10.甘いね、いちごミルク
ピンポーン、
聞き慣れたインターホンのチャイムが遠くから聞こえる。少しずつ意識がはっきりしてくるがふかふかの毛布が心地良くて目が開けられない。もう外は明るいようだ。
こんなにぐっすりと眠ったのは久しぶりな気がする。最近は彼女のことばかり考えていたから持ち帰った仕事が進まず寝不足の日が続いていた。今となっては全て杞憂だったわけだが。
玄関の方から話し声がする。
姫ちゃんだ。荷物が届いたようですぐに扉が閉まる。パタパタとスリッパの音がリビングに戻っていく。キッチンで何か作っているようで、俺のいる寝室までいい香りが届く。
ようやくベッドから身体を起こすと閉じられた薄い橙色のカーテンが目に入る。寝室はベッドと白いドレッサーと備え付けのウォークインクローゼットしかなくて、シンプルだった。もふもふの円形のラグが足の裏をくすぐる。
彼女は肌触りの良いものが好きだ。この毛布も、ラグも、ベッドに置かれたいくつものクッションも、昨日見たパジャマも。全てふわふわで、甘い香りがする。
驚くべきことに、その中に俺がいる。彼女の好きなものの中に、俺がランクインしていたのだ。ふわふわでももふもふでもないヤニ臭くてやる気のない高校教師が。
パーカーを羽織り寝室を出て短い廊下を歩きリビングのドアを開けると、エプロン姿の姫ちゃんがいた。
「おはようございます」
「ごめん、寝坊した」
「ううん、早いくらいですよ」
姫ちゃんはもうすっかり身支度を整えて朝食を作っていた。迷わずキッチンに入って後ろから抱き竦めると、びくりと肩を揺らす。
「さかたさん、」
「朝飯?うまそう」
甘えるように耳元で囁くいてうなじに唇を落とすと、きゃあと悲鳴が上がった。
「もう、あっち行っててください」
「オイ酷いな」
「ただでさえ一緒に寝て恥ずかしかったんですよ…」
覗き込むと顔を真っ赤にして目を逸らされた。
そう、昨日のパジャマパーティーでお互いの気持ちを伝え合ってから離れ難くなり彼女の寝室を借りて一緒に寝たのだ。
姫ちゃんは同じ布団で寝ることを酷く恥ずかしがってしばらく背中を向けられていたのだが、最終的には手を繋いで就寝する形に至った。高校生か。これがヅラの言っていた清く正しい男女交際というやつですか。
まあ、姫ちゃんにとって俺が初めての彼氏ということになるから当たり前といえば当たり前か。いろんなことは時間をかけてゆっくり距離を詰めていこう。そう、これからはずっと一緒にいられるんだから。
「朝ごはん、パンかご飯かわからなかったのでパンメインでおにぎり握っておきました。お昼にどうぞ」
「気が効きすぎるんじゃありませんか。完全に奥さんじゃん」
「坂田さん、恥ずかしいです」
「つーか坂田さんって呼ぶのもうやめていいよ。彼氏なんだし、銀時でいいよ」
「えっ無理です」
「無理って何ですか。拒否した?今」
「だってずっと坂田さんだったから今更……ぎ、銀時さんなんて、恥ずかしい」
「恥ずかしがってんのも可愛いけど名前で呼んでくれた方が嬉しいわ。ま、そのうち慣れてくれるの待つわ」
「…はい、」
向き直って今日初めてしっかりと顔を合わせると、薄っすらと目元が赤くなっていることに気づく。
「目、赤くなってる。やっぱちゃんと冷やせば良かったな」
「嬉し泣きだから、いいんです」
「…かーわいい」
目元に唇を落としてもう一度ぎゅっと抱きしめる。
「ほんとにあっち行って……無理……」
「恥ずかしいのはわかるけど言い方酷すぎだからねキミ」
しばらく姫ちゃんをからかって朝食を運ぶ手伝いをしていると、ミルク(レープ)がやってきて水を飲んでいた。
「おうミルク。お前も飯にすっか」
ミルクに飯をあげて、俺たちも食卓についた。
2人で手を合わせる。
「いただきまーす」
ワンプレートにはトーストとサラダとスープ、それにココットに入ったグラタンが乗っている。
「あ、これ昨日のビーフシチュー?」
「そうです!チーズ乗せてグラタン風にしました」
「へーグラタン…お、美味いね」
「えへへ」
朝から姫ちゃんの作ったご飯を食べられるなんて、最高に優雅なモーニングだ。
つーか、この子俺の彼女になったんだよね?彼女なんだよね?これからはこの手料理、俺が独占できるんだな。
「そーいえば朝配達来てた?」
「はい、起こしちゃいましたね」
「いや大丈夫。姫ちゃん通販とかするんだ?なんか意外だなーと思って」
「結構しますよ〜、何件もお店見て回らなくていいし、重い物とか運ばなくていいから」
ミルクのトイレ砂とか意外に重くて、と続ける。確かにアレ持って歩いて帰るのは大変だろう。
「あー、車ないと余計そうだよな。今度からいつでも俺使ってな」
「え、そんな使うだなんて」
「車持ちの彼氏がいる女の子の特権だぞー?つーか俺が一緒に買い物したいだけ」
はは、と照れ隠しに笑うと姫ちゃんもはいと頷いた。不思議なもんでもうこの子の前で無理に格好つけたりしなくても大丈夫なんじゃないかと思う。昨夜2人して泣いたからか。両思いって、こんなに清々しい気分なんだな。
テーブルに置いたスマホが震える。ヅラからだ。定期的に集まって飲んでいるがここのところかなり頻繁に連絡が来る気がする。
「どうした。寂しいんかアイツ」
「お友達ですか?」
「あー、いつもつるんでるアホが飯いこーって」
「こたちゃんと辰馬くん?」
「ゲッ、姫ちゃん知ってんの!?ていうか何その呼び方!寒っ」
「お兄ちゃんの幼馴染みだもん。わたしだってそうですよ」
「いや、それ俺もなんだけど」
「坂田さんのことは避けてたから…」
「オイオイ、マジで俺ずっと蚊帳の外だったんだな。一歩間違えるといじめだよ?傷つくわぁ」
「そんないじわるな言い方しないでください。だって…初恋は実らないって言うから、見るだけで良かったんです。話すなんて恥ずかしくて無理…」
「ちょ、待って、急に可愛いこと言わないで。なに、姫ちゃんそんな突然ぶっ込んでくるの?次から『銀ちゃん、今から可愛いこと言うね』って前置きしてくんない?坂田先生ときめいちゃうから。こんなドキドキすんの慣れてないから」
「………、坂田さん、」
「うわ、オジサンを見るような眼差しで見ないで」
「違います。なんか坂田さんの方が可愛くて」
「…ちょっとこんなんで大丈夫なの?俺たち」
本当に高校生の教科書に載っていそうなお付き合いだな。無駄に歳だけ取った俺が一から始める恋。むず痒い。全身掻き毟りたい。
「ちゅーしていい?」
「…だめ」
「なんで」
「朝だから…」
「キスって夜するもんなの?なに想像してんの姫ちゃん。やーらし」
「ち、が、い、ま、す!」
つんとした姫ちゃんは立ち上がり食器を片付けはじめる。頬が少し赤いの、バレてますよ。
「待って俺洗うわ」
「い、や、で、す」
「あ、ら、う、よ」
「い、い、か、ら、き、が、え、て、き、て」
「はーーーい」
鍵を持って姫ちゃんの部屋を出て隣の俺の部屋へ。シャツとジーパンに着替えて歯磨いて顔洗って軽く髪を整えてから一服して姫ちゃんの部屋に戻る。なんだこれ。俺昨日から全然自分の部屋にいねーじゃん。
「坂田さーん、じゃん!」
「お、いちご牛乳」
「昨日コンビニで買ってきてくれたんですね。このエクレアも」
冷えたいちご牛乳をコップに注いで渡してくれる。
「そー、コレ大好物なんだわ。俺の血液ピンク色だよたぶん。エクレアは、姫ちゃんが食べたいって言ってたなーと思って」
「嬉しい」
一口飲んでグラスを姫ちゃんに渡すと、ピンク色の液体を口につける。途端に、ん!と意外そうに笑う。
「おいしーい!」
「だろー?」
「甘くて、ほんのり優しい香り…坂田さんみたい」
「ははっ、こんないいもんに例えてくれんの?」
グラスを取り上げてテーブルに置いてから抱き寄せる。優しくキスをするといちご牛乳の香りがした。
「甘いね」
「…うん、」
ああ、好きだ。心から。