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44.だめでもいいよ。弱くてもいいよ。



橋から落ちていくその一瞬一瞬がスローモーションのようにゆっくりと瞳に映った。倒れ込む残夢の亡骸の奥、視界の端から覗いたその人の姿が遠く離れていくのを感じながらなぜ彼の手を取るための右手ではなく銃を握った左手を上げたんだろうと客観的に考えたりした。すぐに手を伸ばせば届いたのかもしれないのに。こういうところでいつもわたしは彼の顰蹙を買うのだ。
でも、咄嗟にダメだともう一人のわたしが言った。みんな酷い怪我だった。特に一番近くにいた総悟くんはもう血まみれで今すぐにでも止血しないといけないほどだった。一緒に落ちれば命が危ないと思った。だからほんの少しだけ残った最後の治癒の力を全部込めて総悟くんを撃った。これ以上出来ることはない気がした。近藤さんや土方さんも気掛かりだけどどうか無事でいて欲しい。
水の中に放り出され波に飲まれ呼吸もままならなくなりいよいよ意識が途切れたところで、また何もない真っ白な空間にいた。

「…神様?助けてくれたんですか?」

『よく頑張ってくれたね。ありがとう。奴の闇の気配は無くなった。もう蘇る事はないだろう』

「良かった……。あの、もう一人橋から落ちた人がいたと思うんですけど…」

『ああ、君が撃った彼のことかい?大丈夫、生きているよ。それにしても驚いたよ。君の中の力が何も残っていなければただ彼を殺していたところだった。咄嗟の判断であれができるとは少し君を見縊っていたかも知れない』

「自分でもちょっと驚きました。とにかく必死で…」

くすりと笑う声が頭に直接響いてくすぐったい気持ちになった。

「無事なら良かったです。…あの人はわたしの生きる理由だから」

『…君の役目は無事終わった。さぁ、どうする?元いた世界に戻る?それともこのままこの世界で生きていく?奴の闇の力が消えたお陰で、月の光が届く範囲ならその身体はこれからも生き続けられる』

「…わたしは…………」

ここで、生きたい。もう残夢に追われる恐怖もない。だけど…このまま終わりにできない理由がある。

「神様、わたしの世界の…時間を遡れますか?殺される前まで戻りたいんです。どうしても」

『…この世界とあちらでは時間の流れが違う。連れて行くことは不可能ではないけれど…過去を変えると言うことはその先に何が待っているか分からないよ。特に君は二つの世界に存在があるからね』

「それでも…ひとつだけ変えたい夜があるんです。お願い、連れて行ってください」

『…いいだろう。それが君の望みなら。さぁ目を閉じて。君に光の加護がありますように』

「ありがとうございます」

目を閉じて光に包まれる瞬間、わたしを呼ぶ優しい声が聞こえた気がした。








「……せんせー?せんせ?…姫せんせー!!具合い悪いの?ボーッとして」

「えっ、アイちゃん…?」

「プリント終わったよ。丸つけて!」

「う、うん」

気がつくと元いた世界の光景が広がっていた。バイト先の塾だ。着物も着ていない。目の前に頬を膨らませたアイちゃんがいる。これは夢?それにしては意識もはっきりしていた。デジタル式のカレンダーを見ると日付はわたしが殺されるちょうど一週間前。本当に元の世界に戻ってきたんだ。しかも過去に。神様、すごい。

「ここだけ惜しかったね」

「難しかったー。姫せんせーの説明わかりやすいから次は全部マルにできると思う!」

「がんばろうね!じゃあ今日はおしまい。また来週ね」

「はあーい」

「…ねぇアイちゃん、ちょっといい?」

「なに?」

ぎゅーっと力を込めて小さな女の子を抱き締める。ありがとう。あの時守ってくれて本当に嬉しかった。今度はわたしが絶対に守るからね。

「だーいすきだよ」

「へへ、なになに?姫せんせー甘えんぼさんになっちゃったの?」

「そうなのー」

「よしよし」

頭を撫でてお姉さん気分になったと言ったアイちゃんを見送ってバイトを終え、一人暮らしのアパートに帰ると一年振りのはずなのに部屋の中の何もかもが埃ひとつなくて、まるで朝出て行って戻ったかのように綺麗な状態だった。
荷物を置いてソファに座ってもなんだか落ち着かない。自分の家のはずなのに圧倒的に何かが足りなくて、しんと静まり返った空気に胸が締め付けられたような気持ちになる。一人って久しぶりだ。ずっと、大勢の人と暮らしていたから。毎日誰かの声がして、みんなの為にご飯の支度して、たくさんの洗濯物と掃除と……大変だけどすごく楽しかった。
そしていつもわたしの真ん中にいた人。総悟くん。あれからどうなったんだろう。わたしのこと探してくれたのかな。帰ってきたこと、気付いてくれるだろうか。総悟くんの怪我は治ったかな。力が足りているといいんだけど……。確かめる術はない。祈るだけだ。ほんの少し前、見回りのために屯所を出る総悟くんを見送った日常が遠い昔のことのよう。

考えているとブー、とバイブの音がバッグから聞こえる。スマホも久しぶりだなぁ。操作方法を思い出しながら指を滑らせてみると学校の友達からで講義についての話題だった。最後の夜まであと一週間。ここでジタバタしても仕方ない。普段通り過ごそう。返信してスマホをテーブルに置いた。リビングのカーテンを開けると江戸で見ていたよりもかなり明るい夜景が広がっていた。

「…さよならって言えなかったな……」

『普段通り』って、どうやるんだっけ?あそこで過ごした僅かな時間がこれまでの全てを上塗りしてしまった。今となっては日常はもうあの世界だ。

「……総悟くん」

返事なんてない、この世界のどこにもいない人の名前。わたしが望んだことだから後悔はない。総悟くんも待っててくれるって言った。迎えに行くとも。それでも寂しさは隠せないからせめて、名前を呼ぶことだけは許して欲しい。







「えっ!?えっ、ちょっと待って姫彼氏できたの!?いないって言ってたよね!?いつの間に!?」

「えーと………最近……?」

時間の流れに逆らって戻って来てしまったからはっきりしたことは言えないので思わず疑問形になってしまった。学食で友達とご飯を食べていると合コンの話題になって例の如く誘われてしまい、断るために『彼氏ができた』と白状してみたら驚いた女子校時代からの友達の声が学食に響き渡った。周りでヒソヒソと噂話されている。恥ずかしい。そして質問攻めが始まった。

「男が苦手な姫が……誰!?どんな人!?うちの学校!?」

「同い年なんだけどね、偶然出会って助けてもらって…すごく格好良くて強くて優しい人」

「偶然ってそれ運命っぽくない?体育会系ってこと?ハイスペックじゃんめっちゃ気になる!写真とかないの?」

「そういえば写真撮ったことなかったかも」

「もー、何のためのスマホ?」

スマホも携帯もあちらでは持ってなかったからなぁ。目の前にいるのが当たり前すぎて写真なんて思いつかなかった。

「…姫、なんか明るくなった?週末より全然雰囲気変わった気がする。うまく言えないけど」

「うん、そうかも。いろんな事があって…なんだろう、一皮むけた感じかも」

「枝豆的な?」

箸で枝豆を摘んで見せてくる。明るくてお茶目だなぁ。

「ふふ。そうそう枝豆」

「本当だ、この間まで冗談通じなかったのにめっちゃ乗ってくれるじゃん!彼氏のおかげ?」

「うん。今は会えないんだけど…みんなに自慢したいくらい素敵な人なんだよ」

「遠恋かぁー…がんばれ!いつでも相談のるよ!」

「ありがとう!」

「いいね、今の姫。すごく魅力的だよ。もともと目立ちまくってるけどもっと人気出そう」

友達がしみじみと言いながらデザートを口に入れた。わたし、そんなに変わったんだ。

「姫ちゃーん。お疲れ」

「あ、お疲れさま」

同じ専攻でよく話しかけてくる男の子だ。そういえば殺されたあの日も飲み会に誘われたっけ。

「今度合コンやるんだけど来ない?てか毎回断られてるけどめげない俺凄くね?」

「残念でした〜姫彼氏いるから無理でーす」

「えっ!?マジ!?いつの間に…ってかそうか、だからか。なんか今日すげー綺麗だなーって思ってたんだよな」

「ちょっとナンパしないでよ」

「あの…合コンは無理だけどみんなでご飯なら行きたいな」

「マジ!?サンキュー姫ちゃん!じゃあさクラスのみんなで行こ!今度!」

「うん」

やった!とスキップしながら購買の方に消えていく背中を見ながら、多分わたしは今まで人との関わり方が間違っていたんだなと思った。避けたって始まらないし自分から興味を持って寄り添って行かなきゃ何も変わらない。相手も踏み込めない。苦手意識ばっかりで勝手に予防線を張って肩身を狭くしていたことに気付いた。だからもっと知りたい。そう思うとこの世界の日常も案外悪くなかったんだと思った。

「いーじゃん、ご飯会。前向きだね」

「自分の殻に篭りすぎてたかもと思って」

「あー本当に彼氏に会ってみたいなぁ」

いつか二人で写真撮れたらいいなぁ。総悟くん、写真嫌いかな。嫌がりそうな気がする。想像して笑ってしまった。



戻ってきて数日。バイト前の習慣はカフェでココアを飲むこと。これは悩んだけど外してはいけない気がした。わたしを殺す人が働くカフェ。今日はまだその日じゃないとわかっているのにバッグを持つ手が汗ばんだ。

「いらっしゃいませ」

……いた、あの人だ。眼鏡をかけた大人しそうな店員さん。いつもにこやかに接客してくれるその眼差しがたまに恐ろしい色を持つことがあった。それを感じていたのに何も出来なかったのはわたしの弱さだ。
「お待たせしました」

目の前に置かれたココアから手が離れるのを咄嗟に掴んだ。びくりと震えたのは多分お互い。

「あの、もし時間があったら少し話せませんか?」

「…えっ?」

ひどく驚いた様子でしばらく無言になった店員さんは、掴んだ手を離すと少し待って下さいと言い残して足早に引っ込んでいった。あの手がわたしの腕を掴む、そして握りしめたナイフが胸を貫く。傍らに倒れるアイちゃんの姿。まばたきする度にあの光景がフラッシュバックする。

「…落ち着いて」

深呼吸してやり過ごす。変えに来たんだ。大丈夫。

「あの……もう上がりなので」

私服に着替えてきたその人は明らかに困惑していた。何度も顔を合わせたことはあるけど店員と客としての関わり以外で察したことはなかった。向かいに座って貰ってココアを一口飲んだ。

「驚きました。まさか姫さんから…声を掛けて下さるなんて」

「名前、知ってるんですね」

「ご存じないとは思いますが俺…同じ短大で、噂は聞いてますから」

「すみません、知らなくて。貴方は…」

「久城(くじょう)と言います。高校の時からここでバイトしてて…うちの店に来てくれた時からずっと見てました」

気付いてたかもしれませんが、と久城くんは気まずそうに目を逸らした。

「久城くん、ひとつ提案があるんですけど…わたしと友達になってくれませんか?」

「え?」

今度こそ驚いて言葉を失った。

「いつも接客してくれてるのに挨拶もないなんて寂しいでしょ?同じ学校だし…ダメかな」

「…ええと……姫さんが良いのなら」

よろしく、と挨拶をしてお互いのことを話した。どんなことが好きかとか、高校でどんな部活をしてたとかそんなたわいもない話。次第に目があっても怖いと思わなくなって、『殺す人』ではなくて『久城くん』という個人の部分を受け入れつつあった。

「普段は映画を観るのが好きなんですが、その影響か最近変な夢を見るんです。その…SFみたいな、自分の中にもう一人の自分がいるって感覚がして」

「……もうひとりの、自分?」

「そうです。そいつが僕に語りかけるんです。『愛する人を永遠に手に入れる方法がある』って。『欠片を探せ』と。はは、こんなこと笑われそうで男友達にも言えないんですけどね」

寝る前に観た映画に影響され易いんですよと笑う久城くんに笑顔を返せなかったのはその言葉に聞き覚えがあったから。やっぱりいる。まだ覚醒していない残夢が……久城くんの中に眠っている。

「…姫さん?こういう話、苦手でしたか」

「ううん…なんか不思議だね。本当に映画みたい」

「もしそうならスーパーヒーローになれるはずなんですけどね。それか…悪役の敵かのどちらかですけど。幼い頃はアメコミのヒーローになりたかったんですよ」

「格好いいもんね、一度は憧れるよね」

帰り際に鞄から取り出した一枚のDVDを貸してくれた。友達に貸したのがちょうど返ってきたらしくぜひ、と言われ観てみることにした。その後バイトをして帰宅すると真っ暗な部屋。どれだけ昼間楽しい時間を過ごしても暗い部屋に電気をつけるこの瞬間で気分が落ちてしまう。簡単に作ったご飯も味気ない。

「…立花さんのご飯食べたいな」

誰かが人のために作ったご飯って本当に美味しかったんだな。実家が恋しくなる。家政婦の立花さんとはご飯やお菓子をよく一緒に作ったなぁ。明日、帰ってみようかな。もし失敗して今度こそ死んでもいいようにちゃんと挨拶を………。

「だめだめ、変なこと考えちゃ!」

一人になると急に弱気になっちゃう。立花さんに連絡しようとスマホを取り出すとちょうど着信があった。……お父さんだ。メールじゃなくて電話なんて珍しい。

「…はい」

『姫、元気かい。ちょうど日本に帰ってきているんだが…久しぶりに二人で母さんのところに行かないか」

「うん」

『じゃあ学校まで迎えに行くよ』

「ううん。電車で向かうから大丈夫」

時間と場所を確認して通話を切った。お父さん日本に戻ってきてたんだ。声色からして機嫌が良いような感じだった。一人暮らしをしたいと言った時はかなり反対されたけどもう許してくれたのかな。…とは言え実家にいたとしてもお父さんは出張ばかりだから顔を合わせることはそんなに多くはないのにどうしてあんなに心配されたんだろう。何もできない箱入り娘だと思ってるのかな。そう育てたのは貴方だ…と言ってやりたい。とにかくお母さんのお墓参りに行くなら花を買おう。

部屋の明かりを暗くして久城くんが貸してくれたDVDをつけて布団に入った。うとうとしながら目に入ってくる物語は悪の限りを尽くす敵を正義の力で討つ主人公の姿。野望は打ち消され世界に明るい未来が訪れる。だけどわたしは知っている。地べたに這いつくばる悪役と言われる人の心の内にも悲しい悲劇があって、歪み、行き場を無くした涙が乾く場所を求めて彷徨っている事もあるのだと。
残夢だけじゃない。『悪』と言われる人の記憶を見てきた。何が正義で何が悪か、もう分からない。だからただ、この目に見える光が指し示す方へ歩いて行くしかない。






学校が終わってからお花を包んでもらって電車とバスに乗ってお母さんが眠るお墓に足を運んだ。揺れるバスの中で抱えたお花を眺めていると、向こうの世界で総悟くんと一緒にミツバさんのところに挨拶に行った時のことが頭に浮かんだ。お母さんと総悟くんが会ったらどんな会話をするんだろう。
バスを降りてしばらく歩いて駐車場に着くとお父さんが車に寄りかかって待っていた。待ち合わせに先に来るなんて。

「元気だったかい」

「うん」

「行こうか」

二人でお母さんのお墓の前に立つともう綺麗に掃除されてお花も飾られている。お母さんが好きだった花。いつもこれを飾るのはお父さんだ。

「…もう挨拶したの?」

「早く着いてしまってね。久しぶりだから積もる話があったんだ」

わたしの分のお花も刺して手を合わせた。お母さん、久しぶり。話したいことがたくさんあるの。何から言えばいいのかわからないくらい、色んなことがあったんだよ。

「……生きていたらなんて言うだろうな」

「…え?」

長く手を合わせているとお父さんが何か呟いた。聞き返すと、いや、と首を振った。

「姫、お前に謝らないといけないことがある」

「…なに?改まって…」

「母さんが天国に行ってからお前に対して厳しくし過ぎた。少しでも危険だと思えばあらゆることから遠ざけて閉じ込めた。教養、知恵…そんなことより大切なものがあったのにな。また何かを失うのかと思うと…怖かった。側にいられない分、お前に無理をさせたね」

「…おとうさ、ん」

「独りよがりだったことに最近気付いたのさ。もうお前は一人でも大丈夫なんだろう?」

「………そんなこと、ないよ。一人になるとすぐ悪い方に考えちゃうし、何か決心しても簡単に揺らいでしまうの。周りの人にどれだけ支えられてきたか思い知ってるところ」

そう。この世界に帰ってきてからというもの、みんながいた江戸の世界の人達がどれだけ心の支えになっていたか痛感した。こうして一人になってやっと思い知る。幻のように輝く思い出たちが今のわたしを動かしている。

「無理に強くあろうとしなくてもいいんじゃないかい。そういうか弱いところが好きだという男もいるだろう。お前は女なんだから甘えて守って貰えばいい」

「…守られてばかりじゃいや。そう思うのにいつもうまくいかない。結局助けてもらってばかり」

「弱いのに強がりなところがまた…僕の娘らしいね。意外と頑固で意地っ張りなところは成長していないようだ」

「…………」

こんな話、お父さんとするなんて思わなかった。まるで何か知ってるのかと思うほど今の気持ちに寄り添った会話だった。

「その様子だと彼氏の一人や二人できたのかな」

「一人だよ」

「おや否定しないのか。今度一緒に家に来なさい。大事な娘を託すんだからそれなりに言いたいことがある」

「遠くにいるから…できたらね」

「母さん聞いたかい。姫の奴彼氏が出来たらしい。これで僕達も安心して手離せるなぁ」

お父さんが墓石を撫でるのは毎回のことだけれど、その手に込められた想いに今までずっと気が付かなかった。愛おしそうに、慈しむようにとても優しい指先。愛を知った今ならわかる。
立ち上がって同じように石を撫でた。暖かく柔らかいお母さんの手が頬に触れるあの感触とはまるで違う、冷たくて硬い感触。

「愛する人と離れ離れになるのはとても寂しいことだ。同じ時間を生きられない孤独は遺された者を簡単には癒してくれない。それでもなんとかやって来れたのは…姫、お前がいたから」

お父さんの手が今度はわたしの頭を撫でた。こうしてもらうのは随分久しぶりだった。墓石に触れていたのと同じくらい優しくて、確かに愛情を感じた。

「母さんがいなくなったあの日からずっと父さんの心を支えてくれてありがとう。これからは縛られることなく思うように生きて良いんだ。お前の幸せを母さんとここでずっと祈ってる」

「…はい」

涙が溢れて視界がぼやける。抱きしめて小さな子どもをあやすように背中をぽんぽんと叩いてくれたのをひどく懐かしく思った。そうだ、こうやって何度もあやしてくれた。ただ厳しくしてたわけじゃない、仕事ばかりしてこっちを見ていなかったわけじゃない。忘れていただけ。わたしが見ようとしなかっただけ。この人はこんなに愛情を与えてくれていた。最後にそれを知れたことが何よりも嬉しかった。








「まぁまぁ姫さん!お帰りなさい!どうぞお入りになってください!」

「ただいま、立花さん。急に来てごめんなさい」

「お嬢様のご実家なんですからいつ帰って来たって良いんですよぉ!お腹空いていませんか?お夕飯食べて行かれますよね?」

こうしちゃいられない!と腕まくりをしてキッチンに行く立花さんの隣に立った。

「わたしもやりたい」

「お休みになられていても宜しいんですよ?」

「立花さんのご飯が恋しくて堪らなかったの。手伝わせて」

「オホホ姫さんったら相変わらずお上手なんだから!」

実家に寄って夕飯の準備を手伝いながらお父さんとお墓参りに行って来たことや最近学校であったことを話した。立花さんによると数日前から海外から一人で来た男の人がこの家にホームステイしているらしく、お父さんと随分仲良しらしい。今夜もその人と街に出ているのだと話した。

「これがまた二枚目で!最近じゃイケメンって言うんでしたっけ?もうドキドキしちゃって〜」

「へぇー…だからお父さんあんな話したのかな」

「なんですか?」

「厳しくしてごめんねーって話」

「あらきっといい影響があったんですね。お嬢様にもご紹介したかったのに近々帰られるそうだから残念だわぁ。旦那様も明日からまた出張だから暫く静かになりますね」

「…わたし実家に戻ろうかな。少し遠くなるけどここからでも学校通えるし。ホームシックみたい」

「本当ですか!?もしそうなったらますます張り切って仕事させていただきます!」

「ふふ、楽しみだね」

立花さんと一緒に美味しいご飯を食べた後、その部屋に足を踏み入れた。長く弾かれることのなかったピアノが置かれている。カバーを外して鍵盤をいくつか押してみるときちんとした音が出た。お父さん、もしかして調律してくれてた?

「…素直じゃないところがそっくり」

楽譜を引っ張り出して久しぶりに何曲か弾いた。記憶というものは不思議で、もう覚えてないと思っても耳が、指が、肌が、全身が少しずつ記憶のかけらを持っていて、それぞれが合わさってまるでパズルのピースがはまるように…意図しなくても自然と指が動く。覚えてる。楽しいという気持ちも全部。…向こうの世界で万斉さんに会うことができたら、また一緒に音楽をやりたいな。


「じゃあまたね」

「はい。次のお帰りをお待ちしています」

おやすみなさい、と挨拶して家を出た。立花さんと当たり前のように未来の約束をした自分に内心驚いた。だって明日は、わたしが死んだ日。
アイちゃんを守る。そして、ヒーローになりたかったと言った久城くんを悪役になんてさせない。





title by suteki