この船内では聞き慣れないヒールの靴音が手術室に近付き、止まり、それきり扉の前から気配が動いていない事は知っていた。

 此方の集中が乱れるような真似をしないならと放っておいたものの、別の足音も混ざったかと思えばくぐもったアルトの声も僅かに漏れ聴こえる。
 変な所で度胸があるなと思いつつカルテの整理を進めて、ほんの数分後。

 唐突に"女帝"の甲高い声が明らかな責め句の響きで以て紡ぐ言葉を聞いた瞬間、蓄積していた疲労に苛立ちが上乗せされて一気に怒りが誘発され、雑に扉を蹴り開けていた。

 人の身内にずけずけと上から物を言う、自らの座る玉座が他人の頭上に据えられていると当たり前のように思っている態度の"女帝"に、更に幾ばくか苛立ちが募る。

 結局今後を憂慮したアルトに仲裁されたが、この場において、"女帝"が持つ『九蛇の皇帝』という肩書きなど只の飾りも同然だ。
 あの女に従う義理も理由も此方には一つとて無いと言うのに、麦わらの養生を目的に手を組んでいるだけに安易に距離を置く事も叶わない点が煩わしい。"女帝"の戦闘能力の委細が判明していない中で無闇に仕掛けやしないがあの言動は気に食わない。

「俺が寝た後もずっと起きてたの?」
「ある程度は備えてたっつっても、緊急の手術だったからな。患者も予定より一人多いしでやる事がそこそこ多い」

 冷めた牛乳を温め直すと言うアルトに着いて階段を昇りながら欠伸を噛み殺す。"女帝"が扉の前を陣取るその数時間前からカルテや投薬履歴書の纏めと加筆に勤しんでいた影響で、目の奥が鈍い痛みを訴えた。若干頭も重い。

 珈琲が飲みたい気分ではあるが、人間は起床してから十七時間以上起き続けていると集中力も判断力も鈍る。
 やたらにカフェインは摂らず流石に一旦眠るべきか、とぼんやり結論を出した折、階上から物音と短い声が聴こえてきた。

「シャチだね。さっき酒飲んでたしコケたかな?」

 隣を歩くアルトが踊り場に差しかかる傍ら小さく首を傾げる。

 生来の特徴なのか、アルトはやけに鼻が良い。人より少し、と言う程度には収まらず最早動物並みに嗅覚の優れたこいつが何かの匂いを集中して辿ろうとする時、自覚しているのかは知らないが首を少し左へ傾ける癖がある。
 程無くシャチが振り撒いているだろう濃い酒気を嗅ぎ取りでもして顔を顰めるだろうか。

 そんな予想を立てたが、階段に靴底を乗せたアルトの挙動がふと不自然に止まった。

「……ロー、血の匂いが、する」

 不審の色が覗く声色でアルトが呟いた内容に、揃って即座に階段を一段飛ばしながら駆け上がる。

 先刻の物音からして酔ったシャチが其処らに身体をぶつけて怪我でもしたか。恐らく俺だけでなくアルトもそういった類いの想像をしたであろうが、階段を昇りきった先に在ったのはそんな予想に掠りもしない光景だった。

 足音で此方に気付いたシャチが、廊下の中央付近に尻餅をつく格好で座り込んだ儘、俺と"女帝"を交互に見遣りながら眉を下げる。
 その脛の部分の衣服が刃物で切りつけられたかのように斜めに裂け、少なからず流血していた。

 隣には片膝をつき、狼狽と隠匿し損ねた怒りの混在した顔で眉を寄せているペンギンが居て、床に転がるカップからは中身の液体が零れている。
 そして、二人の向かいでは"女帝"が腰に手を宛がい仁王立ちの姿勢で立っている。

 この女、やってくれた。

「……あ。すいません船長、オレちょっとドジやっちまって…飲み過ぎてふらついちまってですね、持ってたコップの中身が"海賊女帝"に、」
「つかぬ事をお伺いしますが、姫様」

 胃の辺りで煮立った不快な熱の塊が喉元へせり上がるも、シャチの言葉を遮ったアルトの妙に静かな声音に、自然と鬼哭を握る指でなく視線が動いた。

「貴国では、国民が貴女様に粗相をしたならば同様の折檻を例外なく加えておられますか」
「当然じゃ。わらわは皇帝、我が戦士達が無礼な真似をしでかしたならそれはアマゾン・リリーの権威と誇りを汚すも同じ事」
「左様で。それがそちらにとっての常識だと仰るなら以降の討論は恐らく不毛ですので、此方も好きに述べますが。…俺は先日、政府から番犬とも取れる異名を授かりまして」

 アルトの顔から表情が抜け落ちていた。眉も目元も口角も感情を孕まず、ただ唇が言葉に併せて動き、瞼が時折瞬きをする。
 日頃はよく表情を変える部類の人間だからこそ違和感が強く、語調よりも余程怒気の露な瞳の翳り様が際立っていた。

「この船に乗る人達全員、俺の兄と言って良い。…貴女が人より秀でた武力でこの人等をやたらに傷付けるなら手加減はしかねる。失礼があったにせよ、シャチに悪気が無い事は貴女にも伝わった筈でしょう。……これはやり過ぎだ」

 果たして態とか無意識か、アルトの喋り方から敬語が外れて"女帝"を指す敬称も変わる。
 途端、比喩ではなく重さを増した空気に、この場の全員が瞠目した。

 無数の極細の針で肌を刺されているような、不可視の真綿に喉を絞められているような、奇妙な圧迫感を内包した"何か"がアルトを中心として広がっている実感が在る。
 それを真っ向から浴びせられただろう"女帝"が、此処に来て初めて少しばかり顔を強張らせた。

「…テメェの戦闘力が如何程の物か知らねェが、コイツはその辺の獣より余程速ェぞ。試しにそっちも体験してみるか?」

 こと女相手には情けも甘さも与えがちなアルトではあるが、状況が状況な上に今回は自分から吹っかけに行ったのだ。"女帝"の身分が高いからと低姿勢を貫いてきたものの、今のアルトなら俺が目で合図を出すだけで拘束に動く事だろう。

 八つの眼を向けられる"女帝"を包むかのように、大蛇が自らの身体を肢体の周囲で巡らせる。
 シャーッ、と何処か威嚇にも取れる鳴き声を発する蛇の顎下を一撫でした"女帝"は瞬きを交えてアルトを一瞥した後、浅く息を吐いて足を踏み出した。

「覇気使いを複数相手にしては分が悪い……退こう。其処の船員の無礼、此度は看過してやる」

 何が何でも偉ぶった物言いしか出来ないのかしたくないのか、アルトの横を通り抜けながら"女帝"が語る内容に反射的に舌打ちが漏れる。すれ違いざま一瞬視線がかち合うも直ぐに焦点はずらされて、靴音が規則正しい感覚で遠ざかってゆく。

 その音が階段を降りるものに変わり、やがて耳に届かなくなった頃。"女帝"の発言を機に殺気を収めて静かになっていたアルトが酷くぎこちない動きで首を回し、生気の失せた顔で俺を見上げてきた。

「……や…やっちゃっ、た…──ッ、ぅえ!?」
「………」
「えっ、何、ペンギンさん!? 何!? 痛い痛いギブギブ」
「アルト、お前……お前ェエ!」
「俺が何!? 痛いよ!?」

 此方を向いていて背後に意識を遣っていなかったらしく、横合いからペンギンによって殆ど体当たりのような抱擁を受けたアルトが間の抜けた声を上げる。
 その次には恐らくペンギンの腕力が強過ぎる所為で痛みを訴え、更に怪我で立ち上がれないシャチに腰へ抱き着かれてすっかり混乱させられていた。

 自分の兄代わりだ、とアルトの口から言われて余程嬉しかったのだろう。角度からしてアルトにもシャチにも見えないであろうペンギンの、抱き着く勢いでずれた帽子から覗く耳が赤く色付いている様に呆れ笑いが漏れた。

 



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