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 上着のポケットに入れている手の中で、スマートフォンが『ヴッ』と一度だけ振動した。電話の着信と一部のアプリしか鳴動を伴う通知が来ないように設定しているので、これだけでメッセージアプリかカレンダーシェアアプリのどちらかに投稿があったと判る。

 歩行者と車とでそれぞれ信号が切り替わるタイミングが別れる交差点に差しかかり、横断歩道前で立ち止まると端末を取り出す。

 ロック画面には今しがたアルトから新着メッセージが送られた通知が表示されていた。買い物は本人が行くつもりで居るようだから買い出しを頼む類いの連絡ではなく、恐らく見送りの挨拶だ。
 暗証番号を入力し、ホーム画面上のアイコンを改めてタップしてメッセージを表示する。

『いってらっしゃい。早く帰って来てね』

 思わず、来た道を振り返る。
 新居は地上二十階建てで、此処からでもマンションの上部は難無く見えるが、自分の住む部屋までは流石に視認出来ない。

「…………」

 液晶の中の文字列を見下ろす。
 たった二行の言葉達ではあるのだが、アルトが俺の帰りを待ち侘びるような事をこういう形で告げてきたのは、初だ。

 勿論今までは互いにそんな事を態々言うような関係ではなかったのもあるだろうが、今このタイミングでこう言われてしまうと、言葉の裏を都合良く深読みしたくなる。
 先刻、ほぼ予告のような発言を、面と向かって言い置いてきたのだ。その上でこういうメッセージを寄越してくるのだから、いざ帰宅したら拒まれるという心配は要らないのだろう。

 最初に俺の私欲を優先する真似をしたが故に、せめて二度目は──正確に数えるなら三度目なのだが──アルトが望んだ時にと思ったは良いが、中々どうして機を捉えるのが難しかった。
 惚れたと自覚してしまえば世間で言う贔屓目、欲目と呼ばれるものが俺にも芽生えたようで、ふとした瞬間のアルトの安心しきった表情や瞳の奥に灯っている恋情を見ると素直にその存在を愛おしいと感じる事が増えた。

 ただし元々アルトが俺に対してはそれなりに近しい距離に居る事を許していたところもあり、明らかにリラックスしている様子の時にアルトが触れ合いをも求めているかどうかは若干図りかねていた。
 延々と我慢するつもりはないのだが、俺に比べればアルトはまだ照れの感情が先に浮かび上がりやすいように見える。

 玄関でのやり取りにしてもそうだ。普段から食事を作らせてばかりだからと他意なく弁当の持ち帰りを提案すれば「作りたい」などといじらしい事を言う癖、二人で過ごしたいと聞けば耳朶を色付かせる。

 自分の声色が、表情が、眼差しが。折に触れて俺を好きだと告げている自覚がすっぽりと欠けている無警戒な恋人など、ある意味厄介極まりない。
 信頼を寄せられていると解るのは俺自身も安心するし、同性相手に何を警戒するのかと言われればそうなのだが、いつまでも無防備で居られてもな、と思っていたところにこの一文だ。

 そもそも俺は、自分よりも色素の濃いアルトの瞳に縋るように見上げられただけで衝動に負けて唇を重ねる程度には、恐らく欲を内側に留めておく為の蓋が開きやすい。
 そしてその事が、アルトに伝わっている気配は全くない。ただしそれはアルトが鈍感であるというよりも、単に俺が言動で以てそうと示していないからだ。

 膝を突き合わせてする話ではないと思っていたが、先程の反応を思い返すと案外今の内に諸々伝えておいた方が良さそうだ。常に腕の中に収めていたいとまでは思っていないが、だからと言って視界の中に居てくれるだけで良いという訳でもない。
 少なくとも、アルトが自分自身も知らない己というものを俺に暴かれて引き摺り出される想像ぐらいはさせてやった方が良いのだろう。
 あいつは少々、俺という人間に対して、油断し過ぎている。

「……ったく。元々そう気が長くねェんだぞ、こっちは」

 簡潔に『行ってくる。疲れがあるなら寝てろよ』と送る。

 ついでに他の連絡が来ていないか確認すると、ヘンネルの名前の横に三通の未読メッセージが在る事を示す英数字のマークがついていた。
 トーク画面を開くと、二枚の画像が表示された。『気に入りの二枚だ。次もよろしくな』と添えられている。

 俺が自らの中に飼っていた感情の姿を正しく理解するきっかけになったあのファッション誌の撮影で生まれた、表紙と見開きに使用する写真の、雑誌側で文字入れなどがされる前の未加工のものを送ってきたようだ。

 見開き用のものは、恐らく曲に合わせて踊った際、アルトの腕が俺とぶつかった直後の瞬間を撮ったものだろう。両者の衣服が風を孕んでいて素材の軽さと適度な薄さが分かりやすいし、咄嗟に小さく頭を動かした事でアルトの髪の線に躍動感が在る。
 表紙の方はと言うと、俺がアルトに手ずから煙草を咥えさせた、恐らくはあの一瞬の機会に撮られた写真が使われていた。

 なるほど、良いものを撮ると素直に感心する。
 照明に対して斜めに立っていた事で肌も服も陰影がはっきりとしている。影は濃く、カジュアルな恰好だが雰囲気に厚みがあって安っぽく見えない。

 何より、俺を見上げるアルトの横顔が仄かに笑っているのが、いい。

 俺が惚れた相手は幸福になるだろうと、以前、他ならぬアルトが言っていた。今後その言葉通りの暮らしを実現する為の努力はしようと思う。

 惚れているのだ。全身で、愛してやりたい位には。

 液晶の中の頬へ親指で触れてから、青信号になった横断歩道を渡り始めた。
 



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