06.サルミアッキに魅せられて
夜が明けて、約束の土曜日だ。
昨夜ベランダで偶然聞いてしまった別れ話。
なんで昨日だったんだ………マジで空気読んでくれ彼氏。もう元彼か?
どこまでもいけすかねぇ野郎だ。
奴とは同じ女を好きになったという点で通じるものがあるが到底友達にはなれそうにない。
姫ちゃんはあれから暫く泣いていたようだった。
大丈夫だろうか。
約束、延期したほうがいいか。
いやでも何も知らない設定だからな…それに俺が断ったところで彼女は今日も泣くのだろうか、…………一人で。
『今日のご飯なに?』
いてもたってもいられず、スマホを操作してメールを送る。するとすぐに返事が返ってきた。部屋にいるのだろうか。
『何が食べたいですか?』
『姫ちゃんの好物作って』
『じゃあ今日はスペシャルメニューにします!
お楽しみに(*^^*)』
俺がいるリビングの壁は、彼女の部屋のどこに繋がっているのだろう。寝室辺りだろうか。
こんなに近くにいてメールのやり取りしかできないなんて、俺は意気地なしだ。
本当に彼女のことを心配していて気になるなら、迷う必要なんてない。今すぐ扉を開けてインターホンを押せばいい。
大丈夫かと、お前を泣かせたアイツのことは忘れてしまえと、俺がいると抱き締めてしまえばいい。
なぜそれができない?
なにを怖がっている?
失うものなんてないはずだろう。
彼女の方が大きなものを今、失おうとしているのに。
バタン、と重い扉が閉まる音がした。
低いヒールの音が遠ざかっていく。
出かけて行ったのだろう。
買い物だろうか。俺との飯を作るために。
「………ダセェ…」
何もかもがダセェ。
面と向かって目を見て彼女を突き離せるあの男の方が、まだマシかもな。
*
「坂田さん、ここ抜けると思う?」
「いや〜〜〜無理だな止めときな。中から攻めるのが定石だよジェンガは」
「うーん…….これかな?」
「ミャー」
「えっ、ミルク、これじゃない?じゃあそっちのにしようかな……」
細い指先が積み上げられたブロックのひとつを摘む。ゆっくりと並行に引くのをじっと見守っていると、支えを失って全体がグラリと傾いた。あ、と思ったその時、ブラックの塔はガシャーンと音を立ててバラバラに散らばった。
姫ちゃんの腕の中にいたミルクは音に驚いてキッチンの方に逃げていった。
「あーー惜しかったー!」
「残念。ハイ罰ゲーム」
「うーーーー……、今の練習、もう一回……」
「ダメですー。坂田先生のルールは絶対なんですー」
白い箱を揺らして例のアレを一粒出す。
アレだ。スタッドレスタイヤ味のアレだ。
「口開けてー」
おずおずと口を開けたところにポイっと飴を投げ入れた。
「、?……んっ!?ンンン!?」
「ハイ、ティッシュ。ぺっしなさい」
「ぺっ!ぺっぺっ!なにこれーまずー!」
涙目になりながらティッシュを口に当てている。
この間服部先生に押し付けられたサルミアッキだ。
生徒たちに食わせて残りはあと10粒もない。
もう捨ててやろうか。
「さーもうひと勝負いこうか」
「今度は罰ゲームなしならやってもいいですよー。あっ、お鍋見てきます」
「はいはーい。ジェンガ組んどきまーす」
話は2時間前に遡る。
今にも死にそうなメンタルでテスト問題を作っていたら姫ちゃんからメールが入ったのだ。
『時間かかるメニューなので煮込みしてる間の暇つぶしに付き合ってください』と。
そんなわけで仕事にも集中できなかった俺は二つ返事でOKし暇つぶしグッズを持って姫ちゃんの部屋を訪れた。
ミルクの遊び相手になったり姫ちゃんと遊んだり、TVを観たりとごろごろさせてもらっている。
もちろん美味い紅茶とクッキー付き。その辺のカフェより断然居心地がいい。
約束は夕食だったがまだ午後3時を回ったところだ。
姫ちゃんが今作っているのはビーフシチュー。午前中に仕込みを済ませて今は煮込み中。赤ワインの香りが部屋を包み込む。
そうは言っても彼女は張り切っていて今日もデザートまで作ってくれるらしいからなにかとキッチンに立っている。
手の空いた時間にリビングに来ては俺とジェンガしたりミルクと遊んだりと忙しない。何か手伝おうとすると『坂田さんは見るだけですよ』と軽く拒否された。
……もしかしたら一人でいたくなかったから呼ばれたのだろうか。それでも、俺を呼んでくれたことが嬉しい。この際暇つぶしでも彼氏の代わりでも何でもいい。彼女が料理をしている姿を見ると、なぜかホッとする。キッチンに向かう眼差しが優しくて綺麗だと思う。同時になぜか泣きたくなる。俺には手に入らないからか?
エプロンをつけて、髪をひとつにくくって流れるような動作で料理を作り上げていく。まるで芸術家のようだ。
人のために作る料理は本当に楽しいと、以前言っていたことがあった。今は誰を思って手を動かしているんだろう。できれば、俺であって欲しい。
「姫ちゃん、ビーフシチュー好きなんだな」
「はい!じっくり煮込むとお肉柔らかくて美味しいですよ。たくさん赤ワイン入れるから匂いで酔っちゃいそう」
「確かにドバドバ入れてたな。そんなに入れるのかってビビったよ」
「うちは小さい頃からお祝いごととかいい事あるとビーフシチューなんです。母がよく作ってくれて作り方も母から…………」
そこまで言って姫ちゃんは言葉を詰まらせた。ジェンガを弄っていた手を止め、振り返ってキッチンの奥を見ると鍋の中を見つめて悲しそうに顔を歪める姿があった。
彼氏と食べたときのことを思い出しているんだろうか。
祝い事の時に作るなら、彼氏と過ごした日々の中でこの料理を作るだけのイベントは腐るほどあるだろう。付き合った記念日とか手繋いだ記念日とかチューした記念日とか誕生日とか。
でもごめんな、今日はこんなズルいオッサンのために作らせて。やっぱり俺じゃ、ダメなんだろうな。
リビングのTVを消してキッチンに行き、姫ちゃんの前に立った。
「………あのさ、実は昨日の夜煙草吸いにベランダに出たら偶然姫ちゃんちの会話少し聞こえちゃって」
「…え………っ」
「ごめん、盗み聞きみたいなことして。……俺が聞くのもおかしいと思うけどさ、その…………別れんの?」
「……うん、最近はずっと仲悪くて………昨日はついに別れるって…。どっちについていくかって話だったんです」
「どっちって………」
どっちのこと?
え、どっちってどっち?
彼氏か俺かってこと?
まさか彼氏に俺のこと知られて浮気と思われた?それで別れ話に発展したんじゃないか?
それとも第三の男がいる…とか?
「…えっと……姫ちゃんは『どっち』についてきたいの?」
「そんなの………選べない、離れて欲しくない…っ…」
大きな瞳から涙が溢れた。
細い肩が震えている。
その肩に手を伸ばそうとして…できなかった。
「ごめんな、泣かせたかったんじゃないんだ。ただ俺………俺は……、」
ダメだ。
気の利いた言葉なんてひとつも出てきやしない。
「俺は…姫ちゃんが好きだよ。
姫ちゃんにとって何番目でも、彼氏のこと忘れらんなくても、姫ちゃんが笑ってられるなら出来ることはしてやりたい」
弾かれたように顔を上げた姫ちゃんは突然の俺の告白に目を見開いた。
そりゃそうだ、彼氏との別れ話の次の日に隣人に告白されるなんて昼ドラ的怒涛の展開だ。俺のことなんて頭の隅にも考えてないタイミングだろう。
ごめん。でも、もう自分を取り繕うことはできない。
リビングに戻ってテッシュを何枚か手に取って、ついでに財布とスマホをポケットに押し込んだ。
姫ちゃんの目の前で火にかけられた鍋がぐつぐつと音を立てている以外は、全くの無音だ。
声も出せず固まったまま俺の動作をひとつひとつ目で追っていた姫ちゃんの涙をティッシュで拭いてやる。
「煙草切れたからちょっとコンビニ行ってくるわ。すぐ戻るから、待っててな。ついでに甘いもの買ってくるわ」
乱れた前髪を手ぐしで直してやってから、笑いかけた。いつものようにうまく笑えているだろうか。
「さかたさ…、」
「ごめんな、困らせて。頭冷やしてくるわ」
振り返らずに部屋を出ると、冬の冷たい風が頬を撫でた。外に出て開けたはずの視界がぼんやりと霞んでいく。
俺はなぜ泣いているんだ。
title by 子猫恋