26.5深夜のわだかまりスープ
「お兄ちゃん今日何時頃帰る?」
『アイツと喧嘩でもしたか?』
「……行ってもいい?」
『終わったら迎えに行く』
それだけ言って電話が切れた。ふう、とため息が出るのを止められない。昨日、銀時さんの同僚の先生と会った。とても良い人で部屋から漏れる声も楽しそうで、会う約束してなかったのに銀時さんの顔を見れたしパウンドケーキも渡せて、とっても良い日だなって思った。それまでは良かったのに。
次の日…といっても今日の話。落としてしまったタオルを取りに銀時さんの部屋に入った。カラフルな付箋がいっぱい貼り付けてあって、先生って仕事から帰っても大変なんだなぁって思った。気になって少し見てみると男の人の字で『巨乳』『性格が良い』『感度もイイ』……これは仕事じゃないよね?別の色の付箋には『めっちゃ可愛い』『超可愛い』『死ぬほど可愛い』……色によって筆跡は違うけど、どれが銀時さんの字かわからない。それにどちらの字も酔っているのかふにゃふにゃだった。
「…そういう宅飲みの仕方もあるよね」
大人の世界って奥が深い。銀時さんだって男の人だしこういう話もするよね。見てはいけないものを見てしまった気持ちで少しドキドキしながらタオルを手に取った。早く戻ろうとするとテーブルの上に置かれたファイルが目に入った。普段なら銀時さんの物を勝手に見るなんてことしない。だけどどうしても気になったのはファイルの下からはみ出た写真が気になったから。……とても綺麗な女の人と、可愛い赤ちゃん。そしてクリアファイルの一番上に入っている紙には家族向けの物件の間取りが書かれていた。上の方に『坂田様』と印字してある。銀時さん、引っ越すの?しかも、誰かと一緒に暮らすの?それってもしかしてこの写真の……………。
「随分と大荷物だな」
夜、お兄ちゃんが迎えに来てくれた。何か察したのか一旦アパートに戻って車を持って来てくれたらしい。着替えとミルクのあれこれを用意したら大荷物になってしまった。
「コイツも連れてく気か?長ぇ不在になりそうだな」
「………ごめんなさい」
「いいから乗れ」
車内ではエンジン音も聞こえて来ないくらいしんとしていた。いつもならわたしが銀時さんとのことを一方的に話して、お兄ちゃんは適当に相槌を打って聞いていた。その話をしないということは喧嘩したと思われているんだろうな。お兄ちゃんの部屋は久しぶりで、家具はどれもシンプルだけど高級感があって綺麗に片付けられていた。
「何か作る?」
「軽くでいい」
気を紛らわせるためにキッチンに立ちたかった。そんな気持ちを知ってか知らずかミルクを部屋に入れて構いはじめた。食事に頓着もなくあまり自炊しないお兄ちゃんの家には調理機器が最低限しかない。それでもフライパンや鍋があるのは手料理を振る舞いたい彼女さんが持ってきて置いていくから。
「彼女さんはいつも何作るの?」
「いねぇ」
「別れちゃったの?」
「いつの話をしてんだ」
料理もだけど人にもそんなに長く拘らない性格のお兄ちゃんと、料理が好きで一人の男の人だけに執着してるわたし。この性格を足して割ればちょうど良くなるんじゃないのかな。そうすればこんな風に逃げてしまうことなんてなかったのに。
「お前の男はどうなんだ」
「…うーん……」
……そもそも、わたしの男……で、いいのだろうか。今朝までは間違いなく自分は銀時さんの彼女だと思っていた。でも、あの写真を見るに奥さんと子ども?それとも元カノとの子どもで、何か事情があって一緒に住むことになった…とか。あの写真と間取りの用紙がセットになっているとそうとしか思えない。
「ねぇ、銀時さんって子どもいたり…する?」
ぐつぐつとお鍋が音を立てる。しばらくそれ以外聞こえなかった。にゃ〜とミルクが小さく鳴いて、それからすぐ近くでさあなと返事があった。
「いてもおかしくはねぇな」
「…………そうだよね……」
ぐつぐつ。また沈黙が落ちた。悲しいとかそういう気持ちじゃなかった。わたしと付き合う前のことに対して何か言えるような立場じゃない。それよりも銀時さんがあの部屋を出て行ってしまうことの方が悲しかった。きっと、あの素敵な間取りの部屋で楽しく暮らしていくんだろうな。写真に写っていた綺麗な女の人の手料理を食べてお仕事に行くのかな。わたしは、これからは誰の為に料理を作れば良いんだろう。銀時さんと食べるご飯が楽しくて、彼のことを思いながら作る時間が幸せだった。そして、それを目の前で美味しいって食べてくれた。勝手に作って押し付けているお弁当もいつも空っぽで、ちゃんと洗って返ってきた。うまかったありがとなって。もうそれがなくなっちゃうのかな。手を繋いだり、息ができないくらいキスをしたりすることも。付き合う前は届かなくてもいいって思ってたのに、一度体温を知ってしまうともう知らなかった頃に戻れない。無かったことにできない。
「そんなに惚れてるのか」
「…知ってるでしょ」
ずっとやめとけって言われてた。何度も。覚悟してた。例え遊びでも良かったんだよ。ほんのひと時一緒に過ごせたならそれだけで幸せなの。ただ、終わりが早くて突然で驚いただけ。これは、その涙。
「大丈夫。銀時さんが決めたことなら何だって受け入れられるから」
「自分を犠牲にするような考え方しかできねぇ奴には向いてねぇぞ、恋愛も結婚も」
「…そうかもね。わたしには早かったのかも」
「何でも相手に合わせて我慢すんのが付き合うってことじゃねぇからな。仮にも『彼女』なら胸張ってろ。一発殴るくらいしろ」
「好きな人を殴るなんて無理」
「なら俺が代わりにやってやらぁ」
「やめてよ。ほら食べよう?」
とにかく今日は何も考えずに眠ってしまいたい。スープをテーブルに運んで高そうな椅子に座る。
「一つ言っておくが、もしセフレや隠し子がいたとしてもお前と付き合うと決めた時点でそういう類いのモンは全部精算してると思うがな」
………そうなら、いいな。スマホも電源を切っているし逃げてしまった今では確かめようもない。具沢山の温かいスープが、知らない間に冷えていた身体に染み込んだ。銀時さん、今頃何を食べているのかな。…誰と、食べているのかな。
*
「送ってくれてありがとう」
「いつまで居座る気だ」
「…もうちょっと」
「じゃあな」
車で大学まで送ってくれたお兄ちゃんに歯切れの悪い返事をしてキャンパスを歩き出す。あれから一週間。さすがにそろそろ帰れオーラがすごい。でも向き合うのが怖い。あのアパートに帰る気にならない。銀時さんの部屋からもし、手作りのいい匂いがしてきたら、多分もうあの部屋で一人で暮らしていけない。確実に心が弱くなってる。スマホを見たら着信が入ってた。一日一回、夜22時。それとメッセージ。『具合悪いのかと思って合鍵使って入ったけど実家帰ってんの?』って。返事しないでいると、『ゆっくり休んで』と気遣う内容が送られてきた。そして、『心配だから気が向いたら電話出て』という言葉。何も言わずに出てきたのに。しつこく何度も電話してこないしメッセージもそれきり送ってこない。返事をしないことを察して何かあったのだと時間をくれている。大人だ。逃げ回っているわたしは子どもそのもの。その差がまた、心を抉る。
「姫セーンパイ。元気ないね」
「……神威くん」
学年混合の選択科目の講義室に入ると隣に神威くんが座ってきた。
「一年生なのに友達作らないとつまらないよ」
「この講義はセンパイ目当てで取ったから別にいいよ。俺愛想いいし」
ニコニコと笑いながらわたしの顔を覗き込む神威くんとは去年、オープンキャンパスのボランティアスタッフをした時に初めて会った。当時高校3年生で、案内を渡しただけで気に入られ『決めた。俺ここに入るよ』と言って帰って行った。相手にしていなかったけどまさか本当にこの大学に入学して、しかも追いかけてくるなんて思わなかった。絶対に興味ないであろううちのサークルにも入ってくるし、連絡先は勝手に知られ着信もメールも鳴り止まないし強引に絡んでくる。銀時さんとは真逆のタイプの男の子だ。
「学校では話してくれるのになんで電話もメールも返してくれないの?」
「特に用がないからだよ」
「メールで俺から質問してるじゃん。何してるのとかさ」
「必要性を感じないっていうか…」
「姫センパイって人の良さそうな顔して案外ドライだよねぇ」
人の良さそうな顔してるのはどっちだろう。
「押したら断れなさそうなのに全然靡いてくれないからマジになっちゃうじゃん。芯の強い人って好きなんだよね」
「強くないよ、全然」
はぁ、と溜息が出る。話しかけられるお陰で講義は頭に入って来ないしいちいち銀時さんと比べてしまう。それに神威くんがサークルに入った時も人数が少なくて廃部になるのが嫌ではっきりダメだと言えなかった自分が芯が強いわけない。猫のモチーフがついたペンを見つめて、銀時さんがミルクをわしゃわしゃ撫でて可愛がっている姿を思い出して胸がきゅうと音を立てた。
「彼氏と喧嘩中?別れた?なら俺貰っていい?」
「物じゃないから…」
早く終わらないかな。こんなことなら晴明くんと同じ講義取れば良かった。どちらを取ろうか迷って相談した時に『お互い別々の講義を取って後で教え合えば合理的』なんて優等生のような提案に乗ってしまったから。……ううん、全部わたしがはっきりしないせい。
「もう出ようかな」
「じゃあ部室行って俺とセックスする?」
「無理」
頭が痛い。こんな後輩手に負えない。しんどい。
『しんどくなくても頼ってよ。俺結構頼られたいんだけど』
穏やかに言った優しい声が頭に響いて黒板が歪んで見えなくなりそうだった。もうだめ、今日は無理。土曜日だから今受けているのともう一つしか講義はない。帰ろう。席を立つと案の定ついて来る気配がした。
「部室行く?」
「行かないよ」
「じゃあラブホ?」
もう無視。冗談にしても返す余裕がない。
「姫センパイなんで彼氏と別れたの?浮気された?」
「されてないし…もう今日は解散しよう」
「慰めてあげるよ?俺上手いし」
「悪いけど」
銀時さん以外興味ないから。そう言おうと振り返ると、神威くんの後ろにあり得ない人の影が見えて心臓が跳ねた。
「えっ…!」
「あのさぁ、ちょっと出しゃばっていい?」
「は?なんでアンタがいるの」
「俺のなんだよねその子」
うそ。銀時さんがどうして大学にいるの?
「ウチの元生徒がちゃんとやってるか様子聞きにきただけ」
「坂田センセーの彼女ってもしかして姫センパイのこと?うわ、世間って狭いなぁ」
当然のように話し出す二人に頭がついていけない。しかも、坂田先生って。もしかして…。
「待って…どういうこと?」
「この人、俺の元担任」
神威くんが指差す先は銀時さん。まさか、去年受け持っていたクラスの生徒さん?
「タチの悪いストーカーってお前かよ。せっかく大学入ったんだから勉強しろ勉強。俺の顔に泥塗ってんじゃねぇぞ」
「いや姫センパイ落とす為にここ入ったからね俺」
「勘違いしてるようだから言うけど」
肩に手が置かれる。優しく、包むように。
「俺のになった時点で離す気ねぇんだわ。お前が落とす番なんて一生回ってこねーんだよ」
ま、せっかくのキャンパスライフ楽しめよーと言い残して歩き出す。銀時さんが向かったのは普段の講義では使わない教室ばかりがある棟で、そのうちの一つの扉を開けた。この教室に入ったのは初めてだった。
「ここ、俺のサボりスポット」
懐かしいなと零して、振り返る。目があったただけできゅうきゅう胸が悲鳴を上げる。好き、銀時さん。でも、もういなくなってしまうんでしょ?
「ごめんな、アイツ前の学校の教え子。卒業する前にちゃんと指導するべきだった。…いや、今はどうでもいいか」
頬に手が触れる。
「心配した。元気そうで良かった」
「……っ」
ボロリと涙が落ちた。
「それ、俺のせいだよな」
溢れる涙を親指で撫でて、眉を下げて本当に心配そうに見下ろしてくれている。困らせてる。早く、言わなきゃ。
「ごめんなさい…。わたしどうしても心の準備ができなくて」
「何の?教えて」
優しい声に縋ってしまいたい。行かないで。さよならなんて言いたくないです、
「…っ銀時さんが引っ越して奥さんとお子さんと暮らすの、どうしても寂しくて、っ」
ピタリ。頬を撫でていた手が止まった。
「………ちょっと、待って?誰の奥さんと子どもの話?」
「え……銀時さん、の……。あの、テーブルの写真」
「…そっちかよォォォォ!!!!」
そう言うと頭を抱えてしゃがみ込んだ。
title by 白桃