「ペンギンは事務所から電話かかってきて、シャチはトイレだ」 目の前に座っていたシャチが席を立った事に全く気付かなかった。三人に比べればかなりペースを抑えて呑んでいたつもりなのだが、ローの言う通り酔ったのかもしれない。 「…………ちょっと、元カノの事思い出してた。彼氏にしたいなんて思って貰える程の人間じゃないんだけどな、俺」 「さっきの話か」 焼き鳥の串をローが長い指の間に挟んで、くるくると回して遊んでいる。 「何か、相手に合わせてイエス言ってばっかで。面倒臭いからとかじゃなくて、俺なりに向こうの希望に応えたかっただけなんだけど」 「献立はこっちの要望を聞くが、それを作る材料の買い物で俺が適当に選んで持ってくると主婦並みに産地と値段チェックして、時には不合格言い渡すお前がか」 「それはローに美味しい物食べて貰いたいけど、家計を食費で圧迫したくはないからだし。許して。叶える立場の方が楽だって何処かで思ってたのかなあ……何か、自分からどうこうしたい、こうして欲しいって思った記憶ないんだよ」 「食パン一斤の為に、朝七時に甲斐甲斐しくパン嫌いの人間を起こすお前がか」 「んぐ、ふッ」 予想外の角度から浴びた一撃にキウイサワーを吹きそうになった。 水分を多く含み、耳までしっとりと柔らかで甘みの強い食パンの専門店が隣町にオープンしたのは昨日の事だ。一号店はスカイピアにあって気軽に行ける距離ではなく、この二号店のオープン初日は平日とあって早めに行けば買えそうだと、早起きした上でローも連れて仕事の前に並んだ。 言われてみれば、前世の共有という特殊な繋がりがあるにせよ俺が最も甘えているのはローである。 「そりゃ悪いとは思ったし、だからお礼に昨日の夕飯頑張ったよ……え、それ何の笑い?」 不意に顔を逸らしたかと思えば喉をくつくつと低く鳴らして笑うローの感情の動きが分からず、背筋を屈めて下から見上げる。 ローは顎を支えていた片手を口元へ遣り、指の間から緩い弧を描く唇を覗かせながら薄灰色の瞳で俺を見て串を皿に置くと、片手を伸ばしてきた。 「ああ、美味かったよ。どうせ、その女には優し過ぎるだの、それか求めちゃくれねェだの言われたんじゃねェのか」 どうやら髪の毛が数本ピアスに引っかかっていたようで、ローの人差し指の先が俺の耳から頬にかけての肌を掠めると同時に、耳朶の辺りで細い糸が動くような感覚が伝わる。 「……何で」 確かにそれ等の言葉を穏やかとは言いにくい語調で告げられた覚えはあるが、事も無げに当てられて驚く。 「お前は多分、他人の声色や表情を自覚以上に気にしてるし、其処に混ざってるモンを察する感覚が鋭い。だから例えば女から此処に行きてェだのコレが食いてェだの言われると、それ等の発言はお前を含めた二人の事を考えての物なのか完全にテメェ自身を優先した物か、無意識に勘づいちまう。まァ、それでも初めの内はお前の性格からしてそういう女の我が儘も聞いてやるんだろうが……向こうがお前の許容に慣れて胡座をかけば、そりゃお前の気持ちは薄れるだろ。叶えて与えるだけ、強請って受け取るだけの関係を指して恋人とは言わねェ」 思ってもみなかった観点からつらつらと見解を述べられてただ耳を傾けるのみの俺を横目に、ローはメニューを引き寄せてご飯ものが載るページを開く。 「付き合ってくれと言ったのも女の方だろ」 「なん、何で!? いや話聞いて貰ってるのにアレだけど、当てるのは何で!?」 「お前は好意で押してくる奴に弱いからな」 何も言い返せない。 「お前自身の欲が育たなかったんなら、向こうがお前にもっと情を注ぎたいと思わせる為の努力をサボった所もあったんだろ。お前の価値に気付き終いだった奴なんざ忘れろ」 最後に足された一言は少し意外で、けれども確かに頑なに記憶の表層へ留めておかなければいけない程の戒めたる経験かと言われれば違う気はする。 何より、間違いなくローは慰めてくれているのだろう。同僚だった女性への対応に苦慮した時は「恋人なのに接し方に悩んで疲れるなんて」と少なからず罪悪感もあっただけに、ローの言葉で幾らか気が楽になった。価値、とまで言われて照れくささもある。 元同僚からすれば俺は物足りない彼氏だったろうが、それを悔しいとは思っていないのだ。ただし決して後味の良い別れ方ではなかったからこそ、こんな風に言って貰えて心の強張りが解れた。 当時の俺にも反省すべき点は確実にあったし、何も悪くないなどと開き直るつもりはないが、身近な人から肯定と慰めを躊躇なく与えられればやはり嬉しくはなってしまう。 「……ありがと」 「ん」 「でも、結果向こうに別れようって言わせたからな……。何でもいいよ、って頷くのも良くないんだなとは思っとく……」 「何でも? この前俺が豚バラブロック買おうとしたら駄目って言ったお前がか」 「いや国産の一パック千三百ベリーの奴を二個はちょっと。あれ、実際作ったら出来上がる角煮せいぜい十個から十二個だからね。小さく切り過ぎると煮た時に肉が縮んで食感が悪くなるし。ていうかさっきから食べ物に関する事例しか挙がらないな!? えっごめん、食卓に関して何か我慢させてる!?」 「してねェよ。角煮は食いてェが」 「作る……」 「お前、やっぱり少しは酔ってるだろ」 いつの間にか、ローはまたきちんと俺の顔を見て話に付き合ってくれていた。 元恋人と比べるのも可笑しな話だが、ユニット結成や同居など、彼女達よりも遥かに距離の近しい関係で居てもローと共に過ごす事に何等苦労を伴うように感じないのはこういう所なのだろうなと思う。 今でもふとした拍子に脳裏を撫でる前世の思い出の中で、その背景が屋外である場合、ローが自分の後ろに居た事が殆どない。 いつも、いつでも、横顔や背中に既視感を得てばかりだ。先頭へ立って、時には隣に並んで歩んでくれる人だった事は疑いようもない。 同居生活にしても引っ越す前から、食事は俺が作るが洗い物はローがしてくれて、掃除や洗濯も気付いたら手伝ってくれる所は変わっていない。お蔭で日用品の減り具合はお互いに何となく把握出来ているから買い忘れや買い過ぎもあまり起こらないし、疲れた時に助力を頼んだり予定の変更を話すにも気まずさが少ない。 同居を始めるタイミングで家事の分担について其処まで厳密に何もかもを決めはしなかったので、はっきり俺の担当だと定まっているのは料理ぐらいだ。 よって他の家事に対しては義務感が生じにくく、それ故に気付けば風呂掃除やごみ捨てが済まされていたりすると自然と礼が言葉になるし、前回はローにやって貰ったのだから今日は俺がやろうといった気にもなれる。 ローの言動の端々から、此方を見てくれている事が伝わるのだ。何かを押し付けられていると感じた事がない。 同居人が居るから独り身の寂しさを感じにくいのもあるだろう。だが友人や仲間と恋人はまた別物の筈だ。 それでも俺が恋をしたい、恋仲の相手が欲しいと思わないのはそうした欲が湧かない程ローと居ると過不足なく満たされて、仕事の忙しさと相俟って毎日が充実しているからなのかもしれないと思い至る。 「……ローが誰かに惚れたら、その人絶対幸せだよなあ」 頭に浮かんだものが、ぽろりと零れた。 俺でさえこんなに気が許せると言うか、安心するのだ。和むだとか癒されるといった感覚とは少し違うが、何かあったらこうして目を見て話を聞いて、一緒に考えてくれる筈だと素直に信じられる。この人の頼みや願いだったら応えたいと思わせてくれる人だ。 ローが恋情で以て想うなら、相手はさぞ幸福になるだろう。 キウイの種が底に沈殿する自分の酒のグラスを眺めつつ半ば感心混じりにそう思っていると、視界の中にメニューが割り込んできた。 「シメに何か食うのか」 「あー、どうしよ。焼きおにぎり……、うーん、胡麻ダレ鯛茶漬け頼もうかな。……あれ、そういえばペンギンさんもシャチも全然戻って来ないね?」 頭の中が、靄がかかっているような感じがする。やはり酔ったらしい。 back |