01.常に地獄とともに
今年の梅雨入りは例年より早かった。水道の蛇口が壊れてしまったかのように日々降り続ける雨が気分を憂鬱にさせる。いつものようにスーツに身を包み戸を開けると長い廊下の向こう側から小さな足音が聞こえてきた。屋敷の外では気にも留めないような些細な音。狭い歩幅は女のものだ。この屋敷に女は二人しかいない。高杉組の若頭をはじめ組員の誰もが己の命よりも大事にしている『お嬢』か、その世話人の来島のどちらかだ。もっとも、来島は男勝りな性格の為こんな風に可愛らしい足音を立てることはない。ならば目の前に現れるのは一人だけ。さっさと外に出ようとした足を止めその姿が見えるのを待った。
「万斉さん、お出かけ?」
「ああ…晋助なら部屋にいるぞ」
「晋助を探してたわけじゃないよ」
くすくす笑う少女はふわりと花の香りを漂わせて上がり框をひとつ降りた。見送ってくれるようだ。靴を出してやると自分でやるのにと頬を膨らませた。
「雨だね」
はい、と傘立てから取り渡されたのは蛇目の和傘。黒地に藍色の三重の同心円の形が趣のあるそれは先日の誕生日にこの子がくれた物だ。
「有難いが万が一壊れたらと思うとどうにも持ち歩くのが怖くてな」
「そう思って丈夫な羽二重にしたんだよ。せっかく素敵な傘なんだから使って欲しいな」
少し寂しそうにしたこの表情に弱いのは兄である晋助も同じだ。
「…わかった」
「良く似合うよ、万斉さん。気をつけてね」
「ああ」
「行ってらっしゃい」
極道の見送りにそぐわない屈託のない笑顔で手を振るお嬢に軽く手を上げて戸を閉めた。
今日は単独行動だ。この辺りでシマ荒らしをしているチンピラ共がいるとの噂があり情報収集を任されていた。表に待機していた車に乗り込むと運転手の武市は目を細めた。
「おや…それはお嬢に頂いた傘ではないですか。いいんですか?持ち歩いて。誰かに襲われでもしたら壊れてしまいますよ」
「そうなれば殺されてでもコイツを守る他ないな」
「命より大事な傘ですか」
「例え命が助かっても傘を壊せば晋助に埋められる。どちらにしても待つのは地獄か」
「恐ろしい物を頂いてしまいましたねぇ」
武市の笑い声が車内に響く。街の中を暫く走り窓ガラスを叩きつける音と雨粒が流れていく様子の向こう側で……何人かの男がある店先にいるのが見えた。何の店までかは判断できないが、着崩したスーツに中年の男がぞろぞろと中を覗く様はどうにも客には見えない。
「停めてくれ」
「お気をつけて」
あくまでも自然に一本裏の道に入り停車した車から降りて傘を広げた。人波に乗りその店の前を通ると『close』の看板がかかっている。小さな窓から中を覗く限りハンドメイドのアクセサリー専門店といったところか。
「怪しいな」
つい数分前に通った時は開いていた。あの男たちもいない。店内の電気も付いている。傘を閉じポケットから取り出したピックでものの数秒で鍵をこじ開け中に入る。小さな店だ。個人で営んでいるのだろう。奥で複数人の話し声がする。音を立てず近寄ってドアの奥の会話を拾う。
「そうは言ってもなぁお姉さん。親父さんの借金返せるのはもうアンタしかいねーんだよ」
「せめて高飛びした親父さんの居所くらいは教えてもらわねぇとこっちも困るんだわ」
「父なんて知らないわよ。勝手に家を出て音信不通なんだから…どこにいるかもわからないわ。それにそんな大金払えるわけないでしょう」
若い女の声。この店の店主だな。どうやら脅されているらしい。
「連帯保証人にアンタの名前が書いてあんだよ!忘れたとは言わせねぇぞコラ!!」
バン、と机を叩く音。契約書か何か見せているに違いない。
「そんなの知らないわ、父が知り合いに勝手に書かせたんでしょう。とにかく関係ないわ、店の邪魔だからもう帰って」
男数人に脅されているにも関わらず、女は冷静だった。それが相手の神経を逆撫でした。
「んだとコラァ!!調子乗ってんじゃねぇぞ!!人がせっかく稼ぎどころ紹介してやろうと思ってたのによォ!!」
「オイ、もういいだろ。連れて行こうぜ。少し痛い目に合わせれば大人しくなるだろ。ほら来い」
「ちょっと、やめてよっ離して!」
声が近づいてくる。その女を流して父親の借金とやらを稼がせるつもりか。良くある手だが、昼間から人目につく所でする事ではないな。
店内に戻り改めて飾られたディスプレイを見る。店内は既に荒れていた。しかし床に落ちたアクセサリーはどれも細部まで手が込んでいて…何て言い表せばいいかわからないが、目を引いた。
「なっ!?なんだテメェは!?鍵は……!?」
ガチャリと事務所の扉が開いて店内に戻って来た男達はまさか客がいるとは思わなかったのだろう。大声を出して威嚇してきた。
「傘の礼に何か買おうと思ったが…また今度になりそうだな」
「何を言ってやがる…!まさか同業か!?どこの組織だ!?」
「やはり小物か。この街で…しかもこのシマに無断で入る時点でお前達の相場は決まっている。ただの小物か…その辺のゴミのどちらかだ」
「野郎……!」
相手は丸腰のたった三人。威勢がいいのは口だけで碌に殴り合いさえしたことがなさそうな弱々しい構えだ。数発お見舞いしてやればすぐに蹲った。大方、その辺の不良達が集まって闇金の真似事をしているだけだと検討がつく。言うなれば借金取りに見せかけた詐欺集団だ。行方不明者の親族を探して『借金がある、連帯保証人になっている』と脅して金を取って回っているのだろう。
「な……なに者だ………」
「高杉組の名を覚えておけ。死ぬ瞬間までな」
「た…高杉組……!あの…極道の!?」
「ちくしょう…!オイ行くぞ!」
「待て。挨拶がまだだ……若頭流のな」
逃げるように店を出ようとした男の肩を掴み、至近距離で首の下…鎖骨の辺りに『挨拶』してやる。ゴキリッと鈍い音を立てた身体を離してやれば床に転がって死にそうな蝉のように醜く苦しみ喘いだ。その様子を見て残りの二人は背後で震え上がる。
「地方から来た若いだけの屑共は知らなくとも無理はない。この一帯を取り仕切ってるのは高杉組だ。許可なくシマを荒せば次は……判るな?」
「ヒイィィッ…!!!」
コツ、革靴が音を立てて一歩踏み出すと哀れなほど恐怖に怯えた顔をする。その時、店の端で一連の様子を見ていた女が「やめて」と小さく声を上げた。今にも倒れそうなほど顔色が悪い。
「や、やめてください。ここ私の店です…これ以上はもう、やめて。借金の話が嘘だって認めるならもういいから」
「…どうなんだ?」
「うううう嘘です!嘘!勘違いでした!!!すみませんでしたぁ!!!」
「命拾いしたな。行け」
バタバタと逃げていった男達を見送り初めてその女を視界の中心に入れた。店主と言うにはまだ若い。カタギの女にしては肝が座っているらしい。
「あの、…ありがとう」
「礼は要らん。通り掛かっただけだ」
男共が散らかしたせいで店内は酷い有様だった。細かなアクセサリーが床に無残に落とされている。これを一人で片付けるのは骨が折れるだろう。
「暫く雨宿りさせて貰えるか」
「ええ…良いけど…」
カチャリと金属の揺れる音がする方は目を向ければ、床に落ちた商品を一つずつ丁寧に拾い上げていた。ただその手は不憫なほど震えている。
「手作りか」
「母方の祖父が田舎に工房を持っていて、小さい頃から玩具にしているうちに自然と教えて貰うようになったんです」
「そうか」
こんな風に、夜の仕事をしているでもない平凡な女と世間話をするのはいつ振りのことだろう。
「高校生の女が好みそうな物は置いてるか」
「…驚いたわ、高校生と付き合ってるんですね」
「馬鹿な事を言うな。ウチの『お嬢』だ」
「本当にそういう世界の人なんだ」
怖がるでもなく落ち着いて話すこの女のことは不快ではない。沈黙が落ちるとガラスの向こう側の雨の音しか聞こえなくなる。
「どんな人?お嬢さん」
「…綺麗過ぎる存在…言うなれば鳥籠の鳥ってところか」
「窮屈な思いをしてるのね」
「今はな。だが…」
いずれどうにかしてやりたいと思う、あの二人を。あれ程までに想い合い、強い絆で結ばれている兄妹だけがお互いの気持ちを知らないのだ。この十年、何度お嬢との『約束』を破りかけたか分からない。晋助が与える愛情と同じくらい、あの子には幸せになって欲しいと願っている。
「…話し過ぎたな」
「もう一つ教えて。貴方の名前は?」
足元にあったシルバーの指輪を手に取って細い身体の前に立ち、その手に指輪と自分の名前を落とす。何故他人にここまで時間を割き、あまつさえお嬢の話までしたのかは分からないが…この女の持つ雰囲気が酷く澄んでいて、その片鱗にお嬢の雰囲気がチラついたからかもしれない。尤も外見は全く似ても似つかないが。ただ、外界から遠く離れた空間にいるような居心地の良さがあるこの店にもう少しの間だけ身を置きたくなった。雨宿りを理由に。
「河上さん。ありがとう」
雨が降り続く六月。商品が散乱した小さなアクセサリー店。名字名前と出会ったのはそんな最悪な日の午後だった。
title by moss