2

 保温ポットの取っ手を掴んで傾け、先にポーションミルクを入れておいたカップに珈琲を注ぐ。珈琲の香り自体は好きでもブラックやエスプレッソの苦味は得意でないアルトの味の好みも、気付けば自然と覚えた。

「お疲れ様、ローくん」

 横から掛かった声にポットを置いて視線を上げる。
 去年末にも雑誌の撮影で何度か一緒になった中年の男性カメラマンが立っていた。確か名はヘンネルだったか。

「ご無沙汰だね」
「去年振りか」
「そうそう。君達はふとした一瞬の表情が良いから、今日は張り切って高速連写の得意なカメラを持って来たんだよ」
「こっちもアンタとは仕事がやりやすい」
「嬉しい事言ってくれるなァ。オレはモデルさんの動きにあまり口を出さないけど、細かくあれこれ指定された方が助かるって子も居るしな。君もアルトくんもスタイルが良いから適度に力を抜いて立ってくれるだけでも絵になるし、其処から良いものを切り取るのはオレの仕事だ。……お、すまん、珈琲が冷めちまうな。今から照明と設定弄ってテストするから、十五分後ぐらいには始められそうだ」
「分かった。よろしく頼む」
「此方こそよろしくなァ」

 先に個包装のマドレーヌと使い捨ての紙おしぼりを二つポケットに入れ、両手にカップを二つ持って戻る。

 だが廊下を進んだ先で、横着だが肘で開けねばならないと思っていた扉の前に先刻の女が立っている姿を見て、不審感ではなく苛立ちが湧いた。

「其処で何してる」

 声を掛けると、女はびくりと身を竦ませた。

 細く開けたドアの隙間に顔を寄せて中を覗き込んでいた様子からしてアルトを気にしての事かもしれないが、思春期の学生が物陰から意中の相手を見つめるそれとは訳が違う。

 微笑ましさなど欠片もないし、このタイミングで此処に居るとなると、俺が控え室を出たのを確認してから動いた可能性さえゼロではない。このフロアは廊下の幅が狭く、ケータリングの軽食や飲み物は会議室に用意され、控え室との間にはスタジオへの通路も合流している。

「あ、その〜……ちょっとアルトさんの衣装、変更があって。でもヘアメイクさんとお話してるみたいなので、いつ入ろっかなァ? って……」
「だったら俺が今此処で聞いて、アイツに伝える。変更点は何だ」

 女は手に何も荷物を持っていない。その用向きが果たして本当の事かも疑わしく思いつつ尋ねると、涙袋を強調するよう下瞼へ不自然なまでに艶を乗せた目元が口惜しそうに歪んだ。

「……えっと。今回全体的に落ち着いたトーンで纏めてるんで、アルトさん赤い一粒石のピアス着けてますけど、それを……」
「アイツは今、ピアスを着けちゃいねェが」

 発言の途中で言葉を被せると、女はあっさり二の句に詰まった。
 昼の生放送では確かにいつものピアスを着けていたが、ファッション誌の撮影はアクセサリーを指定される事もあるからと此処へ向かうタクシーの中で既に外している。

 下手な嘘を吐かれた事で、自分の眉間に皺が寄るのを自覚する。ただでさえこの噎せ返る香水の所為でアルトに苦い顔をさせているのに、羽虫の如く周りをうろつかれると更に煩わしい。

「……すみませェん、でもわたしすっごいアルトくんのファンなんですよ〜。先月駅前のアカシアホールでライブあったじゃないですか。わたし二階席の最前で、めっちゃ手振ってたらアルトくん指さしファンサくれたんですよ〜! ちょっと今日は髪型とか色々違うんでェ、気付かれなくても仕方ないかなとは思ってたんですけど、」
「部屋に入りてェんだが。そろそろ撮影も始まるし、飲み物が冷める」

 心のままに溜め息を逃がしそうになるのを堪える。
 好意や応援の感情が盾になると勘違いしている所も、自分の事ばかりで目の前にいる相手の状態や周囲の状況に意識が向いていない所も、アルトの呼び方をいきなり変える所も全てがもれなく苛立たしい。

 本人としては気持ち良く語っていただろう話を雑に打ち切られて女は鼻白んだように俺を見上げたが、控え室を覗き見ていた事に対する最低限の後ろめたさはあるようで、会釈もなく脇を通り過ぎる。
 去り際に「ま、いっか」と小声で聞こえてきて、最早聞き咎められても構わないと盛大に肺から息を吐き出しながら肩でドアを押し開けた。

「お帰り、……」
「雰囲気変わったな。悪い、少し冷めた」
「いや、直ぐ飲めるから熱々より寧ろ有難いけど」

 アルトの髪は、右頬にかかるサイドの部分が一旦ゆるく巻かれてからほどかれたかのように全体的に癖付けられて、いつもなら顎の輪郭を少しばかり超える毛先の位置も上がっている。
 サボからスポンジで肌へファンデーションを柔く叩き込まれているアルトの前へカップを置くと、鏡の中でアルトがじっと見上げてきた。

「今、入り口の所で話してたのってロー? 何となく声は聞こえてたんだけど、話の内容までははっきり聞き取れなくて。……何かあった? テンション下がってるね」

 最後の一言に、サボが手を止めて此方を振り向いた。

「んー? ……おれには普段とそんなに変わらねェように見えちまう。アルトはよく気付くなァ」
「毎日一緒だから、何となく分かる事はあります。違ってたら単純に恥ずかしいけど」

 ポケットから取り出した紙おしぼりの封を開けて中の布巾で手指を拭き、続けてマドレーヌも開封して半分ほど中身を出す。
 そのまま会話の間も俺から目を離そうとしないアルトの口元へ寄せると眼下の唇はあっさり菓子を咥えた。

「おいひい」
「さっきのスタイリストが、この部屋を覗いてた」
「はァ? 何だそりゃ、……あー、アルト目当てか?」

 俺とサボの発言にアルトが瞳を瞬かせて俺の鏡像を見上げるが、すんなりとは物が話せない量を一度に咥えさせたので無言だ。

「だろうな。お前からもそう見えるか」

 サボがフェイスパウダーをブラシで取る傍ら頷く。

「さっき打ち合わせした時、おれがアルトのヘアメイクを専属で担当してるって言ったら次の予定訊かれてな。この辺でロケする予定あるのかとか、『アラバスタネイル』のイメージモデルやるのは本当かって。仮に仕事が入ってるとしても本人じゃねェのに勝手に答えられねェとは言ったんだが」
「……コラボの話が漏れてるのか」
「おれもピンポイントで名前出してきたのは流石に変だなと思ったよ。まだ企画が立ち上がっただけの段階なんだろ? よっぽどブランド側に口の軽い奴が居るのかもな」

 ライブや音楽番組への出演の際にはネイルを、それも決まったカラーを塗るアイドルは珍しいのか、比較的安価な価格帯の化粧品を販売するブランドである『ネフェルタリ』から夏に向けたネイルカラーの新作をプロデュースしないかと打診が来たのは先月の話だ。
 CMこそ制作しないが幾つかの雑誌で紹介される予定であり、一旦活動が落ち着いてから次の曲が世に出るまでの期間中もファンの関心を引く一つの策としては効果が期待出来るかもしれないと承諾した。

 しかし現状、まだ『ネフェルタリ』の商品開発や宣伝の担当者等と顔合わせを済ませた程度で、本格的に着手はしていない。販促写真を撮りおろしで用意する事は決まったのでサボとクザンにも概要だけ話している。
 イメージモデルやアンバサダーに就任する訳ではない為、あの女が掴んだのは正確な情報ではないにせよ、こんな初期段階で無関係な立場の筈の人間が内容を知っているのは不可解だ。

「ボトルのサンプル上がってくるの来月だって言ってたよな? その時それとなくチームリーダーの人に言ってみる……?」

 マドレーヌの半分を食べ終えたアルトが反対の手で珈琲を飲む合間にそう言う。

「今回の企画に一切関わりのないブランドの人間から実現の有無について訊かれた、ぐらいは言っても構わねェだろう。もしあの女と個人的に交流があるスタッフが居て、部外者に現時点では伏せておくべき情報を零したと確認が取れれば『ネフェルタリ』側もソイツを企画チームに残留させる事は考える筈だ」
「そうやって予定探ってくるのもそうだけど、どうにも今日をきっかけにアルトと距離を詰めたがってるように見えるよな。でもアルトは別にその気じゃねェんだろ?」
「そうですね、個人的に話したいとかは全く……」
「とにかく躱してはぐらかして今日を終えちまえば逃げられるとは思うが……、よし、終わり。ローも肌と眉だけ整えてェからこっち座ってくれ」

 自分のカップへ口を付けつつ椅子に座ると、隣のアルトと視線が交わる。

「これ、ありがと。何かちょっと腹に入れておきたかったんだ」
「ああ」

 刻んだ紅茶の葉が生地に練り込まれたマドレーヌを齧るアルトの顔が綻んでいる。
 食事をする時のこいつの顔は、不思議と見ていて飽きない。
 



( prev / next )

back

- ナノ -