終章 白昼夢は腹の中


「アルト」

 とん、と指先で頬をつつかれる。
 瞼を開けていないのに周囲が明るい事だけは何となく分かるような、陽が昇りきった気配を朧に捉えながらも微睡んでいた意識が、頭上から降ってきた低音で引き上げられた。

 寝起きで温まっている片手を擡げ、手探りで間近に在る筈の手首へ軽く触れて、呼びかけが聞こえている事を告げる。

「俺はもう出るから、お前も出かけるならフックの鍵を使え」
「ん……、分かった……」

 その言葉で、今が既に正午近い時刻だと知る。休日とは言えかなりのんびりと熟睡していたようだ。

 引っ越すにあたって、スペアキーは一本だけ作った。日頃あまり出番のないそれが玄関脇のフックにぶら下がる光景を思い出しつつ、踵を返すローを追って身を起こすと、まだ眠気が居座って動きの鈍い瞼を何度か開閉させて裸足のままで廊下に出る。

 室内と廊下の室温差は近頃殆ど感じなくなってきていて、夏が近いのかとふと気付く。去年の夏はBEPOとして本格的に始動し、何かと忙しくも充実した時期であったからか、不思議と暑さに呻いた記憶が薄い。これまで以上に体調に気を付けて過ごした恩恵として夏バテもしなかった。

「帰り七時くらいになるんだっけ」
「予定ではそうだな」
「夜、どうする? 何か食べたい物ある?」

 スニーカーを履く背にそう問いかける。

 この前俺個人のツィッターにローとサングラスを買いに来たという内容を店の写真付きで投稿したところ、それを見た眼鏡ブランドから商品をプロデュースして欲しいとの依頼が会社を通じて送られてきた。
 俺はファッションアイテムとしての眼鏡もサングラスも持っていないので企画に関わるのは辞退させて貰い、このコラボはローが個人で携わる事になった。

 先週デザイン案の絞り込みの為にブランド本社へ出向いたが、今日はレンズの色やフレームの素材、弦にスタッズを着ける予定なのでその質感など、実物のサンプルを目で見て組み合わせを考えるらしい。
 終われば真っ直ぐ帰るとは昨日の内に聞いているものの、本社が在るのはシャボンディの端の方の地区だ。打ち合わせが長引き、且つ帰り道が混んでいれば家に着くのは予定より遅くなる可能性もあるだろう。ローが夕食を家で食べるつもりで居てくれているとしたらせめてリクエストに応えるぐらいはしたい。

 ローはシューズラックの最上段から車のキーを取りつつ宙を眺めた後、直ぐ後ろまで追い付いた俺の方を振り向いた。

「一日ぐらいのんびりしても構わねェぞ。向こうが商品名や刻印にBEPOの名前を使いたがるかどうかで商標登録周りの話もしなきゃならねェから今日は行く途中でペンギンを拾ってくし、アイツはよくお前の好きそうな店を気にしてるだろ。ペンギンが本社の近くで良さそうな所を知ってりゃ、其処で飯を買って来ても良い」
「あー……。……それも良いかなとは思うんだけど、でも、……やっぱり作りたいな」

 出先で弁当を買うのは好きだ。デパートや百貨店の地下にあるような惣菜フロアはつい長居してしまうし、敢えて何を買うかは人に任せて到着を待つのも楽しい。

 ただ、ローの事を人としてだけではなく恋愛対象としても好きだという自分の感情を認めて以来、作った料理を食べて貰える事が一層嬉しいと感じるようになった。
 外食の気分になる時もあるが、無性に手料理を食べて欲しくなる事もある。今は後者の気持ちが強い。

 両想いだと知ってからというもの、改めて好いた人と生活を共にしている自分の幸運な現状を認識する度、面映ゆい心地になる。

「なら、ハンバーグが食いてェ」
「煮込みハンバーグ?」
「和風」
「分かった。折角ならペンギンさんも夕飯に呼ぶ?」

 冷蔵庫に大根はあった筈だが、大葉や付け合わせのきのこ類の買い置きがない。
 手持ちの現金は足りるだろうかと直近で財布を開いた時の記憶を辿りつつ何の気なしにそう尋ねて視線を上げた途端、薄灰色の双眸がすうっ、と細められた。

「……?」

 何かローの中で引っかかる事があった時の表情に、首を傾げる。今の発言の何がローにそんな顔を引き出させたのかがさっぱり分からない。

 それまで腰を捻って顔だけ此方に振り返らせる形で応じていたローは身体ごと向き直り、キーを指に提げた片手を己の腰へ宛てがいつつ、俺と同じ角度で僅かに首を傾けた。

「俺は、お前と二人で過ごすつもりで居たんだが」

 低音が静かに象った音の羅列に、脳内で出来上がりつつあった買い物リストが消し飛ばされた。

「……そう、だね。そうしよっか……」

 一拍挟んで、頷く。
 恋人にこう言われて尚、食事の人数は多い方が楽しいだのペンギンも同じスケジュールをこなして帰宅する頃には空腹だからだの、的外れな提案をする程情緒に欠けているつもりはない。

 けれどもローから告げられるこの手の発言に慣れるには、まだ、時間が要りそうだ。此処で即座に「嬉しい」と答えて破顔すれば幾分可愛げもあるだろうに、視線の置き所は何処にすれば良いやら定まらないし、両耳は勝手に熱くなる。

 ローのこうした発言は俺にとっては大概が不意打ちだ。
 そして予期せぬ嬉しさのあまり返す言葉に詰まる事がある。おまけに気を抜くと顔が不格好に緩みそうで、つい口元にも力が入る。今がまさにその状態だ。

 ローが二人で居る時間を大切にしてくれているような発言をした時にこんな曖昧な反応ばかりしていたら嬉しさも何も伝わらないだろうに、と嘆く己の思考が面倒くさい。自分自身の事は割と感情表現が素直に出来る人間だと思っていたし、少し前までそうであった筈なのに、ロー相手だと上手くいかない。嬉しさを噛み締めるのでまず手一杯になる。

 この脳内反省会も初めてではないが、帰りを心待ちにしている事はきちんと口に出そうと改めてローの顔を見上げ────ほぼ同じタイミングで伸びてきた片手に頬を包まれた。意識が顔の片側に逸れるも、ローの表情に視線が吸い寄せられる。
 眉間の皺が少し和らいでいて、瞳が穏やかなものを孕んでいると不思議と分かる。

 形の良い唇の両端がほんの僅かに引き上げられた、仄かな、しかし確かなその笑みをただ黙って見つめてしまう。

「お前はもう少し自分が、内心が顔に出やすい人間だと自覚した方が良いぞ」
「え? うん……?」

 肌に添う人差し指で目尻を撫でられながらそう言われ、とりあえず返事をする。だが何の話だと訊く前に、再びローの唇が開かれた。

「まァ、本当にもう少しで良いが。表情を思い通りに操れるようになられても困る。お前は考え事をする時によく視線があちこちうろつくから今も何かしら考えちゃいたんだろうが、さっきの顔で充分だ。満更でもねェらしい事は伝わった」
「っいや、満更でもって言うか、嬉しいよ。ちゃんと嬉しい。ちゃんとって言い方も変だけど……」

 咄嗟に訂正する。ローの選んだ言い様のニュアンスは、先刻の言葉を貰った時に俺が感じたこそばゆい程の高揚を表すには足りない。

 そもそも同居している以上は片方が外泊や朝帰りでもしない限り毎晩同じ屋根の下で過ごすのだが、惚れた相手が自分と一緒に居る事を望んでくれているとこうして感じ取れるのは、やはり嬉しい。

 夕飯の席にペンギンを呼ぶかという案は自然と口から出ていた。それは反省したい。
 たった一言で、俺はこんなに嬉しい思いをしている。
 もし同じ言葉や態度を贈れば、ローも同じような気持ちになってくれるのだとしたら。照れくさいだの気恥ずかしいだのと口ごもるのはあまりに勿体ない。

「帰ってくるの、待ってる」
「……そうか」
「うん」

 頬へ触れている掌からじんわりと温もりが伝う。
 あたたかい。
 他人の体温を心地好いと感じるのはやはりローが初めてだし、ローの声がやけにまろやかに聴こえて、このまま延々と立ち尽くして居られそうだとさえ思う。

 けれどもローはこれから仕事だ。あと五秒だけ経ったら離れようと若干諦めの悪い事を考える。
 ──その矢先、不意に微かな衣擦れの音を連れてローが背筋を屈めた。

「っ、」

 淡いグレーの虹彩がよく見える程近付く整った顔に、思わず両目を瞑る。

 景色が真っ暗になる中でローの手が頬から離れ、前髪が掻き上げられたかと思うと額の真ん中へ柔らかいものが触れた。

 その感触も、直ぐに消える。
 ほっとしたような、首を傾げたいような何とも言い難い気持ちで瞼を開けると、ローの瞳はまだ目の前に在った。

「こっちだと思ったのか」

 指の背が、一瞬だけ俺の下唇を撫でる。
 何を問われたか理解した途端に、首から耳元まで、あっという間に血管の中を熱が駆け昇った。

「……心の準備を、してなかったから、それはまた今度で大丈夫……」

 何か言わなければ、と思って口から出てきたのはそんな言葉だった。本当にこの台詞で良いのか我ながら疑問だが事実ではある。

 寝室は相変わらず別だし、ソファーへ並んで座った時にローが俺の肩を抱く事も、俺がローの腕に抱き着く事もない。
 その辺の距離感に対する感覚にローとの間で大きなずれが生じていないのは喜ばしいものの、お互い四六時中相手にひっついていたいような性分ではないからか、恋人らしいスキンシップはまだ殆どない。座っているローに呼ばれて背後から手元を覗く時に俺がローの頭へ頬を寄せたり、ふとした拍子にローの腕の中に招かれる事はあるが、それ位だ。

 そしてあの夜から二週間が過ぎようとしている今日に至るまで、あれ以来キスはしていない。

 何でもないような場面で、ごく自然に「したいな」と思った時もあった。
 ただし口付けともなると自分がその気でもローが同じ気持ちかどうかなど外から見て解る筈もなく、そもそもローはそうしたスキンシップを日頃から望んでいるのかと考えてしまって結局動けていない。

 過去に俺自身が『そういう気分ではないのに雰囲気と相手の態度で断る事も出来ず、気乗りしない事への罪悪感と気まずさを持ったまま応じた』という経験がある為に慎重になり過ぎているだけなのだろう。
 自分がこんなに面倒な人間だと思っていなかったので、この手の思考に捕らわれる度げんなりする。
 したいならすれば良いだろうに情けないと思う反面、もしもローに困惑の眼で見られたらという仮定の憂いが拭えない。

「心の準備」

 発言をそのまま低音で繰り返されて最早居た堪れない。
 ローが動いた時にキスを連想した事も看破されていそうで、許されるなら回れ右でベッドに潜りたい。

「前以て言っておけば、して良いんだな?」
「へっ?」
「じゃあ帰ったらな」
「えっ」
「そろそろ出ねェとマズい。玄関の鍵頼む」

 言うが早いが、ローは玄関を開けてさっさと出て行った。

「…………いや、して良いんだなって、え? て言うか帰ったら、……帰ったらって……」

 いきなりキスの約束を取り付けられた。

 もうこの場に居ない恋人へ向けた言葉を一人で零しながら、無意識に中指がローの触れた下唇をなぞる。
 窺うようなローの言い方に、まさか今までにも雰囲気がその方向に流れかけたのに俺が気付かず空気を壊してしまっていたのかと記憶を漁る以前に、ローが触れ合いを求めてくれていたらしい事に対する嬉しさと動揺が大きい。

 頬が熱い。
 俺は、どんな顔をしてローを見送ったのだろう。

「あー……クソ、格好悪いな俺……。行ってらっしゃいも言いそびれたし」

 結果的にローの気持ちが分かったのは良い。心の準備云々の台詞が悔やまれる。

 ローがアクションを起こす事だけを期待して待っているつもりなどなかったが、様子見はしていた。
 それは、ローも同じだったかもしれないのだ。

 同性との交際など互いに互いが初めてで、過去の経験が活きる場面は皆無に等しい。その前提が念頭から抜けていた。
 抱擁以上のスキンシップも、相手がローならば抵抗も嫌悪もなく単純に嬉しいだろう事も、俺は言葉にしていないのだから伝わる訳がない。

 口付ける箇所の話になった時、勢いに任せて正直に頷いてしまえば良かった。たった数分の間に何回似たような後悔を抱くのか。
 どう思われるか恐れるより、自分の気持ちが正しく伝わらない事こそを怖がるべきだ。

「とりあえず見送りだけでも送っとこう……」

 寝室に戻り、枕の横に置いてあるスマートフォンを手に取る。
 開いたメッセージアプリの中からローのアカウントを選んで見送りの挨拶を入力したが、紙飛行機を模した送信アイコンを押す前で親指が止まった。

 出来る限り素直になろう、と改めて思ったばかりだ。

「…………」

 少しだけ考えて、一文を付け足す。
 画面にメッセージが表示された事を確認して液晶を消灯し、息を一つ吐いた。

 傍に居られるだけでこんなに幸せなのだ。そう思わせてくれる相手に好いて貰える為の努力なら、幾らでもしたい。
 



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