなら、手持ちに何があるか確認してから服も一緒に買った方が手間は少ねェ」
「それもそっか。じゃあ明日は起きたら片付けだね」

 伏し目がちなアルトの横顔を見ながら、流石に詮索が過ぎるかと思い直す。

 過去の事にしろ、アルトから特定の女の話を聞いたのはさっきが初めてだ。再会して以降は毎日が忙しなく、とても女を作る余裕はなかった。それはアルトも同じだろう。

 正直、俺個人としては「アイドル」と呼ばれる範囲を超えて活動の幅を拡げたいとは思っていない。
 ステージに立ち、練習した通りに身体が動いたり思ったよりも良く声が出た時や、会場の客席が黄やら赤やらの眩しいペンライトで後方まで染まる光景を見た時、読んで字の如く熱心に此方を見上げるファンの視線と歓声を浴びる時の高揚感は悪くない。期待される事、期待へ応える事に、やってやろうと意欲も湧く。

 だが恐らくそれはステージ上に居るのが基本的に俺とアルトの二人だけで、公演の最中に気を遣うべき対象が限られ、ほぼストレスなくパフォーマンスに集中出来る環境であるが故だ。
 ツアーが始まる前に発表媒体を問わずインタビューを受け、併せて写真を撮られる仕事が続いた時期があったが、現場によってスタッフの顔ぶれが変わる事に存外気疲れした。特にインタビュアーとは相性があるのだと実感した記憶は新しい。

 写真撮影自体にはやり甲斐を見出したし、今後も何かと映像や写真を使った作品作りに携わってゆく事を思えば経験は積んでおきたいが、撮られる事を面白い、楽しいと感じられた回数は少なかった。特に「レンズの向こうに恋人が居るつもりで微笑んで」等と言われた時は表情の作り方に難儀したものだ。モデルと俳優業をこなすコラソンを改めて尊敬する。

 その点、アルトはどうだろうか。
 俺のように上半身の殆どが刺青で飾られているという事もなく、歳が二十代前半と比較的広い年代の役柄に対応可能な為、大学を主な舞台としたネット配信限定の連続ドラマへ生徒役で出演しないかと今年の初めにオファーが来た。
 初めての本格的なツアーに専念したいからと本人はあっさり断ったものの、俳優業には興味がないとでも明言しない限りは、今後再び出演依頼が舞い込まないとも限らない。

 いつまでBEPOとしての活動を続けるか具体的な期限は定まっていないが、ゆくゆくはレヴェリードームとマリージョアホールでワンマンライブをやれたらという目標は出来た。その更に先の事を考えた時、選べる道が多い分に越した事はない。アルト本人が演技の世界に興味が湧いたなら挑戦してみれば良いとも思う。

 そして仕事を続ける中で交友関係が広がって友人知人が増えたなら、いつの日かこうして酒の席で、今度は惚れた女の話を聞かされるのだろうか。
 もしもアルトに真剣に付き合いたい相手が出来れば、流石に現在の同居生活は続けられない。

「失礼致します」

 個室の戸がノックされる。木製トレイを前腕へ乗せた店員が入室すると、出汁の香りが漂ってきた。
 つい今しがたまで腹具合は六分目程度に感じていた筈が、途端に胃の上部にスポンジでも詰まって塞がったかのような錯覚を覚える。

 毎日の自宅の風景の中からアルトが居なくなる、という未来を俺は一度も考えた事がなかったと、たった今初めて気が付いた。

 "今度もまた"、隣に居るものだとばかり思っていた。

「…………?」

 自分の思考に違和感を感じ、しかし何に引っかかったのか直ぐには思い当たらず、眼下に置かれた丼の中で湯気を昇らせている三つ葉とすりおろし生姜が乗った握り飯をぼんやりと眺める。醤油の焦げた香ばしい匂いに、ゆるやかに食欲が戻ってきた。

「すまない、待たせて……お、良いモン頼んでるなァ、二人して」
「あー、茶漬け! その手があった! うわ、オレも食お」

 店員と入れ違いに、ペンギンとシャチが姿を見せる。

「キャプテンのそれ何スか? 焼き握り飯の茶漬け?」
「ああ」
「んじゃオレもそれ、っと。ペンギンは?」
「梅しらす茶漬け。あ、さつま揚げもついでに頼む」

 座布団に膝をつくなりいそいそと注文用タッチパネルを操作するシャチの横で、ペンギンが胡座をかくと自分のスマートフォンを差し出してきた。画面にはカレンダーアプリが表示されている。

「食いながら聞いてください。すみません、仕事のスケジュールが急遽一本変わりました。来週予定してた『トンタッタ』八月号の撮影なんですが、編集部が普段使ってるスタジオが、一昨日の豪雨で一部雨漏りしたらしくて。撮影までに業者の修理が終わる保証が出来ないとの事で、日程と場所をずらしたいと事務所宛に相談が来たそうです。俺が受けたのはその電話でした」
「自社ビル自体古い建物だ、って打ち合わせの時言ってたけど、大変だね」
「変更後の詳細は?」
「三日後に、ドレスローザのアカシアテレビ局内のスタジオで撮ります。向こうの編集や校正スケジュールの兼ね合いで来週金曜までには写真が必要だそうで……こっちも出来れば二人には良いコンディションで臨ませてやりたいんで何とか他の日付に出来ないか電話口で編集部と相談したんですが、その日しか押さえられなかったと」
「急な話だけど、原因が雨漏りじゃ、オレ等もそんな突然言われてもー、みてェな反応もしにくくて。向こうも急いでなるべく近ェスタジオ探してくれたっぽかったし」

 カレンダーの三日後の日付欄には、既にテレビ出演の仕事が一つ入力されている。
 平日正午から始まる生放送のバラエティー番組で、九十分間の内大半の時間は別日に収録された番組レギュラー陣のロケの様子を他のタレントと共にスタジオで観覧し、その際の反応をスタジオ内のカメラを通じて画面の左上、所謂『ワイプ』に時折映されるものだ。合間に多少のトークは挟むが、出演を渋る理由が特に見当たらない内容だったので請けた。

「生放送が終わり次第、二人は先にタクシーで移動、現地でメイク、十七時に撮影開始の予定です。さっきサボにも連絡がついて、都合つけて来てくれるそうなのでヘアメイクは当初の予定通りサボです」
「オレ等はGステのタイムテーブルとか確認してから合流しますね」

 スプーンで握り飯を崩し、刻み海苔や白胡麻と一緒くたに掬って口に運ぶ。醤油の塩気と出汁の旨味が纏めて舌の上に広がった。

「サボさんから変更しないなら良かった。借りてるワックスのサンプル返せるタイミングが直近だとこの撮影だけだから。……アカシアか……」
「行きてェ店でもあるのか」

 胡麻ダレのかかる真鯛の刺身を茶漬けの中に入れながらアルトが呟く。その地名をなぞる響きが、テレビやネットで気になる店を見つけて所在地を確認した時のものに酷似していて尋ねると、アルトは此方を見上げて若干唇を引き結んだ。
 それから期待を表したいのか反対に誤魔化したいのか、へらりと顔を綻ばせる。

「……何かの大会で金賞だか優勝だか獲ったシェフの居るパエリア専門店が、確か本店はアカシアにあったかなーと思って……。夕飯、其処でも良い? テイクアウト出来る筈だから」

 もし。似たような強請りの台詞を同じ態度と表情で目の前のペンギン達や顔馴染みのスタッフに言われたとしても、頷きはするが、単に余程その店が気になるのかとしか思わないだろう。
 ならばアルトと同様に料理や食事をする事が好きな女に言われたら、と考えて、直ぐに無意味な想像だと思考を打ち消す。

「つまみは家で作ったモンが食いてェ」
「じゃあ、久しぶりにアヒージョにしようか」

 首を縦に振ると、アルトの表情が一層和らいだ。アカシアは態々行くには少し距離がある為、来店を半ば諦めていたのかもしれない。
 他の人間とアルトを比べても仕方がない。これまでの付き合いがある上に生活空間を共にしても構わないとさえ感じている相手なのだから、俺の中での許容範囲がある程度広く、こうして願望が垣間見えた時に叶えてやろうかという気になるのは自然な事だ。

 いずれアルトがこの笑顔を向けるのは俺ではなくなるのだろうが────振り払ったつもりで居た思考の再来には音を立てず吐息を逃がして前を向くと、天井を見上げるペンギンが居た。

「ペンギンさんどうしたの?」
「説明しよう。コイツはオレの相棒、ペンギン。アルトが何かキャプテンに強請ったり甘えたりする様子を目の当たりにすると、軽率に感極まる情緒の持ち主だ」
「ちょっと何言ってるか分かんない」
「自分でも驚く程の感動が俺を襲う……」
「ちょっと何言ってるか分かんない」
 



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