06.レグルスの祈り
屯所での生活もだいぶ慣れてきた。
しばらくはリハビリも兼ねて女中さんの簡単なお手伝いをしていたけれど、近藤さんから例の事件の捜査を一旦打ち切ることを告げられここにいる理由がなくなったわたしは、そろそろお世話になった真選組から出て行かなければと思っていた。
ここでの生活は、賑やかでとても楽しい。それがなくなるのは少し寂しいけれど、ここは警察だ。いつまでもここにわたしがいることで迷惑になるかもしれない。
ある日、近藤さんをはじめ土方さんと総悟くんがああでもないこうでもないと話しているところを見かけた。お茶を持っていきつつどうしたのか聞いてみると、『姫ちゃん、正式に女中としてここで働いてくれないか、ついては部屋の所在をどうするかを話し合っている』という提案をされた。
「えっこのまま女中に?いいんですか?…嬉しいです。がんばります!」
「そう言ってくれると思ったよ!姫ちゃん、今は客間をそのまま使っているだろう?住み込みの女中用に離れがあるんだが、そんなに大きくなくてね、今は満室なんだ。かと言ってこのまま屯所に本格的に住んでもらうのも色々と不便だろう」
「いっそ近くにアパートでも探すか、と思ったんだが……お前が無事に一人暮らしできると思えねぇんだよなぁ」
煙草を吸う土方さんにふうと白いため息をつかれて、ちょっとむ、とする。そんなにだらしなくないですよ、わたし。
「土方さん、わたし一人暮らししたことありますよ。家事だってできます」
「ん?ああいやそうじゃねぇんだ。姫には何の問題もねェよ。ただ……」
「悪い虫が寄ってくるから危険ってことでさァ。姫が住んだらゴキブリホイホイみたくそのアパートに追っかけたちが住みつくだろうな。変態ストーカー共がわんさか釣れそうだねィ。それはそれで見ものだな」
「…一人暮らし、やめる」
そう言えば、この江戸という町はもとの世界よりも段違いに物騒な町だったことを思い出す。刀を持ち歩く人、凶暴でおそろしい天人、この町を守っているのは、目の前にいる真選組のみなさんなんだ。一人暮らしをしてもし何かあれば迷惑がかかる。本当はできれば、総悟くんやみんなの近くにいたい。
「女中さんの離れに空きが出るまでこのままでも大丈夫ですよ。必要ならもっと奥の部屋でも。荷物はそんなにないのですぐに移動できます」
「じゃあせめて人目に触れにくい角の空き部屋を使うといい。姫ちゃん、何か必要な物はあるかい!?おじさんがなんでも買ってあげるからね!」
「いえ…こんな素敵な着物をいただいたのに…その上、お仕事とお部屋をいただけて、もう充分です」
「姫ちゃん…………!なんていい子なんだ…!今日の着物も本当によく似合ってるよ!もちろん昨日着てたのもまた綺麗だったなぁ!なぁトシ総悟!」
「近藤さん変態オヤジの面してやすぜ。逮捕していいですかィ」
「親戚のおじさん状態じゃねぇか…ったく、姫には甘めーんだよな…」
「俺はね姫ちゃん!君のこと妹のように思っているからね、何でも言ってくれ!」
「近藤さん…!ありがとうございます」
「いや妹は無理だろ」
「どう考えても美女と野獣ならぬ美女と野生のゴリラですぜ近藤さん」
*
総悟くんは討ち入りの後はわたしの部屋にやってくるようになった。
その日だけはいつもより口数が少なく、ただ隣に横になっていたり、縁側で月を見たりして一緒に過ごしている。いつも討ち入りの後だと感じさせない石鹸のいい香りを纏ってやって来るから、気を使ってお風呂に入ってから来てくれるんだろうな。
今夜も、きっとここに来る。
「姫」
「総悟くん、お疲れさまでした」
「そんなところにいると風邪引くぜィ」
「ストールがあるからあったかいよ」
縁側に腰かけていたわたしの隣にどかりと座る。給湯室から借りてきておいたポットから温かいお茶を入れて渡すと、ひと口飲んで息をついた。
「討ち入りの前、月が見えた」
「うん。わたしも見てたよ」
「姫が…ここで待ってること思い出した」
「…うん」
「守りてェもんができるなんて、柄じゃねェや」
「……わたしのこと?」
「他に誰がいるんでィ」
「わたしも総悟くんのこと守りたいな」
「……はーーー……鈍感もここまでくると凶器だな」
お茶を飲み干した総悟くんは、わたしの太腿に頭を乗せて目を閉じた。綺麗な顔が近くにあって、少し熱い体温にどきりとする。ストールを少し広げて総悟くんにもかける。体が大きいから、入りきらないけど。
「総悟くん、わたしも総悟くんのこと守りたい。本当だよ」
「……女に守られるなんざカッコ悪りぃや」
「ふふ」
総悟くんの纏う空気が柔らかくなる。
討ち入りのあとはどこかピリピリした雰囲気だけど、一緒にいるとだんだん総悟くんの気持ちがリラックスしていくのがわかる。心を許してくれているんだと実感して嬉しい。少しでも総悟くんの心の拠り所になれているのかな。
時の流れが穏やかになる。2人で寄り添っている時間がいつのまにか大切なものになっていた。
さらりと総悟くんの髪が風に揺れて、ハッとする。
色素の薄い髪の間から、赤い切り傷が見えた。
手で髪をすかきあげておでこを出すと、血は止まってはいるものの刀傷であろう太い線がはっきりと存在を示している。危険な仕事。生きるか死ぬかの世界。その最前線にこの人は立っている。
本音を言うと、心配でたまらない。
無事を祈りながら待っている時間は途方もなく長い。でも、これは総悟くんの、みんなの選んだ『守る術』だから。やり遂げると決めて進む彼を止めることはできない。なら、わたしはわたしの方法で、総悟くんを守りたい。それがまだ何かわからないけれど……きっと、わたしにもできることがあるはず。だからそれまでどうか待っていて。
痛々しい傷に吸い寄せられるかのように、無意識に唇を寄せた。
*
全身が軋んでいる。
戦いの後は気分が高まって寝られそうにない。姫が現れるまではあの木の上で過ごしていたが、最近は行っていない。代わりにふらりと姫の部屋に行くようになった。
遅い時間にも関わらず姫はいつでも笑って受け入れる。討ち入りだと伝えた日には温かいお茶を入れて縁側に座って、俺たち真選組ひとりひとりの無事を祈るように月を見上げて。
夜の月を見るとあの夜を思い出す。
月が俺の元に運んだ瀕死の姫。目が覚めて怖いと言った瞳。腕の手形。胸の傷。自分がもといたところから記憶もなくボロボロの身体ひとつで放り投げられて、頼る者もなく傷の痛みに苦しむ日々。
どうにかしてやりたかった。痛みや傷痕は取り除いてやれないが、せめて希望を与えてやりたかった。慣れないながらも病床の姫の部屋に通い取り止めもない話をした。そして初めて小さく溢した笑顔が、胸を焦がした。
言葉を交わしてみるとその佇まいの通り姫の心は純粋で綺麗だった。争いのない国に生まれ、人を傷つけることを嫌う。悪を知らない瞳。確かに姫は、この世界の人間ではないと断言できる。身も心も美しすぎる存在。それは時に眩しく写ったが、よく笑い心を開いてくれるようになると癒しの力でもあるかのように落ち着いて心を許せる唯一の女になっていった。
初めは、拾った者としての義務と真選組としての正義感からだったのかもしれない。だが、初めて笑顔を見たときにはもう惚れていたと言ってもいい。認めてやる。俺は、姫が好きだ。
討ち入りの後、今夜も姫の部屋に向かう。
血の匂いも消してわざわざ着替えるあたり、そんなによく思われたいのかと自分で笑えてくる。
今夜も彼女は待っていた。肩にかけたストールが風に揺れる。初めて出かけた日に買った物だ。控えめな装飾が白い肌によく映える。
「姫」
名前を呼ぶとこちらに気づき、花が咲いたように嬉しそうに笑う。
もうあとは寝るだけなので、髪を下ろし化粧っけのない幼い笑顔を見られるのは自分だけだということに優越感を覚えると同時にその無防備さに目眩がする。
「守りてェもんができるなんて、柄じゃねェや」
「…わたしのこと?」
姫は拍子抜けするほど鈍感な女だ。
駆け引きもなにもあったもんじゃねェ。
ただ、はっきりと想いを伝えることで今の関係が変わることを心のどこかで恐れている自分がいる。
少しずつ距離が縮まっているのはいいが、彼女にとって俺は恩人か友人だ。
一度好きだと自覚してしまえばもう負けたと同じだ。姫の表情や言葉一つで、簡単に惑わされる。
まさかこの自分が、1人の女にこんなに心が揺れるとはこれまでの人生で知らなかった。
「総悟くん、わたしも総悟くんのこと守りたい。本当だよ」
予想外の言葉にどきりと胸が鳴るのを悟られないようにするのに精一杯だ。平和主義で争い事を嫌う姫が、いつ死ぬかもわからない俺に向かってここまで言うことは意外だった。
「……女に守られるなんざカッコ悪りぃや」
だからつい、突き放してしまう。
完全に照れ隠しだ。余裕なんてものはどこかに落としてきてしまった。
ふと、膝枕して近づいた距離で風が吹く。
姫の細い指が、ゆっくりと額の髪を攫った。
やべ、気づいたか。
珍しく顔に追った傷がじんと痛みを持ち熱くなる。
弁明するために目を開けようとすると、額に柔らかく甘い感触。まさか、
「…………!」
思わず身体を起こすと、姫の顔が触れそうな距離にあって動揺する。驚いた表情の姫は、信じられないと言いたげな様子だ。
「…うそ………………」
そこで気づく。
額に痛みも熱もないことに。
そっと手を当てるが、傷口はどこにもなかった。