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45.君と生きる夜が欲しい



長く降り続いた雨は嘘のように止み、穏やかな晴れの日が続いていた。突如として江戸を襲った原因不明の黒い雨の影響で家屋や橋は崩れ、草木の多くが枯れてしまった。その上増水によって川が氾濫し水害もあちこちで報告された。町人は勿論真選組も復興に向けて慌ただしい日々を送っていた。…ただ一人を除いて。

「総悟、調子はどうだ」

「どうもこうも全快でさァ。傷ひとつねェ。このクソ忙しい中休暇なんて必要ねェっつーのに近藤さんには困ったもんでさァ。俺より包帯だらけの自分を心配した方がいいですぜ土方さん」

「俺のはそのうち治るが…お前はそうもいかねぇだろ。休みのうちにその隈、どうにかしろ」

あの夜から三週間が経った。
長く生きすぎた亡霊を倒し戦いが終わったと思ったら黒い雨によって朽ちた橋が崩れ姫が川に落ち飲み込まれた。伸ばした手は届かず、最後に見た微笑みだけがまぶたの裏にこびりついて離れない。
自分も濁流に流されたがあの状態でこうして無事に戻ってこられたのは奇跡とも言える。姫が最後に撃った弾丸は的確に俺の胸を貫いた。だがそれは身体を傷つけるどころか目が覚めると残夢の攻撃によって負った怪我も、黒い雨によって傷つけられたもの全てが跡形もなく消えていた。恐らく残った僅かな治癒の力の全てが込められていたのだ。
咄嗟にこんなことできるか?普通。自分が橋から落ちてるっていうのにどこまでもお人好しで、人のことばかりで…やはりどこまでも俺が惚れた女だと思い知る。

荒れた川の流れが落ち着いて穏やかな風景が戻っても姫の手掛かりは何一つ上がってなかった。文字通り消えたと言ってもいいくらいに。残夢の亡骸とともに姫も死んだのか?月の力を使い切り、元の世界に……死んだ身体に戻っていったのだろうか。嫌な考えばかりが浮かんではそれを打ち消して、そんな風に想像する自分自身を殺したくなる。
大切な女を失った亡霊に『何があっても絶対に離すな』と、そう言ったのは紛れもない自分だ。それなのに何やってんだ俺は。どうしてアイツを守れなかったんだ。何よりも大切なはずだろう。距離があったから、怪我をしていたから、撃たれたからなんて言い訳にしかならない。頭を撃たれたって身体を真っ二つに斬られたって、この腕で引き上げてやらなければならなかったのに。
身体のどこを見ても傷がない。まるであの夜さえなかったかのように。

目が覚めた時、枕元で安堵の息を吐いた包帯だらけの近藤さんの表情を見て全てを悟った。真選組の連中がどれだけ必死になって姫を探してくれたのかも、後から聞いた。

『ごめんな…総悟、ごめんなぁ……!』

尊敬する人にあんな顔をされたら何も言えなかった。謝るのは俺の方だ。自分の女を満足に守り切れなくてなにが一番隊隊長だ。それよりも責めて欲しかった。お前が弱いからだと、もっと早くアレと姫を引き剥がして撤退していればと、数え切れない判断ミスを指摘して罵ってくれた方が良かった。近藤さんや土方の野郎がそれをしないのは、そんなことに何の意味もないとわかっているからだ。振り返って反省会なんざしたところで時間が戻るわけでもなければアイツが帰ってくるわけでもない。ボロボロの二人と戦いの痕跡が何一つないこの身体の違いがまた、俺を惨めにさせた。

目が覚めた翌日、起き上がってみれば異常はないものの身体が鉛のように重く動かなかった。酸欠のように頭がうまく働かない。以前は仕事をサボっては昼寝をしていたのに昼も夜も眠れない。脳味噌が溶けてなくなったかのようだった。見かねた近藤さんから休暇を言い渡された。

『今の町の様子じゃしばらくは雑用ばっかりだ。ちょうどいいからお前は休んで体力戻しとけ』

そういうわけで日がな一日中ブラブラして過ごしている。朝から晩まで素振りをした日もあれば土方の野郎のマヨネーズをケチャップに変えたり山崎の髪の毛を毟ってみたりしたが何も満たされるものはない。この間まではこんなくだらないことひとつで腹抱えて笑ってたはずだ。

「…一人の過ごし方なんざ忘れちまった」

怒って追いかけてくる土方を巻いて、見つからないように廊下の影でこそこそ話をして、手を引いて走って逃げた。やってることはあの頃と変わらないのに。
食堂で隊士を迎えて配膳する。食後に茶を注いで回って世間話に花を咲かせる。前が見えなくなるくらいの洗濯物を抱えてふらふらと運んで、お盆に茶を乗せて『そろそろ休憩しませんか』と屯所内を回る。買い出し、飯の仕込み、掃除と洗濯、そして俺を見かけると後をついてきて鈴を鳴らしたような声で『総悟くん』と呼ぶその朗らかな女。アホみたいに鈍感で怖がりで、なのに自ら危険に足を突っ込んでいく目が離せない女。手に入ったかと思えば全く思い通りにならないし変な野郎に好かれるわ絡まれるわお約束のように何かに巻き込まれ、たかが女に振り回されるのは性に合わないのにアイツの為なら踊らされるのも悪くないと思う瞬間さえある。何度肌を重ねても恥ずかしそうに目を伏せ全身で俺を受け入れ幸せそうに笑う、俺のただひとりの女。

姫がいない。この世界のどこにも。
傷も怪我も何もない。
なのになぜこんなにも胸が痛いんだ。








「おー思った以上に死んでるね総一郎くん」

「何の用ですかィ旦那。今回の災害で万事屋の依頼が入りまくって忙しいんじゃねーんですかい」

「そーなんだよもうウハウハで忙しすぎて困っちゃうよォ。今日も2件終わらせてきたところで午後からまた出なきゃなんねーんだよ」

「そんなに忙しいのにわざわざ呼び出した理由はなんなんですか」

珍しく万事屋から呼び出され来てみれば掴みどころのない銀髪が一人机に足を乗っけてジャンプを読んでいた。立ち上がり台所で茶を煎れるのかと思えば出てきたのは湯呑みにぬるそうな水道水。もてなす気はないらしい。

「いやね、例の黒い雨が降った夜にあのデカい橋が落橋して女の子が巻き込まれる事故があったって聞いたから。姫のことだろ?そんでここんとこ続いてた気色悪い空気も例の男の仕業だろ?で、この晴天。無事に事件解決チャンチャーンって感じっすか?」

「……何が言いたいんですか」

「姫、守れなかったんだろ。ダッセェな」

向かいのソファで鼻に指を突っ込み心の底から嘲笑う旦那の胸ぐらを掴むとガタン!と湯呑みが倒れテーブルに水溜りを作った。

「人んちで暴れないでくれる?これだからチンピラ警察って言われんだよ」

「挑発しといて言う台詞でもないですぜ」

「は、挑発?紛れもない事実だろ」

死んだ目が責めるように俺を睨む。あの夜以来この目を向けてくる奴はいなかった。そういう役割を買って出たのかそれとも本心か。この男はアイツを狙ってはいたが万事屋トリオとは友達として仲良くやっていたはずだ。何か思うところがあるのだろう。

「何も見つからなかったんだろ?変態ストーカー野郎倒して元いた世界に戻ったって思うのが筋じゃねーの」

「…向こうで姫は殺されてまさァ。戻ったとしてもどんな状態かわかりやせん」

「で?何をグダグダしてんの?これが総一郎くんのハッピーエンド?姫はな、あっちに帰るために源外のじーさんにタイムマシンの製作を依頼してた。忘れ物があるからってな。友達もいて、クソ生意気な恋人もできて平和に暮らしてたのに自分が殺された世界にわざわざ戻りたいって言ったあの子の気持ちを考えろ。死んだとか殺されたとか、見てもねぇクセにうるせーんだよ」

「…………」

「姫がここにいない以上、お前が死んだって思ったらあの子は本当に死んだことになる。それを忘れんな」

不快な言い方ではあったが浴びせられた言葉がストンと胸に落ちた。俺は受け入れようとしてしまっていた。姫が消えた事実を。与えられた事実を飲み込むのは簡単だ。いつか時間が解決するだろう。今までだってそうしてきた。だがこれだけは譲れない。

「…旦那に元気付けられるなんざ俺も落ちたモンでさァ」

「元気付けてんじゃねーよ弱ってる傷口に塩塗りまくって虐めていつもの仕返ししてんだよ。……ったくお前ら二人は顔合わせりゃあ毎度毎度惚気やがって。でもそんな鬱陶しい奴らでも…いなくなると寂しいだろ」

あーやだやだと言う男はもういつものだらけた顔でへらりと笑っていた。帰ろうとするとちょうど玄関の扉がガラリと開く音がする。

「ただいま戻りましたー。銀さん、お昼ご飯買って来ましたよ。神楽ちゃんも別の現場からもう帰ってくると思いますけど………ってあれ、沖田さん来てたんですか。今お茶を…」

「もう貰ったんで帰りまさァ」

「え?あ、沖田さん」

万事屋を出て階段を降りると赤いチャイナ服を着たガキが立っていた。恨めしそうに俺を見ている。お前もか。

「説教なら今受けてきたぜ」

「…説教なんてしたってしょうがないアル。やっぱりお前に姫は勿体ないアル」

「まぁ今回ばかりは返す言葉もねーな」

「姫は…いつも意地悪な男のこと考えててよくわかんないつまんないことばっかり話してどこが良いのか全然わかんなかったけど……でもソイツの話をする時の顔見ると私の心もあったかくなった気がして嫌いじゃなかったネ。私の大切な友達、ちゃんと守って欲しいアル。最後まで」

「言われなくてもそうすらァ」

地を踏みしめて歩き出す。まさかこいつらに気付かされるとは不覚だ。忘れていた。あまりにデカい喪失感に飲まれちまうところだった。どこにいても迎えに行くと言った。俺のやるべきことは一つ。月の国へ行く。必ず見つけ出して掻っ攫ってやる。あれはもう俺のもんだ。







夜、手がかりを探すため姫の部屋に入るとこの数週間使われていない、あの夜のままの光景があった。俺が見回りに出た後に読んでいたであろう本が数冊小さな机に置かれている。その一番上にあるのはいつか姫と重ねて読んだ『かぐや姫の物語』。姫がしていたように縁側に出てパラパラとページをめくっていると最後の方の一文が目に入る。

「『…かぐや姫が月に帰るとき命を長られる力を貰いましたが、かぐや姫がいない世界で長生きしても意味がないと言ってそれを燃やしてしまいました』」

今の俺みたいだ。例え戦いから無傷で戻ったとしても、命を救われようとも、姫がいなければ何の意味もない。アイツこれ読んだくせにわかってねェだろ。咄嗟の行動だったにしろもっと自分のことを優先させてくれ、頼むから。でもそれが姫らしくて笑いが漏れた。そうだ、姫はそういう奴だ。だから俺がいてやらねぇとって思ったんだ。昼間の万事屋とのやり取りで本来の自分を取り戻しつつあった。
物語の最後はかぐや姫が月に帰り生き別れて終わる。こんな終わりには絶対させない。

『……君の中にあの子の力を感じる』

「っ!?」

突然なんの気配もなく頭の中に声が聞こえたと思ったら何もない空間に立っていた。ここはどこだ?一体何をされた?実体は見えないが確かにここにいる。コイツは何者だ?

「誰でィ」

『君の体の中にあるあの子の力を通して話しかけている。イヴと残夢の夜を終わらせてくれてありがとう。やっと……闇の支配から力が戻ってきた』

「…アンタまさか、姫が言ってた月の神様、か」

『姫……そう、姫。最後に残った力の全てを君に込めたんだね。もう力はない。イヴの欠片も壊れて消え、ただの人間に戻った。もともとあの子は力を必要としなくなっていた。君たちそれぞれの守る形をみて、あの子なりの答えをみつけたんだろう』

「姫は今どこにいる?生きてるんだろうな?」

『元いた世界に戻ったよ。もうひとつの夜を終わらせに』

「もうひとつの夜?」

『それがあの子の願いだった。そして…君のことも言っていたよ。生きる理由だと』

姫が元の世界に戻りたいと言った理由は何だったか。残夢に襲われた夜、一緒にいた子どものことを話していた。ならば姫の戦いはまだ終わっていない。

『…この世界とあちらでは時間の流れが違うから私の力でも望み通りの時間に連れて行ける保証はない。あの子のことだからうまくやれているとは思うけれど。さぁ君はどうする?君は月の子どもではないけれど…今回のお礼に願いを一つ叶えよう』

「願いなんざねーよ。やるべきことは姫を守ること、ただそれだけだ。だが叶えてもらう必要はねェ。自分自身の手で守らなければ何の意味もねーからな」

『そう……。ならば君を最後の夜に連れて行こう。あの子が再び死ぬ前に。過去を変えた上で君たちが望むものを手に入れるのはとても難しいが…きっと……』

次第に声が遠ざかり眩い光に飲み込まれているうちに意識を失う。

『帰り道は満月の揺らめきの中にある。それがタイムリミットだ』

次に気づいたときには屯所も江戸の町もなく、全く知らない世界があった。

雑踏。人が多過ぎる。どこもかしこもかぶき町のように明るく、煩すぎる。夜なのに明るく人工的な光ばかりが目に眩しい。これが姫の、生きていた世界。この町のどこかに、姫がいる。

「…予想以上に難しそうだな」

月の神に送ってもらえたことは好都合だった。だが時間がない。あてもなく歩くが目的地なんて分かりゃしない。こいつらはどこに向かって歩いてんだ?こんなに多い人の中からたった一人を見つけることなんてできるのか?いや、見つけなければならない。

確かこちらの世界で姫を殺したのはカフェの店員と言っていた。とにかく虱潰しに探してみるか。まずは目に入った店を覗いてみようと思い人の流れに逆らおうとすると後ろから走ってきた男性にぶつかって荷物がバサバサと地面に落ちる。

「!申し訳ない」

「いや……」

「迎えの車が来れなくなってね、久しぶりに電車を使おうとしたら迷ってしまって…次が終電なんだ」

落ちた荷物を拾って渡すとありがとうと言って駅の方に走っていった。ここでの移動手段は車と電車か。
こつ、と足元に何かが触れた。革のカバーがかけられた手帳だった。あの男の物だろう。追いかけようとしたが人混みの中にもうその姿は見えなくなっていた。パラパラとそれをめくると中はスケジュール帳のようで予定がびっしりと書き込まれている。落としたらヤベェやつじゃねーか。そして後ろのポケットに何かが挟まれてるのを見つけて興味本位で取り出してみる。写真だった。

「………これも神の思し召しってヤツか?」

そこに写っていたのは今より幾分か若いあの男と幸せそうに微笑む女、そして真ん中に幼さを残した姫があのヘラヘラ顔で笑っていた。






翌朝、その辺の通行人から拝借した財布の小銭を使い電話ボックスで手帳に入っていた名刺の番号に電話をかけると男は酷く感激しお礼がてら食事はどうかと誘われた。
家に招待してくれと頼むとあっさり聞き入れた。警戒心のなさは親譲りか。昨日の駅前で、と待ち合わせして待っていると高級車が停まる。後部座席の窓が開いて手を上げたのは昨日の親父だ。こうしてまじまじと見るとどことなく姫に……いや、似てないな。車に乗り込み手帳を渡すとにこりと笑った。

「待たせたね。電話をくれた時は驚いたよ。今時こんなに親切な子がいるなんてなぁ。君、名前は?」

「沖田総悟」

「沖田くん、本当にありがとう。これがないと仕事にならないんだ。それにしても本当にうちで良かったのかい?対して面白くもない普通の家だ。家政婦の料理は美味しいけどね」

「ああ…この辺初めてで…普通の家を見てみたかったんで」

「海外から旅行で来たのかい?日本が好きなのかな?袴が良く似合う」

「まぁ……」

この世界の常識が分からないから迂闊に喋れないのがもどかしい。姫の父親の話は夏に花火を見た時にほんの少し聞いたことがあった。確か母親が死んでからあまり関係は良くなかったという印象がある。目の前で話す男は大らかで落ち着いていて、家族を大切にしそうな穏やかな雰囲気を持つ男だった。

「僕にも君くらいの娘がいてね。元気でやってると良いんだけど」

「元気で?一緒に住んでないんですかィ」

「高校を出て一人暮らししているんだよ。世間知らずだから反対したんだが…頑固なところがあって。僕に似たな、アレは」

「…あの、写真の子ですかィ」

「とっても可愛いだろ?姫っていうんだ」

「子どもの頃の写真が見れて良かったでさァ」

「ん?何だい?」

「いや…娘さんは近くに住んでるんで?」

「まあ、車で行ける距離ではあるかな。忙しくてなかなか会えてないんだ。来週からまた海外出張に出なければならないし。あの子もアルバイトもしているようだから時間が合わなくて」

車が停まったのは見上げるほど高い建物。まさかこれが姫の実家…と想像を超えるスケールに軽く引きそうになるが複数の家族が住んでいるようでいくつかの部屋があるようだ。エレベーターを降りて玄関を開けてもらうと女中のおばちゃんくらいの女が立っていた。

「お帰りなさいませ旦那様」

「ああ。この子が手帳を拾ってくれた沖田総悟くん。家政婦の立花さん」

「どうも」

「お若い方で驚きました。さあどうぞこちらへ」

「オジャマシマス」

家の中は恐らく『良い暮らしをしている人間の部類』に入るだろうという雰囲気で、どこもかしこも隅々まで掃除されていた。家政婦立花、やるな。女中になれば即戦力だ。

「お腹空いてるだろう?海外に行くと立花さんの和食が恋しくなるよ」

「嫌だわ旦那様。この間は飽きたなんて言ってたじゃありませんか」

「貴女が南瓜の煮物を三日も続けて出すからだろう」

「ホホホ安かったんで買いすぎちゃったんですよ。旦那様一人分じゃ消費しきれなくてつい何度も食卓に出してしまいました。沖田さんがいらしてくれて良かったわぁ。お口に合うかしら?」

「…うまいです」

出された料理はどれも旨かった。特に卵焼きや煮物は姫が作るのと同じ味がした。……今更だが姫がいないのに父親と家政婦に会って家に上がり込みその上食事をするなんてアイツが知ったらどう思うだろう。顔を真っ赤にしてやめて!とか言いそうだな。いやでもここはわざわざ次元超えてまで来てやったんだからこれくらいは許せよ。

「アレ見ても良いですか」

「ああ、どうぞ好きに見て回ってくれて構わないよ。面白いものがあると良いけど」

リビングの壁にかけられた写真。手帳の写真と同じ夫婦と子どもが笑っている。隣の額には寄り添い合う母親と娘。その笑顔は絵画のように美しい。

「娘は母親似でね。本当に仲の良い親子だったよ。二人とも音楽の才に恵まれていた」

「今は?」

「…妻が病気で死んでからすぐに辞めてしまったよ。僕のせいなんだ。妻がいなくなった悲しみに耐えられなくて…あの子から色んなものを遠ざけた。厳しくし過ぎたと反省しているよ。お陰で家を出て行ってしまったしね」

「誰かのせいにするような奴じゃねェ……と思います」

「え?」

「そうですよ、お嬢様は優しい子です。旦那様のお気持ちもわかっていらっしゃいます」


「はは、沖田くんに言われるとはなぁ」

「……実は…折り入って頼みがあるのですが」

単身で旅行に来ていたが荷物を盗まれてしまい身ひとつであること、滞在先も決まっていないことを話すと二人はなんて酷いと同情し好きなだけいていいと言った。チョロすぎる。とにかく拠点は手に入れた。しばらく空き部屋を間借りすることになり着ていた袴も動きづらいだろういうことで父親のシャツとスラックスを借りた。昼間は町の散策に出かけ家政婦が来るタイミングで家に戻った。
夜にベランダから空を見上げると満月に近い月が出ていた。十三夜だ。あと数日で満月になる。それまでに合流しなければ。

「月の国だと聞いたが月の光なんて届きやしねェ」

明るすぎる町。月が出ていなくとも自ら輝いている。姫には…どちらの世界が性に合っているだろう。

「眠れないのかい?それとも月見かな」

隣の父親の部屋とはベランダが繋がっている。見ると彼もまた上を見上げていた。

「…町が明るすぎて勿体ねェ」

「そうだね。星空は海外の方が綺麗に見えることが多いかな。ここはみんな忙しない。空を見上げて穏やかな時を過ごすことも少なくなった。……沖田くん、ひとつ聞いてもいいかな」

「何ですか」

「君には大切な人がいるかい?」

「…まぁ」

「どんな女性?」

にこやかに問いかけてくる男の娘の顔を思い出す。

「…何も出来ない弱いだけの女かと思えば…ちゃんと真っ直ぐな芯を持ってる。他人にばっか世話焼いて誰に対しても平等に優しさを分け与えるようなお人好しでさァ」

「そうか。沖田くんが側で見ていてくれるからその子は安心して誰かの助けになろうとできるんだね」

「…いや、そんなことは」

「そうだろう?君が絶対に守ってくれると信じているからありのままでいられるんだ。君のような人がそばにいてくれたらきっと幸せだろう」

「…そんな大それたモンじゃねぇ。守れなかった。大口叩いておいて救えなかった」

「果たしてそうかな。現に君はこうして守りに来たじゃないか」

夜空を見上げていた視線がゆっくりと俺に向けられた。胸がざわつく。この男、何か知っている。

「…アンタ、何者でィ」

「僕の妻…あの子の母親は昔から人より敏感でね。第六感とか…予知夢、とも言えるのかな。ふとした時に勘が働くことがあった。彼女が病床で言ったんだ。『姫はいつか恐ろしい危険に遭う』と。そして…『運命を共にする男の子が救いに来てくれる』、とね」

「それが俺だと?もしかして全部、知っているんですかィ」

「いや?残念ながら何も。僕には妻のような勘は働かない。だけど何故か…言いようのない確信がある。君がリビングで写真を見ている時の表情がとても穏やかだったから、かな。愛する人を見る目だったよ」

警戒する俺の心の内を読んでいるかのようにくすりと笑った。隠さずともわかっていたのか。

「あの子ももう年頃だしここからは親が出る幕じゃないことくらい分かってるよ。だからこそ君に頼みたいんだ」

向かい合う俺たちの距離はそれほど遠くないのに何故かこれ以上近づけない空気があった。それを易々と壊しこちらに真っ直ぐ歩いてくる。

「あの子を迎えに来たんだろう?仲良くしてやってくれ」

「いいんですかィ。大事な一人娘を素性の知れない男に委ねるなんざ…簡単に信用しない方がいいですぜ」

「君次第だよ。守ると約束してくれるなら」

俺たちの間に距離はもうほぼない。試されていたのか?いつから?アイツの父親だからと言って舐めていたことを軽く後悔した。

「姫をよろしく頼むよ。沖田くん」

「………どこの世界も親って奴はこえーですねィ」

目の前に差し出された手を正面から握り返した。




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