「アルトはさ、店でアイテムを勧められたとして、何となくこの人が言うなら買おうかな、みたいになる店員って居ないか? 若しくはその逆でも」
「今使ってるイヤホンがそれでした。電器店に新しいの探しに行って、俺がこういう感じの音で聴きたいって希望を言ったら、店員さんが直ぐに何個か候補選んで違いを説明してくれて……何だろう、親身だけど、その加減が丁度良かった。値段は予算オーバーだったんですけど、高い物を買わされそうになってるとは感じなくて。会計の時はちょっと奮発しちゃったワクワク感すらありました」

 仄かにミントの香りを含んだミストでローの前髪が濡らされ、手櫛で梳かれては指先で軽くつままれて、分け目と束感が作られてゆく。

「おれ達ヘアメイクにも当てはまる話ではあるが、スタイリストはセンスが良いだけじゃ仕事の継続と安定には繋がらねェよ。あのスタイリストは専属になれる程度にはそのブランドのコンセプトと感性が近くて、実際に組み立ては巧いのかもしれねェけど、配慮が足りてない」
「現にコイツは香水で参ってる訳だしな」
「な。人と近い距離で長時間接する仕事だからこそ、相手も気持ち良く仕事が出来るように考えて振る舞える奴の方が、次もこの人に頼もうかって思って貰える確率は上がるだろ。そもそも他人を輝かせる仕事なんだし、おれは現場で自分をアピールするならその仕事相手の良さを引き出すのが一番効果があると思ってる。二人の衣装、よく似合ってるとは思うが、またアイツと一緒に仕事したいか?」

 今度は鏡の中のローと目が合う。斜め前に映るローは口角の片側だけを上げた。

「……仮にあの人の香水の好みが変わったとしても、考えちゃいますね」

 少々悪い笑みにつられて、苦笑いが浮かぶ。

 例えば声のトーン、仕種、表情の移り変わり。そういったものの"作り方"が、幾らか業界人寄りであるように見えたのだ。自分をより良く見せようという雰囲気が何処となく伝わった。

 あくまでそれは俺の主観でしかないし、自己の印象を良いものにしようと努めるのは勿論良い事だ。
 ただし仕事相手から自分という個人に向けて一直線に好意が向けられていると肌で感じた俺の胸中には、喜びではなく困惑が先に来た。

「ああいう人が良い、って男も居るとは思いますけどね」
「居るには居るだろうが、アルトがそうじゃなくてほっとしてるよ。ロー、アイロンあてるから暫くそのままな」
「ああ」

 スリムなストレートアイロンがローの前髪を挟む。サボが手首をゆっくり捻っては離す動作を繰り返してゆく内に、生え際が若干覗く、無造作にかきあげたような外見に変化してきた。

「単純に握手会で会ったファンの子がああいう態度だったとかなら、こんなに喜んでくれるなんて嬉しいなあって素直に思えそうなのに……」
「そりゃお前、大半のファンの子はアルト達に直接会えただけで嬉しいと本心で思ってるからで、見返りやそれ以上の発展を本気で望んでるのなんてほんの一握りだろ。一括りに好意とは言っても、下心がねェ方が断然受け取りやすい。なァ、ロー?」
「同感だ。さっきの奴は『女』を前に出し過ぎてた」

 そう会話が交わされる間にもサボの片手がローの額から目元にかけてを覆い、反対の手は前髪全体に整髪スプレーをかけ、ドライヤーの弱い温風を丁寧に浴びせて固めてゆく。
 頭頂部から後ろにかけてはジェルワックスを着けた両手が毛先に動きを付け、もう一度同じ手順で全体を固まらせると、初めてサボが手を止めた。

「髪は終わり、と。気になるところあるか?」
「……いや、このままで良い」
「良かった。おれがローの髪弄るのは久しぶりだったから、一発合格は嬉しいな」

 普段のローの前髪は割と真っ直ぐで、下に向かってすとんと落ちるような毛流れだが、今はゆるやかな流線を描きながら多少横に流されている。分け目の根元が立ち上がっているだけで雰囲気が変わった。

「サボさん凄い。ロー格好良い……、これ俺要る?」

 鏡像を見つめる自分の口が、そう感想を漏らす。
 顔立ちから体格まで容姿の系統が俺とローでは完全に違う為、需要のある、俗に言う『刺さる』層も異なると理解はしているが、それにしても整った顔だと未だに心底思う。
 今回は有難い事に雑誌の表紙、特集ページの見開き、各自のページと計四枚の写真を掲載して貰える事になっているが、全てローだけでも良かったのではと思う程だ。

 決してひがみや自虐ではないがそんな事を言った俺に、ローは首を傾けて視線を寄越すとテーブルへスマートフォンを置き、自由にした指で此方の鼻をぐっとつまんできた。

「ぃ……ッ!? 意外なまでに痛い!」
「お前以外の奴と写れと言われたら、この仕事自体請けてねェよ」
「へっ。……そう、なの……?」
「ああ」

 思いがけない一言に、じんとした鼻の痛みが途端に引いた気がして、真横に居る本物のローを見上げる。
 何せローは長身で、筋骨隆々でも痩躯でもない引き締まった肉体を維持していて、横顔の形も綺麗だ。知名度も上がってきた事で、刺青の存在により映像作品への出演は限られるかもしれない分、こうしたイメージモデルのようなオファーはきっと増える。既にブランドジュエリーとのコラボリングを作った前例もあるのだ。

「……ピンでのオファーだったら?」
「内容による。基本的にはBEPOとしての音楽活動に集中していてェし、インタビューはともかく、他は経験値として必要だと感じた企画でなけりゃ乗らねェだろうな。あと、お前に黙って請ける事はしない」
「…………」

 ぽかん、と横顔を眺めてしまう。お互いソロアーティストとしての側面を持つ予定と意思がない事は以前に話したが、そういえばそれ以外の芸能活動の展望についてきちんと話し合った事はなかった。

 もうどんな仕事をするにしてもローが隣に居てくれる事が当たり前になっていて、けれどもローのスペックを考えれば今後は単独でも活躍する姿を見る機会も増えるのだろうと漠然と考えていた。
 そしてそうなるのは、当然の事ぐらいにも思っていた。

 その筈なのに、ローがBEPOとしての活動に専念したいと思ってくれていると知って──目下腹の底から湧き出てきている感情の名は、まぎれもなく嬉しさと安堵だ。

「おーい、それ以上はこの撮影終わってからお前等だけでゆっくり話してくれるか。おれが聞いても構わねェ内容に思えなくなってきた。ほら、アルト前向いてくれ。ローはスプレー完全に乾くまでのんびりしてて大丈夫だ」
「あ、はい。すみません」
「いや、謝る事じゃねェよ。また時間がある時に二人で話した方が良さそうに思ったからな」

 サボに声を掛けられて支度中だと思い出し、顔の向きを正面に戻す。横では椅子の脚と床の擦れる音がして、鏡の中でローが後ろを横切った。

「ケータリング見てくる。何か要るか」
「カフェオレ欲しいな」
「分かった」

 前髪がざっくりと掬われて頭の天辺にピンで留められ、サイドのみが先刻のローと同様に軽く濡らされる。一旦ブローで整えられてドライヤーの音が止むと、サボが真横に移動してきた。

「二人が担当するのが夏の新作だから、エアリーヘアで撮りたいって『トンタッタ』側からの注文でな。アルトも今日は結構弄るぞ」
「サボさん楽しそう」
「腕の見せどころだからな。雑誌買った奴の二人の髪型に対する感想は、そのまんまおれへの評価だろ。今回はどっちも初めて試すアレンジだし」

 髪が端から少量ずつ取られてカールアイロンで挟まれ、くん、と柔く引かれる感触と共に本体へ巻き付けられては離される。普段は右頬の輪郭に沿っているサイドの髪が次々と緩いウェーブを描いてゆくのは新鮮な光景だ。

「そういえば、何だかんだCM撮影以外で新しい髪型ってチャレンジしてこなかったんですよね……守りに入り過ぎてます?」
「世間に二人のビジュアルイメージを浸透させるって意味では、コロコロ変えたりしなかったのは良かったんじゃねェか? BEPOの曲をきちんと聴いた事がなくても、若い世代だったら写真見せられれば短髪の二連ピアスがロー、耳掛けアシメがアルトって答えられる奴は多いと思うぞ。それはこれまでの撮影でもやたらに外見を変えてこなかったから表れた成果だろうし」
「そうなら嬉しいなあ」

 活動内容が手広くはないだけに、きっかけが曲でも見た目でも、先ずBEPOに興味を持って貰えるなら有難い事ではある。
 けれどもデビュー当初の頃から応援してくれているのであろうファンの子達が他の髪型も見てみたいと各公式SNSへコメントしているのもこの目で見ている事もあって、このままで良いのかと思い始めてはいたのだ。

「ま、外見についてはおれよりも先ずローと話した方が良い。今回みたいなファッション系の仕事は依頼元のイメージに寄せていく必要もあるし、おれも提案はさせて貰うけど、BEPOのメインビジュアルは二人のものだ」
「そうですね。ローの疲れ具合見つつ、話せそうなら帰りにでも話してみます」
「お前等本当に仲が良いよな。一緒に住んでるなら一人きりの時間もそんなに確保出来ないだろうに、移動を別にしたりとかしないんだろ?」

 前髪を固定していたピンが外され、視界に数本の影が被さった。掌へミストを吹き付けたサボの手が横から伸びてきたので瞼を伏せる。

「一人の時間が欲しい……とは、あんまり思わないですね。どっちかだけがジム行ったりとか寝てたりとか、そういう事はあるんで、その位で充分と言うか。寝室も別々ですし。一緒に居て楽だから、同じ空間で過ごすのは全然苦じゃないです」
「ヘェー……でもそれぐらいの相手じゃないと、仕事で常に一緒なのに更に同じ家に住もうとはならねェか。お互いそこまで気の合う奴に恵まれると、いざ彼女と同棲とか結婚ってなった時に案外大変かもな。男同士だから上手くやれてる部分もあるだろ?」
「…………。いや、この前柔軟剤どれ買うかで意見割れましたよ」
「ハハハ、平和だな。アルトが折れたのか?」
「ローが譲ってくれました」

 サボの言葉に、視えない手にゆっくりと肺を掴まれたかのような感覚に見舞われた。

 同棲。結婚。──それ等の単語の前に「ローと誰かが」という言葉を付け足して脳裏に浮かべた事など、これまで一度もなかった。
 数日前の飲みの席でローに惚れられた相手は幸せだろうなとふと思った時も、今現在のローにそうした特定の相手が居ないからか、其処までの具体的な想像には行き着いていなかった。

 あれだけ芯にまろやかな優しさを湛えた人が、誰かに愛されない訳がないのに。ローの良さに気付く人が居ない筈がないのに。
 一体いつから、この先もずっとローが傍に居てくれると無根拠に信じてしまっていたのだろう。

 どうして俺は今、大切な人が一つの確かな幸せを掴む未来に、心を踊らせていないのだろう。

「まだ時間に余裕はあるが、メイクの前に何か食べるか?」
「先にメイクしちゃって大丈夫です。小腹空いてるんですけど、夕飯を此処の近くのパエリア専門店で買って帰ろうと思ってるから、あんまりしっかり食べるのもなって」
「この辺にパエリアの店あるのか。おれドレスローザには仕事以外でそんなに来ねェからメシ屋に疎くてな」
「シュカトルテってお店なんで、美味しかったら話聞いてください」

 どうして話題が変わった事に、何となくほっとしているのだろう。
 



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