「トラファルガー・ロー…」

 眼鏡だろうか、"しちぶかい"と呼ばれた男の帽子に半ば隠れた目元から無機質な光が覗く。
 視線は確かに此方を向いている筈なのにやけに生気の感じられない佇まいに俺が眉を寄せる隣で、ローもまた浅く眉間に皺を作った。

「俺の名を知ってんのか……!」

 二億の首だ、知名度は低くないとやや手前味噌な思考が過るも、巨体の男が首を回して完全に顔を此方へ向けた瞬間、妙に嫌な感覚が胃の辺りから這い上がった。
 殺気ではなく寒気に近いそれをローも感じたのか、強い力で腕を掴まれた直後に「っ、"シャンブルズ"」と硬い声色で早口の呟きが聴こえる。

 瞬きをする間に俺とローは並んでグローブの根の下へ移動していて、靴底が地の感触を確かめたと同時に背後で爆発音が轟いた。
 振り向けば、何があったのか根の一部が爆ぜて焦げている。近くに居た他の四人は全員無事だが、一様に顔を険しくさせていた。

 声を聞きつけたか或いは姿が見えたか、シャチが「後ろから海兵が来るぞ!」と声を張り上げて元来た道の方向へ向き直る。目視が出来る位置に海軍が見えるのなら此処で時間を喰う訳にはいかない。

 先に足止めをくらっていたキッドを横目に見ると、何がどうなっているのか両腕が無数の金属と武器で覆われ、その金属の塊が何処か手を模した形になっていた。人間技では有り得ないので、彼もまた"能力者"であると判断した方が無難だろう。

「手当たり次第かコイツ! トラファルガー、てめェ邪魔だぞ」
「消されたいのか、命令するなと言った筈だ。今日は思わぬ大物に出くわす日だ…。更に"大将"になんて遭いたくねェんで…、其処通して貰うぞ、バーソロミュー・くま…! "ROOM"」

 苦い顔をして唸るキッドに返す言葉の終わりに併せ、ローが俺から左手を離すと掌を下に向けて宙に翳す。微かに鈍い音を立ててサークルがこの場に居る全員を包み込む大きさまで拡がった。くま、と呼ばれた男はそれを意に介した様子もなく右手の手袋を外す。
 ローの作るサークルに少しも警戒の色を見せないとなると、ローの能力を詳しく把握しているか余程の手練れか。前者ならば困ったものだが、それでもローの能力は贔屓目なしにトリッキーで不意討ちがしやすい。

 ローが迷わず能力を発動するのだ、殺害こそ出来ないが攻撃は遠慮なくさせて貰って構わない相手なのだろう。
 片手へとオーラを集める間に視線を巡らせ、爆発によって生まれた木片を足元近くに見つけると、それをくまに向けて蹴り飛ばしながら声を上げた。

「ロー! "それ"交換して!」
「あァ? ……チッ、」

 斜め前に立つローは此方を振り返らない儘怪訝そうに声を漏らしたものの、俺の頼みを正しく察して舌打ちを交えつつもくるりと手首を返す。
 それを確認した次の瞬間にはくまの首近くへ飛来していた木片と俺の位置が入れ替わり、直ぐ目の前にやはり妙に覇気に欠けた巨漢が現れた。

 ローが持つ能力の特徴の一つは、身体を切断されても全ての部位に感覚がある事だ。相手がこの事さえ知っていれば、実際に己の身を切り刻まれたとしても、最悪手首より上が無事なら手当たり次第に銃を乱射する位は可能になる。

 俺の主観から贔屓目なしに見て、悪魔の実の能力抜きでローの実力を評価するならば、剣術や体術に関してはそれだけで一般人を蹴散らせる域に居る。
 そのローが出会い頭に能力を使うのだから、くまという男は警戒に値する実力を備えているのかもしれない。ならば先ずは相手の動きを止めるか、せめて鈍らせた方が事を有利に運びやすい。

 ──ピピピピ、
「……えっ、」

 少量でも良いから痺れ粉を吸わせてしまおう、と練ったオーラの集まる片手をくまの口元へ伸ばしたと殆ど同じタイミングで聞こえた小さな電子音と、相対する人物の変化に、オーラを粒子状に変化させるつもりでいた集中がぷつりと途切れた。

 顎の関節を外したのかと思う位に大きく開けられた口の中には、上下に歯列が並んでいる。
 だが舌はなく、喉に続く粘膜が在るのかどうかも疑わしいようなその"口"の見た目をした空洞から、目映い光が溢れ出ていた。

 太陽のそれとは全く異なる、無機質な明るさ。直視すれば目に痛みすら覚える得体の知れない光が、魚のように空っぽな口から、人間の喉の奥から覗いている。
 あまりの気味悪さに片腕を強張らせてしまった俺の視界は、次の瞬間唐突に切り替わった。

「馬鹿、何で躊躇した!」

 予想以上に間近から聞こえた声に意識よりも身体が先に反応して、肩が跳ねた。
 背後から脇の下を通って自分の胃の辺りへ刺青だらけの長い腕が回されているのを視線だけで見下ろし、ローが俺と何か適当な物の位置を交換してくれたのだと遅れて気付く。

 俺の目線の先ではくまと呼ばれた"何か"がやはり目一杯に口を開いて内部を発光させたまま、足元に転がる小石を見下ろしていた。あれと入れ換えられたのだろうか。

 自ら敵の間合いへと単独で入り込んだ俺が攻撃の手を止めた事をローが咎めている、という事は一応聴覚で捉えて意識でも理解をしていたが、どうにも思考が着いてこない。悪寒が胸の内側で蠢いている。

 意識してオーラを両目に集め「凝」をする。
 くまの巨体からは、ほんの僅かも生命力たるオーラは生まれていなかった。これであの光が念能力による物である可能性は消える。

「……ロー、あれ……人間じゃない」
「…どういう意味だ、くま屋は何処から見ても人間だぞ」
「アイツの口の中、歯はあったけど舌はなかった。なのにさっきローの名前をはっきり発音出来てたのは……可笑しいよ」

 斜め後ろに在る顔へ首だけを振り向かせて告げた俺の言葉に、ローが眉の片方を小さく動かしたかと思うと、瞳だけがふと横に動く。
 俺が視線の動きにつられるよりも早く再び景色が変わり、数メートル程離れた場所の地面が爆音を伴って抉れた。

「其処の優男、案外正解かもしれねェなァ」

 姿勢を直しつつローから離れた折に届いた声に顔を上げると、相変わらず両腕を機械まみれにしたキッドが前に居て、横目に此方を見ながら爆撃された跡地を顎で指すような仕種をした。
 つい先刻見かけたキッドの仲間である海賊達がくまへと斬りかかり、或いは殴りかかっている最中なので些少ながら会話をする隙間時間が生まれる。

「てめェ等は攻撃を避ける瞬間に妙な移動の仕方をしてるからハッキリとは見ちゃいねェだろうが、あの野郎、口から光線吐きやがる。生身の人間が腹ン中にレーザー銃でも仕込んでるだけなら寧ろ楽だが…ヒートの炎に熱がる素振りを見せなかった、っつー事ァありゃロボットか何かだろ」
「やんちゃばかりしていると噂に聞くお前がタダで情報を寄越してくれるなんざ、却って不気味だな。何のつもりだユースタス屋」
「"貸して"やってんだよ」

 悪戯っぽい、で済ませるには悪意の色が強い笑みを見せてそう答えるキッドにローが舌打ちで応じる。己のクルーから教えて貰えば何という事もない情報一つも、敵方から先んじて伝えられれば借りになってしまうのだから扱いが難しい。
 そちらが勝手に喋ったんだろうとも言わず舌を打つだけに留まったローの態度は、借りを作る事を承諾した意味だろうか。

 微かだが、この場に居る人間以外の声が元来た道から聞こえ始めた。シャチが言った通り海兵達が追い付いてきたらしい。
 今一度「凝」を、今度は手足のそれぞれ四箇所に施しながら細く息を吸う。

「……ロー。もう一回だけ何か適当な物アイツの傍に投げるから、俺と入れ換えて欲しい」

 



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