18. 生クリームと彼との黄金比
その日、彼女はティータイム用のシフォンケーキを焼くと言った。午前中から彼女の部屋に入り浸りノートパソコンを持ち込んでいた俺は手伝う、と名乗り出て姫の隣でキッチンに立たせてもらうことになった。ずらりと並んだ計量済みの材料が彼女の几帳面さを表している。
「なにこの干からびたゴミみたいな木の枝」
「バニラビーンズです。バニラエッセンスでも風味が出るんですけど、ぷちぷちした食感が好きなのでいつもホールで買っちゃうんです」
「これがあの黒いつぶつぶ?へー初めて見た」
「出してみますか?こうして半分にして……ほら」
小さなナイフで木の枝を割って先っぽで器用に中身をこそぎ出すと黒いつぶつぶしたものが出てくる。あーこれこれ、俺の知ってるバニラビーンズ。途端にふわりとあまーい香りが立ち込める。
「いい香り〜」
「これだけで腹減ってくるわ」
あはは、と笑いながら「じゃあ銀時さんは混ぜる係」とボウルと泡立て器を渡される。へーいと返事してボウルに入っている卵と砂糖を混ぜる。自炊はそこそこできるとはいえスイーツ作りは超初心者の俺だ。隣で粉を振るっていた姫が慣れない手つきでかき回す俺の手元を見つつ、そのくらいでいいですよーと声をかけてくれる。そこに次の材料が入れられてまた手を動かす。
「ただかき混ぜるだけだと思ったけど…これ結構力いるし腕疲れてくるな」
「ね、筋トレになりそうでしょ」
「随分と楽しそうだな姫ちゃん」
「えへへ、だって銀時さんとこうやって一緒にケーキを焼く日が来るなんて嬉しくて…すっごく浮かれてます」
「あー可愛い。両手が塞がってなきゃ中身が飛び出るほど抱きしめてやりたいわ」
「両手塞がってて良かったぁ」
「んだと、この」
泡立て器を動かしながら腰で姫の小さなケツを軽くこづくと、粉が溢れるからやめてと言いながら嬉しそうに笑い声をあげた。粉を混ぜ入れてかき混ぜたらとりあえずこのボウルは終了。次はメレンゲですねと取り出したのはハンドミキサー。
「はじめからこっちもハンドミキサーでいんじゃね?」
「手で混ぜた方がいいんですよ、微妙な加減もつけられるから。手の感覚って大事なんです」
「マジでケーキって繊細だよなぁ」
ハンドミキサーがウィィィンと音を立ててしばらくするとメレンゲはあっという間に完成した。それを俺が混ぜ合わせてシフォンケーキの型に生地を入れる。おお、焼く前から店のモンみたいなビジュアルだ。テレビで見たことあるぞこの光景。つーかこの立派な型って一人暮らしの女子大学生の家に普通に置いてるもんなの?すげぇ本格的なんですけど。オーブンレンジにそれを入れて作業終了……と思いきやまた卵を取り出した。
「もう一回メレンゲ作んの?」
「ケーキに添える用です!」
「あーそりゃあ欠かせないよなぁ。甘めにお願いしまーす」
「はーい」
洗い物をする俺の横でハンドミキサーを操作してホイップクリームを作った姫は、ボウルを見てふと手を止めた。
「あ、楽しくて作り過ぎちゃったかも……」
「俺めっちゃ食えるよ、なんならそれだけでもいける」
「甘さどうですか?」
ティースプーンで柔らかめに作られたそれをすくって俺の口に運んでくれる。もっと甘くてもいいんだけど、シフォンケーキに添えるなら充分な甘さだ。
「んまい」
「良かったぁ。じゃあ後は焼けるまでのんびりしましょ。紅茶飲みます?」
「んー……クリームもうちょっと味見してもいい?」
「銀時さんって本当に甘いもの好きですよね。シフォンケーキの分ちゃんと残してくれるならいいですよ」
洗い物を終えると「ありがとうございました」とタオルを渡される。エプロン姿で嬉しそうに俺を見上げるその笑顔にじわじわと悪戯心が生まれる。平然とした顔で手を拭いてから姫にクリームが入ったボウルを渡すと、不思議そうな顔をした。
「人差し指出して」
「こうですか?」
片手でボウルを持たせて、右手で1のポーズを取ってもらってからその手首を掴んで強引にボウルの中に突っ込んだ。
「わあ!何するんですか!」
「なにって、味見」
たっぷりとクリームがついた指を引きあげて手首を掴んだままその腕を引き寄せる。ゆっくりと俺の口に近づいていく様を見て何をするのか察した姫は目を見開いた。
「や、銀時さん、待って…!」
ここで素直に待つ男がいるなら教えて欲しい。口を開けてその細い指に舌を滑らせる。ふわりとした白いそれの下には強張った人差し指。何度か舌を這わせて綺麗に舐め取るのを信じられないものを見るような目で見ていた。
「〜〜、やだ、恥ずかしい…っ…!」
「俺さー、マジで甘いもの大好きなんだよね。特にクリームが。だから食べ始めたらなかなか止まらないんだわ。しかもこんなに美味そうなのがセットになって目の前にあったら……食べずにはいられねーよな?」
これ見よがしに舌舐めずりをすると顔を真っ赤にして言葉を失った。もう一度手を動かして指にクリームをつけて、今度ははじめから口に含む。さっきスプーンであーんしてもらった時より甘ったるく感じるのは姫のこの表情のせいだ。
羞恥と動揺で混乱しているのに俺から目を逸らさない。指に舌を絡める度に眉をひそめ次第に熱を帯び潤みはじめるその瞳が何を意味しているのかなんて俺がわからないわけがない。だけど、まだもう少しだけ、この甘酸っぱい関係を味わっていたい自分もいる。付き合いはじめた頃はあんなにこの身体の全てを手に入れたかったのに、今ではまるでコース料理を堪能しているのかのように一品ずつ、少しずつこの子の身体を咀嚼したい。そして最後にメインを頂くのだ。じっくりじっくりと時間をかけた分だけそれは美味くなる気がするんだ。ああでも、姫の表情を見ていたらもう理性など捨てて頭から齧り付きたいような気分に侵される。
「姫の指、砂糖でできてんの?めちゃくちゃ甘いんだけど」
「…それは……クリーム付いてるから…っ、…」
「え?クリーム?付いてねーぞ?あー、このボウルの中のこれのこと?どれどれ、」
「あ…っ!もうやだ……!」
また指を突っ込むと一生懸命首を振って拒否している姿さえ可愛くて仕方がない。こんなに綺麗で、どこもかしこも整っていて、料理も上手くて気遣いもできて非の打ち所がないほど完璧な女なのに、身体だけはまだ男を知らない初心なところがまた俺の性癖を刺激する。最高。この高級食材をどう料理してやろうかそればっかり考えてるなんて知らねーんだろうな。
舌の動きを大胆にして唇も使って吸い上げると身体が震えた。同時に漏れる小さな声。あーーーー、もっとしてやりたくなる。
「そういやまだ味見してなかったよな?俺ばっかり食べてごめんな。今度は姫の番な。ハイどーぞ」
右手を解放してやる代わりに自分の指にそれをつけて小さな唇につんと当てた。片方の手で食べ頃のりんごみたいに赤い頬を撫でる。こっちも舐めたら甘そうだ。ああ、キスしてぇな。いつもならこうやってほっぺたを撫でてやれば目を閉じて唇を受け入れてくれるのに。今日はその前にもっと俺への愛情を見せて欲しい。
たっぷり時間を使って悩んだ姫は、ゆっくりと薄桃色の唇を開いて舌先で俺の指をほんの少し舐めた。
「…あまい、です」
「そんなちょっとじゃわかんねーだろ?」
おずおずと少し舌を出してもう一度舐めようとしたその上に指を乗せた。優しくゆっくりと滑らせて表面にクリームを塗りながら輪郭をなぞるように遊ばせる。どうすればいいか分からないと言った様子で閉じることができない口の端から唾液が溢れそうだ。はぁ、と熱い息が喉の奥から上がってくる。
「うまい?」
「…うん……」
「もっと舐めて、綺麗にしてくれる?」
今にも床に落ちてしまいそうなボウルを奪って台に避難させてから耳元で低く囁くと素直に頷いた。俺の腕を両手で支えさっき俺がしたようにクリームを舐め取る。これで合ってるのかと瞳が問うがそれよりも想像以上の破壊力を持つ目の前の光景にこちらが卒倒しそうになる。
「…エッロ……」
思わず口に出たのは心からの本音だがその言葉に耐えられないというように目を伏せてぱっと手を離した。クリームが綺麗になくなった指を見つつ、もっとたっぷりつけとくんだったと軽く後悔した。
「…ぎんときさん、口にクリームついてる……」
「ん、取って?」
抱きしめてキスしやすいように少し屈むと控えめに顔を寄せた姫の唇が口の端を掠めた。そういえば今日はまだキスすらしていない。それなのにこんなに息を弾ませて、言葉さえ交わさないが求めているものは同じだということはもうわかりきっている。そろそろ限界かもな、お互い。
唾液で艶めくその唇を味わおうとした瞬間、時間切れだと言わんばかりにチーンとオーブンが出来上がりを知らせた。
「…タイミング悪いな、誰か見張ってんのかこれ」
「あ、上手くできてるかな…!」
そそくさと背を向けてオーブンを開ける姫について行くと、ふわっふわに膨らんだシフォンケーキがあった。
「おーすげー!こんなに膨らむんだな」
「取り出しますね」
「俺やるよ。それ貸して」
ミトンを付けて熱々の天板を取り出し薄茶色に焼き目がついたシフォンケーキを言われた通りにひっくり返す。
「冷めるまでもう少し待ちましょ」
「じゃあそれまでキスできるってことだよな?」
「……ジェンガ、しませんか?」
「あれ、姫は俺とキスしたくねーの?クリームより俺の唇の方が欲しそうに見えたけど気のせいだった?」
「そんなこと……」
ない、とは言い切らないのが姫の素直で可愛いところだ。
「このままキッチンでキスすると腰砕けちゃうからソファ行きませんか?お姫様」
「……はい、」
「素直なところ、可愛くて好きだよ。ごめんやっぱソファまで待てないわ」
「……、ぎん、と…待っ、」
抱き寄せてちょっとフライング。クリームの余韻が残る二人の口腔内はほんのりと甘く蕩けそうなほど熱かった。エプロンの端から手を入れて全身の感触を味わいたい気持ちになる…が、我慢。唇を割り開いて控えめな舌を追うのに集中する。
「っ…ん…、…」
「姫のその声好き」
案の定身体から力が抜けて俺にもたれかかってくる。腰をしっかり抱いて持ち上げて、ソファに移動した。どさりと押し倒してより深く口づける。存分に柔らかな唇を味わうと、息を弾ませてとろとろになって俺を見上げる姫の顔。背筋が痺れるほどエロい。
「あー、めちゃくちゃ可愛い」
「…シフォンケーキ……冷めたかな…」
「まだ全然冷めてねーと思うけど?」
「もうむり、です…」
「じゃあ好きって言ったら離してあげよっかなー」
「…ぎんときさん、好きです……」
「もう一回」
「好き……」
「あーこんなんならずっと休日がいいわ」
「やだ、心臓壊れちゃう…」
「引いた?俺付き合ってる間ずっとこんなだから、逃げるなら今のうちだぞ」
「…銀時さんこそ、逃げないでね」
「押し倒されといてよく言うねぇ」
姫の両手が俺の頬を包む。結局シフォンケーキが冷めるまで飽きずにずっとくっついてキスを繰り返していた。
「…うわ、めっちゃふわふわじゃん、甘さもちょうどいいし美味いな」
「バニラビーンズがいい仕事してますよねぇ」
ダイニングテーブルで本日のティータイムのメインをいただく。できたてって何割か増しで美味い。しかも自分が作った物なら尚更。ケーキに添えられたクリームがさっきの甘い時間を思い出させる。姫も同じだったようで目が合うと恥ずかしそうにティーカップを手に取った。
「せっかく銀時さんにもエプロン用意しようと思ったのに……あんなことするならあげない」
「え、俺のエプロン?めっちゃ欲しいんですけど!」
「あーげない。キッチン立ち入り禁止にします」
「さっきはちょっと調子に乗りすぎただけだから許してマジで。姫ちゃーん、すんごいキスしてあげるから。おねがーい」
「それじゃさっきと変わらないでしょ…!」
テーブルの下から足で姫の膝小僧をつんつんするとお返しと言わんばかりに姫も足を伸ばそうとテーブルを覗き込む。が……ギリギリで俺まで届かなかった。
「……今足短いって思いましたよね?」
「思ってない思ってない」
「絶対思いましたよね?」
「ぶはっ!!最高だわ姫ちゃん」
「もー!笑わないでください」
この子がいるだけで何でもない1日が特別に思える。俺も姫にとってそんな存在になりたいもんだ。
title by 花洩