28.あなた以外では傷付けない
日を追うごとに日照時間が短くなって一日の終わりが早足でやって来る。
薄暗くなってきた頃、総悟くんが迎えに来てくれて屯所に帰ってきた。
清次郎さんが庭で紡いだ言葉が頭の中を浮かんでは消えていく。わたしの手の中の赤い椿と、それを包んだ綺麗な手。
見た目通り話せば話すほど誠実な人だと思った。
医者の志を持つに相応しい、高松先生のように優しくて立派な医者になるんだろうなと直感した。
「寒くなったね」
「そうだな」
「冬はこうして並んで月を見るのもなかなかできなくなるね」
「そうだな」
「……さっきから『そうだな』ばっかり」
「そうだな」
「もう、なに考えてるの?」
「姫はあの男のこと考えてんだろ」
「…そんなこと、ないよ」
「いいぜ、武州に行っても」
「聞いてたの?」
「迎えに行った先で自分の女が他の男に口説かれてたら聞くなって方がおかしいだろ」
「…………待って、行ってもいいってどういうこと?」
「姫が行きたいなら行けば良い」
ここに座ってから彼はわたしの顔を見ていない。ずっと、ぼんやりと月を見上げている。
目の前の現実から目を逸らしているかのよう。譫言のように零れる言葉はわたしじゃなくて自分に言い聞かせているようにも聞こえた。
何を考えているんだろう。清次郎さんから手袋を借りて帰ってきた日に感じた違和感と同じ空気を纏っている。この人は、本当にわたしの知る総悟くんなのだろうか。
「元の世界に戻るまであの男と田舎で暮らすのもいいんじゃねーか。少なくとも今回みたいに高杉に拉致されることもねェし平和に暮らせるだろ。
残夢のことは心配すんな、俺たちが殺してやる。帰る方法もなんとかして探す」
矢継ぎ早に言うひとつひとつの言葉が頭を通過せず渋滞してぐちゃぐちゃと脳内を荒らす。
文章から単語を解いて、柔らかくしてもう一度繋げて、意味を理解するのにどのくらいかかっただろう。
あの人について行けと、言っている。
「……本当に、そうした方がいいって思ってるの?」
答えなかった。沈黙が重くて耐えられない。
いつもなら、二人で黙っていたってお互いの気持ちが通じてるって感じてたから平気だった。
言葉がなくても寄り添っているだけで心地よかった。なのに今は、心に冷たい風が吹いて胸が痛い。
「わたしが帰りたい理由は、あの子に謝りたいから。総悟くんから離れるのが平気だからじゃない」
声が震える。寒い。指先まで氷みたいに急激に冷えていく。
目頭だけがじんと熱くて、心臓がドクドクと動く度に毒が全身を駆け巡っていくように呼吸ができなくなる。
総悟くんがやっとこっちを見てくれた気がしたけれど、涙で視界がぼやけて彼の顔がもう見えない。
「本当は離れたくない。ずっとここにいたい。だから少しでも長く一緒にいたいのに………わたし、総悟くんにはもう要らないの?」
「姫、」
ダメだ、もう。
涙が止められない。
総悟くんが息を飲んで名前を呼んだけど、振り向かずに離れた。
総悟くんは、わたしがいなくなっても平気なんだ。
確かに高杉さんの船に乗ると決めて彼のそばを離れたのはわたしだ。でも全然大丈夫じゃなかった。
彼等との短い旅は楽しかったけれど、毎日会いたくて寂しくて仕方なくて、一人で眠る布団がいつまでも冷たくて……。
あの間に気持ちも離れてしまったのだろうか。
まさか、そんなこと。でも、よくよく考えればそう思われてもおかしくない行動をした。
できるならずっと一緒にいたい。
総悟くんには伝わってると思ってたのに。
その日は住み込みの女中さんの離れにある談話室を借りたけど、眠れなかった。
*
あれから三日が経った。
夜はいまだに女中さんの談話室に通っているし、総悟くんもわたしに声をかけてくることはなかった。
なんでも最近この辺りで若い女性が襲われ人身売買されるという事件があったらしく、犯人探しと見回りの強化でみんな忙しそうだ。勿論彼も例外ではなく、すれ違いが続いている。
きちんと話さないといけないとは思っても、今度こそ突き離されるかも知れないと思うとどうしても足が向かなかった。
もうすぐ、清次郎さんが武州に帰ってしまう。
答えなんて最初から決めてる。
わたしの場所はここにある。
でも、彼がもう必要ないって言ったら?
武州に行けば穏やかに暮らせるって言葉は本当だと思う。総悟くんがそう判断してわたしを遠ざけようとするなら、ここにしがみつく理由はあるのだろうか。
「姫さん、お疲れさまです!今日もお綺麗ですね!」
「鉄さんも、お疲れさまです。今日も元気ですね」
「オイ鉄、一丁前にナンパしてんじゃねーよ。姫、総悟見てねぇか?アイツまた俺の煙草に細工しやがって…」
「いえ、今日は会っていないんです」
「そうか、珍しいな。……そういや最近お前ら一緒にいるところ見ねぇが、まさか喧嘩でもしてるんじゃねーだろうな?」
「喧嘩……というか…方向性の違いというか」
「バンドの解散発表みたいだなオイ。とにかく喧嘩してんなら早めに仲直りしろよ。…まぁどうせアイツが悪ィのは目に見えてるがな」
土方さんの手が頭にポンと乗る。
いつもしてくれる動作だけど今日はやけに優しく感じる。心が弱っているからだろうか。
「…土方さん、武州ってどんなところですか」
「ん?何だ急に。…なんもねー田舎だよ。まあ強いて言うならここよりずっと長閑でのんびりした所だな」
「……そうですか」
「姫さん?どうかしましたか?煙草買ってきましょうか?マヨネーズですか?サンデーですか?」
「姫を俺と一緒にすんな」
「いや、すみません。自分女性とまともに話したこともなかったCボーイなんで…こういう時なんて声を掛けていいか」
「ふふ、鉄さんありがとうございます。土方さんも、もうわたしがお茶を持って行かなくても鉄さんがいるから大丈夫ですね」
「大丈夫じゃねーよコイツの茶なんて日替わりで濃さが変わるんだぞロシアンルーレットかってくらいに。たまには姫の茶が飲みてェよ。今度持ってきてくれ」
「…はい」
土方さんの気遣いが嬉しい。
暖かい気持ちになりながら見えなくなるまで二人を見送った。
本音を言うと、長期間女中のお仕事を休んでいた間に鉄さんが土方さんの身の回りのお世話をし始めたことで、わたしの仕事が無くなってしまったような錯覚がしていたのだ。
土方さんやみんなの役に立てていないような気がして…少しだけ寂しかった。
誰も悪くないのにそう思ってしまうことが嫌だった。
総悟くんと離れて一人で色々考えていると、どうしてもマイナスな方に考えが向かってしまう。
考えてみればもともとわたしは内向的でネガティブ思考なのだ。それを変えたのは他でもない総悟くんだ。改めて思うと総悟くんがわたしに与えた影響は果てしなく大きい。
『まァどうにかなるだろ。いざとなったら俺が守ってやる』とフーセンガムを膨らませながら飄々と話す彼の存在に引き揚げられ、真選組で過ごしていく中でここまで社交的になれた。
不安な夜は抱きしめてくれた。大丈夫だと魔法のように囁いてくれた。大きくて冷たい手が、優しい笑顔が、胸に刺さった氷を溶かしてくれた。
あなたがいたからわたしはこんなに自由になれた。
……そう、自由だ。わたしの行く道は自分で決められる。
だから、総悟くんに何と言われようとわたしは………。
「ああいたいた!姫ちゃん、どうかした?」
声がする方を向くと、廊下の向こうから山崎さんが走ってくる。
「あ、いえ、ぼーっとしちゃって」
「そう?それより、お客さんだよ。高松先生のところのお孫さんが見えてるよ」
「えっ……」
慌てて玄関口へ行くと本当に清次郎さんがいた。
「どうぞお上がりください」
「いえ、お構いなく。突然押しかけてすみません。予定が早まって明日立つことになりまして…。それを伝えに」
「……今日は少し暖かいので、外に出ませんか?」
きっと、お互いにあの日をことを話したいと思っている。
でもここではどうしても話しづらい。
羽織を着て清次郎さんと外に出た。
歩き慣れた町並みをゆっくりと抜けて、人通りの少ない小さな公園のベンチに腰を下ろした。
「先日はクッキーをありがとうございました。とても美味しかったです」
「それは良かったです」
「…それで…あのような事を言ってすみませんでした。困らせてしまうとわかっていたのですが抑えきれなくて」
「いいえ、わたしも数日音沙汰なく……今日もわざわざ足を運んでくださってありがとうございます」
そう言うとほっとしたように笑った。
そしてすぐに、真剣な表情になる。
「姫さん、その…この間のこと、少しでも考えていただけましたか」
清次郎さんが切り出した。
わたしは胸のもやもやを押し込めて、この間総悟くんに言われた言葉も頭の中で消去した。このままなし崩しに彼に着いていってはだめだ。彼が心からわたしに好意を持ってくれているなら傷つけてしまう。
それに、総悟くんに何を言われてもわたしはここにいたい。真選組から追い出されたって、大好きな人たちがこの町にたくさんいるんだから。
「…清次郎さん、お話はとてもありがたいのですが、わたしは江戸を離れる気はありません。大切な人を置いては行けません。…ごめんなさい」
「やはりそうですよね。最初から貴女の答えはわかっていました。ただ…少しでも貴女の頭の中を僕でいっぱいにしてみたかったんです。困らせてしまいましたね」
素直にはっきりと胸の内を言う清次郎さんが眩しく見える。わたしはこの数日うじうじと心の中で総悟くんへの気持ちを指先でかき混ぜているだけだったのに。
「あなたの事応援しています。立派な医者になってたくさんの人を救ってください。お爺様やお父様のように。わたしも…ここで頑張ります」
「ありがとうございます、姫さん。祖父の屋敷は暫くあのまま残すことになりました。僕が一人前の医者になったらあの診療所を継ぐと決心しました。その時は…ぜひいらしてください」
「もちろん!楽しみにしています」
「ありがとう……。姫さん、もしかして貴女にはもう特別な人がいるのではないですか」
「……はい。その人とずっと一緒にいられるかはわかりませんが、側にいたいんです。だから…」
「そうですか。貴女が選んだ人だ。困難があっても力を合わせて乗り越えてください。どうか幸せに」
「ありがとうございます、清次郎さん」
やっと気持ちを伝えられて晴々しい気持ちになった。屯所まで送ってくれるという清次郎さんの後を着いて歩き出そうとすると、後ろから無遠慮に腕を掴まれた。
「おや?白昼堂々デートとはお熱いねえ。特にお嬢さんの方は凄い別嬪さんときた。兄ちゃん、ちょいと俺たちにも味見させてくれねぇか」
三人の天人がわたしたちを囲む。手には武器のようなものをチラつかせている。嫌な雰囲気だ。頭の中で『若い女性を狙った人身売買』という文字が浮かぶ。真選組が犯人探しをしている真っ最中の事件だ。
「…なんですか、あなた達は」
「ただの通りすがりさ。女を置いていけば兄ちゃんには何もしねぇよお」
そう言うと腕を掴んでいる一人がいやらしい微笑みを浮かべてわたしの身体を引き込んだ。強い力だ。簡単に腕に収まってしまう。荒い息遣いが耳に届いてゾッとする。
「離して」
「ハハハッ、近くで見れば見るほど美しい!宝石のようだ……こりゃあ売っちまうのが勿体ねえ……」
「その人を離せ!」
「清次郎さん、大丈夫だから…行ってください」
わたしがなんとか時間稼ぎをしている内に清次郎さんには真選組に連絡を取って貰わないと。それが伝わったのか清次郎さんがわたしを見据えて小さく頷く。
「オイオイ本当に女を置いて逃げるつもりかよォ、せっかくだから遊ぼうぜェ」
清次郎さんが別の天人に蹴られ地面に倒れる。彼は医者見習いだ。腕を怪我したら大事だ。
「清次郎さん!」
「姫、目瞑ってな」
その声を聞いてわたしが目を閉じたのと、わたしの腕を掴んでいた天人が潰れるような悲鳴をあげて倒れたのは同時だった。顔を上げると天人たちは地面に伏して気を失っている。目の前に立っていたのは真選組の隊服を着た彼だった。
「総悟くん……」
「お取り込み中すいやせん、デートの邪魔しちまいましたかねィ。それにしても随分と過激なプレイなようで」
「貴方は…沖田さん!危ないところを助けていただいてありがとうございました」
「見回りでたまたま通りかかっただけでさァ。最近この辺も物騒になってきたから人目が少ない場所は出歩かない方がいいですぜ。
特にその女連れてると敵の遭遇率もグッと上がるんで。ドラクエで言うところの『においぶくろ』みたいなモンなんで」
「ちょっと、ひどいよ」
「…怪我はねェか」
「うん、ありがとう」
総悟くんと面と向かって話すのはあの夜以来だ。よりによって清次郎さんと一緒にいるところを見られたのにいつも通りの態度でちゃんと目を合わせて笑ってくれた。それだけなのに涙が出そう。あんな、突き放すような事を言われた後だから、優しくされるとつらい。
清次郎さんに怪我がないことを確認してから総悟くんが他の隊士さんを呼んで男たちを縛り上げパトカーに乗せている姿を見ていると、後ろから声をかけられた。
「姫さん、もしかしてさっきの特別な人というのは」
「…はい、彼です」
「そうですか…。なるほど、貴女と付き合うには並の男では無理らしい」
「ふふ、そうかもしれません」
「田舎に帰ったらより一層勉強に励みます。貴女の前に立つのに恥ずかしくない人間になってもう一度江戸に来ます。冬には貴女と見た椿を思い出しながら…。それまでどうか、お元気で」
「…清次郎さんも、お元気で」
差し出された綺麗な手を握り返して、笑い合った。
*
「悪かった」
その日の夜、珍しく総悟くんが謝ってきた。
しかも、食堂のど真ん中で。
食事を終えた隊士さんのテーブルを回ってお茶のおかわりをついでいるところだった。一日の終わり。隊士さんと取り留めもない話をする和やかな団欒の雰囲気が好きだ。その、まだ人も多い真っ最中に。
ただならぬ空気に食堂内は途端にシーンと静まり返る。
隊士さんたちは石になったように固まり一体どうしたと言わんばかりにわたしたちの様子を伺っている。
近藤さんと土方さんも固唾を飲んで見守っている。見守らないでいいからいつものように横入りしてください。
女中のおばちゃんたちに至っては目をキラキラさせてこっちを見ている。もう、やめて、本当に。
こんなにたくさんの人に注目されて返す言葉なんてない。無視を決め込んでとりあえず給湯室に引っ込もうとすると腕が取られる。
「姫」
「…こんなところでやめて……」
「悪かった」
「わかったから……!」
恥ずかしすぎて顔に熱が上る。
「〜〜もう無理、」
やかんを持ったまま食堂を飛び出すと当然わたしの腕を掴んだままの総悟くんもついてくる。
しかも、それしか言えなくなったロボットのように後ろから悪かったと囁くのだ。一体どうしちゃったの?あんなところを見られてしまったからしばらくは食堂に戻りたくない。
「姫」
「総悟くんが壊れちゃった……!」
「姫、嘘だ。アイツのところに行けなんて本気で思ってねェ」
やっと総悟くんが他のことを喋った。思わず足が止まる。
「月の姫のことはただでさえ噂になってんのに真選組にいるってだけで狙われる。いつ死ぬかもわからねぇ俺のそばにいるよりあの医者見習いと田舎で暮らした方が姫にとって幸せだと思ったんだ」
「…………、」
「でも間違いだった。俺がこの手で守らねーと気が済まねェ。いつか離れちまうとしても、姫のことだけは手放したくねェ」
それは、総悟くんの本音だった。
そう遠くない未来に待つ別れ。
そこを目指して、ずっとここにいたいという気持ちに蓋をして無理に向かって行こうとしているのは、わたしだ。それは、彼の気持ちも置いて行くことになる。
「……焦ってた。一人でどんどん歩いていっちまうから、俺がいなくても大丈夫なんじゃねーかって」
「総悟くん………」
違う。総悟くんが悪いんじゃない。全てわたしが一人でしたことだ。わたしが、なにもわかってなかっただけ。
「ごめんなさい、総悟くんの気持ちわかってなかった……元の世界に帰ることも、一人で決めてごめんなさい」
「大丈夫だ。姫が決めたことなら俺は反対しねぇ。だが……せめてここにいる間だけは俺の側から離れんな」
「…うん、総悟くんも、離さないで」
「約束する」
笑った総悟くんがわたしの手のやかんを奪って後ろの方に放り投げた。するとガシャンと中のお茶が溢れる音がして同時に何人かの悲鳴が聞こえてくる。
「熱ちちちちちっ!」
「ちょっ、水水!」
「大丈夫っスか皆さん!?」
「鉄、とりあえず雑巾と水持ってこい!」
「はい土方さん!」
総悟くんの右手を取って両手の指で手のひらを開くと潰れた豆がいくつも固まって硬くなったり皮が厚くなってでこぼこしている部分がある。戦う人の手だ。この手でたくさんの人を守っている。清次郎さんの繊細で綺麗な手も素敵だけれど……
「わたしが好きなのはこの手なの」
「……そうかい」
騒がしい声を聞きながら廊下の影で数日振りのキスをした。
「今夜は部屋に戻ってくるよな?」
「おばちゃんたちとUNOする予定なの」
「……………」
「嘘だよ。今日は総悟くんと一緒に寝たいな」
「寝かせねェけどな」
「UNOする?」
「するわけねーだろ」
「ふふ」
「よくわからんけど良かったな仲直りできて!」
「つーかなんで喧嘩してたんだ?」
「まぁまぁ、もうどうでもいいじゃないっスか!また仲良く歩くお二人を見られるんですから!」
「確かに……」
「どうでもいいなぁ!アイツらが笑ってるなら!」
ハッハッハッと笑い声が響く。
この場所が、大好きだと思う。心から。