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13.分解のシグナル

落とし穴に落ちた気分だった。高い吹き抜けの天井から覗くガラス窓の光が遠すぎて、ああここが地獄の底かと冷えた床に呟いた。

スマホに残るメールのやり取りから、『お前がいいなら何も言わねぇよ』と言った言葉の意味を知ってしまった。それ以降感情が抜け落ちてしまった。立ち上がるための気力もない。十四郎はもう、わたしを手放した。ここがわたしのいるべき場所なのかも知れない。実の兄を誑かして、就活も蔑ろにして、今が良いなら良いって、そんな風に自分勝手に生きていたから。こんな最低な人間、最早兄妹とかそういう縛りを無しにしてもあの人に相応しくない。離れた方がいい。支えを失ったわたしにはもう北大路くんしかいないんじゃないかとさえ思うようになっていった。

「今日面接だろ?送ってく」

「ありがとう」

「ちゃんと食べたか?会場で倒れるなよ」

「大丈夫」

「名前。心配なんだ」

「うん」

北大路くんの腕に囲われて心底心配そうに囁かれる。少しずつわたし達の生活も変化を見せた。抵抗することを辞めると気を良くしたのか飲まされる睡眠薬の量も減り、穏やかな触れ合いが増えた。彼のわたしに対する行き過ぎた好意だけを焦点に当ててみれば、今の状況は十四郎の立場を守るために必要なことだと思えたし、気が済むまでこうしていることが北大路くんに対する贖罪なんだと頭が肯定した。そう、そもそもわたしが北大路くんとうまくいけばそれで全て丸く収まる話だったのだ。初めからこれが正解だったんだ。

「斎もバイトでしょ?気をつけてね」

「ああ」

恭しく跪き、足枷を外した甲に唇を落とす北大路くんを見下ろす。殺風景だった部屋には買い与えられた私物が彩りと生活感を与えていた。服や小物、化粧品。スキンケアから下着に至るまで全て彼の選んだ物だ。
愛されている。それは事実。けれど心は凍りついたまま動かない。

「名前、愛してる」

囁き、与えられるものを目を閉じて受け入れる。ああまた、胸の奥で何かが割れる音がする。





「最近彼氏とどうなの?」

久しぶりに会った友達と大学のカフェテリアでケーキセットを注文する。就活が始まる前までは毎日のように遊んだり飲んだりしていたのに、少し会わないうちにお互い随分と落ち着いてしまった。明るい茶髪は黒く上塗りされ、メイクも色味を抑えたナチュラルなものだ。服装だってそれに合わせたロングスカート。その姿で合コンに行けば引っかかる男も多いだろう。でもこの子めちゃくちゃお酒強くて、狙った男を酔わせてお持ち帰りしちゃう逆狼なんだよ。

「北大路だっけ?名前にしては珍しく真面目そうなタイプと付き合ったと思ったらすぐ別れた男だよね。何で今更より戻したの?」

「…あー…うーん…何か…心境の変化というか…」

「なんて?歯切れ悪っ」

笑いながら柔らかい角にフォークを刺す。美しい断面がみるみる歪む。何故だか見ていられなくて思わず目を逸らした。

「まぁ良いけどー。ていうかめっちゃ貢がれてない?そのネックレス今期の新作だし、それに肌めっちゃ綺麗じゃん。服も、彼の趣味?」

「…うん、まぁ」

「可愛い女の子って感じだね。全部すごく似合ってるけど、名前が好きなのはこういう系統じゃないじゃん。無理してるんじゃない」

「んー…、初めはそうだったんだけど最近はもう良いかなって」

「めっずらし。人に合わせるタイプじゃないのに」

「前は、そうだからうまくいかなかったんだよ。わたしが我儘で自分勝手だったから」

ふうん、と何か考えるように視線を落とした友達に嘘をついていることを申し訳なく思う。でも本当のことを言うわけにはいかない。いつどこで彼が聞いているかわからないから。
大好きなはずのキャラメルと胡桃のケーキの味がしない。最近、何を口にしても味覚が遠い。飲み慣れたコーヒーもまるで水を足したような物足りなさ。残すのは勿体無いけどこれ以上食べられそうにない。

「ねぇ、他の学部の子から変な噂聞いたんだけど」

「んー?」

「北大路って中高で結構ヤンチャしてたらしいよ。なんか暴走族?チーム?ってのに入ってたとか。名前、大丈夫?」

「……ああ、なるほど…」

たまに向けられる普通じゃない目。欲しいものを手に入れるために手段を選ばない大胆なやり口。初見では落ち着いた印象を受けるから親しくない人間が聞けばただの噂話だと思う。けど…心当たりがある。というより納得してしまった。ふうん、元々そういうトコあるんじゃん。気性の荒い部分を知っても動じないわたしに肯定と受け取った友達は、一瞬だけ周りを見回してからグッと近づけた。

「ねぇ、前に公務員との合コン行ったの覚えてる?この前そのうちの一人から電話があって――」

言いかけた時、テーブルに置かれたスマホが鳴った。ビクリと肩が震える。まるでどこからか見ているかのようなタイミングだった。

「あ…ごめん」

「いいよ。彼氏でしょ?早く出な」

「うん。…もしもし?」

電話の主は言わずもがな北大路くんだ。無理矢理機種変更された新しいスマホの電話帳には実家と彼が許した数人の友達の連絡先しか入っていない。もちろん異性は北大路くんだけ。徹底されていると言うか何というか。そんなにしなくてももう逃げないのに。

『講義終わったがどこにいるんだ?』

「カフェテリア。友達とお茶してる」

『ああ、本当だ』

「え?」

「名前、下見て」

友達に合図されてガラス張りの向こう側に視線を移す。2階の窓際に座っているこの席ではキャンパス内がよく見渡せる。講義が終わり人が波のように移動していくのを見ていると、カフェテリアの真下に北大路くんはいた。スマホを耳に当て、こちらを見上げている。目が合うと人の良さそうな笑みを浮かべて片手を挙げた。

「わざわざ迎えに来てくれたんだ。優しいじゃん」

友達が茶化してくれるけど、わたしは針を飲んだような居心地の悪さを感じていた。…早すぎる。北大路くんが講義を受けていた教室からここまで来るのに、講義が終わって真っ直ぐカフェテリアに向かわないと人波に飲まれてしまう。彼はわたしがどこにいるか把握している。大方、このスマホのせいだろう。その上でどこにいるか聞いてきた。嘘をついていないか確かめるような行為に、誤魔化さなくて本当に良かったと思うしかなかった。

『帰ろう』

「…うん。あ、でも…」

友達との話がまだ途中だった。真剣な表情をしていたからちゃんと最後まで聞いてあげたかった。ちらりと視線を合わせると察したのか「またで良いよ。早く行きな」と手を振ってくれたので甘えることにする。今から行く旨を伝えて通話を切り荷物を持つと、わたしのスマホに視線を向けたまま友達が言った。

「ねぇ、名前。何かあったら話してね」

「ありがとう」

「絶対だからね」

「うん。さっきの話も聞きたいからまたお茶しようね」

またねと手を振ってカフェテリアを後にする。階段を一段一段、ゆっくりと降りていく。もう、自然と足が彼の元に向かってしまう。弱みを握られているせいなのか、それとも歪んだ愛情を受け入れてしまっているからなのか。

「週末、出かけよう。行きたい所はあるか?買い物でも何でも良いが」

夕飯の後、与えられた部屋で講義の資料を見直したり書類を書いていると北大路くんが聞いた。すっかり書き慣れたエントリーシートから視線を上げ、考える振りをする。正直、彼がいないところならどこにだって喜んで行くんだけど。買い物にしても必要な物はないし欲しいものも、食べたい物も特にない。

『ナポリで死ぬほどピザ食べたい。あとカプリ島』

『…そんなに休み取れねぇぞ』

『じゃあ台湾でタピオカ飲みたい』

『原宿行け』

…………あ、やだ。なんか思い出しちゃった。十四郎となら行きたいところはたくさんあったのに。旅行も、買い物も、食事も、隣に十四郎がいるならこの上なく嬉しかった。コンビニに行くのだってドキドキした。

『名前と出かけるならどこでもいい』

どこでも良かった。二人きりになれる所なら。手を繋いで、触れ合いを許し合える場所なら例えそこが家の中だとしてもとてつもなく価値があった。あんな風に軽口を叩いて会話をすることなんて今後あるのだろうか。普通の一般的なカップルとは違い、わたし達は家族だ。別れたらもう二度と会わないとか、友達に戻るとか、そんな選択肢なんてない。北大路くんに恋人関係を捻じ曲げられたとしても、兄妹だし家族であることには変わりがない。この先顔を合わせる機会なんて数え切れないほどあるだろう。でも、あんな酷い内容のメールを送られてしまっては、どんなに会いたいと願ってももう会わせる顔がない。気持ち悪いなんて、好きな人から言われたらどんな気持ちになるか想像に容易い。わたしが十四郎に気持ち悪いなんて言われたら…多分もう立ち直れないだろう。

「どうした?体調悪いのか?」

黙りこくっていると心配そうに寄り添う北大路くんにエントリーシートを取り上げられ、ペンもケースの中に仕舞われる。手のひらが頬を包み、慈しむように指で撫でる。これが両想いなら恋人同士の甘い雰囲気が漂っていただろう。触れられる度に十四郎の体温が消えていく気がする。だから触らないでって思うのに、一方で北大路くんを受け入れてこのまま本当の恋人になってしまえばいいと囁く自分がいる。忘れてしまえばいい、どうせもう戻れないんだから。

「………海……」

「何だ?」

「ううん、何でもない。散歩にでも行こっか」

思わず口に出ていた。
忘れられるわけがない。愛し合った証拠なんて始めからどこにもないけど、あの幻のような日々だけがわたしの本当の、たったひとつの恋だった。



title by 星食