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10.霞む未来、花の祝福あれ

名前の店と住居があるビルは真っ暗で、すぐ奥には組の車が停まっていたが中は無人だった。店の裏にある階段に回れば運転手がスマホを握り締めたまま倒れている。頭部からの出血が酷い。

「武市!無事か!」

「…お、お、…忙しいところを…すみま、せ…、」

「名前はどこにいる」

「さ………三階に……如何やら、この件…麻薬組織と以前名前さんを襲った詐欺グループは同一だったようで…、」

「わかってる。少し休んでいろ」

意識が朦朧としているのにも関わらず状況説明を始める武市を制しつつ最低限の止血をして階段を登ると手前の部屋の前に立つ二人の男がいた。薄らと見えるコイツらの顔も覚えている。

「来たな、河上万斉」

「そんなに息切らしてずぶ濡れになってまであの女のこと追って来たのかよ、ダッセェ。必死すぎて笑えるわ」

「お前らと話しているほど暇じゃない。そこを退け」

一向に道を開ける気はないどころかポケットから刃物をチラつかせてくる。足止めは免れないらしい。

「今さー、俺らボーナスタイム中なんだよなぁ。高杉組の幹部を一人潰す度に100万くれるって畑主さんが言ってくれてんだよ。まぁさっきのオッサンは0円だけど。だから早いとこ死んでくれよ」

ナイフを振り上げ襲い掛かってきた男を避けると革靴に何か硬いものが触れた。名前に渡した蛇目の傘。それを拾い上げもう一人のナイフを受けた。頑丈なはずのそれはミシ、と軋み、振りかぶって腕に叩き込めばバキリと音を立てて折れた。そのお陰でナイフは手から落ち痛みに蹲った。

「調子に乗るなよォォォ!!」

ここで銃を出すには狭すぎる。だが迷っている時間はない。殆ど真っ暗な世界の中で落ちている一本のナイフを拾い上げ声がする方へ投げれば身体のどこかに命中したようだ。次いで汚い悲鳴をあげた男に躊躇なく鉛玉をぶち込んだ。ドサリと倒れた肉片は残った片方の男の下敷きになった。

「ヒッ…!?ヒィィィイ…!!、待て降参だ!!助けてくれ…!!」

「覚悟もなく差し出せない命ならさっさと捨ててしまえ」

もがきはい出ようと手足を動かす様は見えていなくても滑稽だ。

「人に与えた恐怖を思い出しながら死ね」

「ヴッ…!…グ、」

二発目もほぼ手探りながら生命を亡骸に変えた。俺の命が100万?馬鹿馬鹿しい。こんな物に1円の価値もない。

『やめて!いやぁぁぁ…っ!』

部屋の中から聞こえた悲鳴に反射的に身体が動いた。玄関ドアに体当たりして部屋の中に入ると…目の前に広がっていたのは文字通り地獄だった。焼け焦げる匂いと熱風。壁を取り外し改造された広い空間いっぱいに広がる違法薬物の木が炎の前で青々と揺れている。その中心で恐らく『畑主』に馬乗りにされ服を捲られ悲鳴を上げる名前の姿が目に入った瞬間、己の中で何かが弾けた。

「………なんだお前、今良い所なんだよ。見張りはどうした?」

「あれが見張りか?その辺を歩く蟻と変わらなかったが」

「…高杉組か。後にしてくれ。折角の商品が燃えてしまう」

「ならばまず貴様がその女から離れることだ」

「っいや….ごめんなさい………叩かないで…」

力無く横たわり恐怖に怯え泣く名前の姿は親に叱られた幼い少女のようだった。興味が無くなったのか畑主が床に燃え移った火を消す為に立ち上がる。駆け寄り衣類を整えながら大きな外傷がないか確かめるとあちこちに真新しい打撲の跡があった。

「名前、俺だ。しっかりしろ」

「っ、っ…?か、かわかみさん…?」

何故俺がここに居るのか分からないといった表情で見上げ、思考を取り戻すと必死で俺の腕を掴んだ。すっかり身体は冷え、震えている。

「武市さんが、」

「アイツの身体は頑丈だ。あの位じゃ死なない。それより早くここを出ないと火事になる」

「それはできない相談だな。それよりお前やけに名前に馴れ馴れしく触るじゃないか」

そう言う畑主の方こそ、彼女の名前の呼び方に何か特別な含みがある。知り合いか?名前の顔を覗き込めば恐ろしそうに男から目を逸らした。

「お前は悪い子だ。よりによってこんな男を選ぶとはな。善良な市民から金を巻き上げ逆らえば問答無用で命を奪い至福を肥やす。この世で最も卑怯で下劣な集団だ」

緑色の葉を大切そうに撫でた男は真っ直ぐに名前を見下ろした。そして思いついたように床から拾い上げた無数の蝋燭のうちの一つをまるで飼い猫に玩具を見せるかのように揺らす。その動きに名前の身体は過剰に震えた。

「っ、や、」

「それ以上近づくな」

「なぁ名前。俺を選ぶよなぁ?やっと会えたんだ、これからは二人仲良く暮らしていこう。もうこの世にはあの女もクソジジィもいない。誰にも邪魔される事はない。俺達『家族』の新しい生活を始めようじゃないか」

「家族……?」

「っ言わないで、お願い」

場違いな言葉が引っかかる。勝ち誇ったかのような自信に満ちた目は爛々と輝き、最後のひと吸いをした葉巻のカスを床に落として踏み潰した。あれは恐らく麻薬だ。

「名前…俺の可愛い名前…大事な娘」

「…………娘だと?」

耳を疑うような単語だった。意味を理解し、そしてようやく名前この異常な怖がり方の理由に合点がいく。

「その子を渡して貰おうか。そうすればこの畑は一旦諦めてやる。この町からも出て行こう。今度はアジアにでも行くかな。お前も来るだろう?女がいれば金も動き易い」

「…いや、私はもう貴方に振り回されたくない…っ、」

「俺に反抗するのか?それは残念だ」

瞬間、鋭い蹴りが飛んできた。反応し切れず腕の中の名前を庇うだけに留まったお陰でそれは頬に当たり口の中に血の味が広がる。サングラスが音を立てて部屋の隅に飛んでいった。

「河上さんっ!」

「見るな」

ぼたりと滴る血が名前の視界に入らないように顔を背け袖で拭うと更に蝋燭が投げつけられた。その隙に名前を無理矢理立たせ人質に取った畑主は勝ち誇ったように笑い声をあげた。

「ハハハッ!!お前、随分と大切にされてるんだなぁ!」

無言で銃を畑主に向ければ向こうも尻ポケットから同じように銃を取り出して、名前の頭に押し付けた。

「……っ」

「詐欺と大麻、おまけに銃か…犯罪のオンパレードだな」

「ヤクザがそれを言うのか?」

何がおかしいのかしきりに笑いを堪えている畑主の手は震えている。酒か薬か、その両方か。大事な娘だと言っておきながら己の盾にし且つ人質に取るこの男が本当に父親なのか理解し難い。名前を引き摺るように出口に近づいていく。逃げる気か。さっさと殺してしまいたいが一歩間違えれば名前に当たってしまう。絶え間なく動く標的と薄暗さのお陰で急所が狙い難い。

「クソ、」

「俺を殺せばこの部屋のことは全て名前の仕業になっちまうぞ?留守にしてる間に少し荷物を運んでおいたんだ。薬物組織の幹部だと証明する内容の記録もわざわざ作ってある。若くして精神崩壊した女の成れの果てという演出だ。ハハ、良い考えだろ?」

「崩壊しているのはお前の方だろう。警察もそこまで間抜けじゃない。それに証拠が何だ?そんな物俺達高杉組にとってはどうでもいい。重要なのは誰が生き…誰が死んだか、だ」

その時、カタンと小さな音がした。捕らえられていた名前が足元の蝋燭を倒したのだ。それは畑主のズボンに火を引火させた。

「ッ!お前…!」

自分のズボンが燃えていることに気づいた男は名前を突き飛ばし火を消すために屈もうとした。その隙に銃を撃てば炎に照らされた足元を貫通し今度こそ床に転がった。

「うぁあァアっ!!!」

痛みにあげた声は潰れた蛙よりも酷く汚い悲鳴だ。起き上がった名前の視線は畑主に向けられている。

「ッ…、ぐ、む、娘の目の前で…っ父親を殺す気か、たった一人の家族を……」

「そうなるな」

「外道が…ッ」

微塵も迷いがないと言ったら嘘になる。どんな非道を繰り返したとしても血の繋がった親は一人しかない。名前にとって俺は肉親を殺した仇になるだろう。だが応援を待っているだけの猶予はない。ここでこの男を逃がすつもりもない。火は轟々と燃え広がり最早鎮火は難しい域にまできている。このままでは古いアパートは直ぐに崩れ落ちる。一刻も早く出なければ全員焼け死ぬだろう。早く始末しければ。なのに引き金にかけた指が動かないのは、揺らいでいるからだ。

「……河上さん」

ぽつりと、消えるように俺の名前を呼んだ。はっきりと意思を持った瞳が訴える。

「…大丈夫だから………して…殺して…河上さん」

「名前、」

「………私、お父さんの描く絵が好きだった。筆を持つ横顔が好きだった。お母さんもきっとそうだったはずよ。とても短かったけど…優しくて穏やかな日々が、確かにあったの…。でももう、何も残っていないのね…」

そして思い出の中にある儚い日々はもう、新たに生まれることもない。呼びかけた声も、言葉も、もう届いてはいない。痛みに呻き、燃える葉に絶望し、恨めしくこちらを睨み付けるだけだ。

「……目を閉じていろ」

名前は軽く首を振って視線を合わせた。葉や木造の建物が赤に飲まれていく。古いアパートの一室に乾いた銃声が響いた。

「さよなら、お父さん……」

命の終わりを見届け、動かなくなった肉から溢れ出る血を見た名前は意識を飛ばした。熱い。煙で前が見えない。本格的にまずい。手探りで出口を探そうとした時、バタバタと何人かが入ってきた。

「兄貴!大丈夫ですか!!」

「早くこっちへ!」

「…ああ」

「よォ、サウナにでも入ってんのか」

「…来るのが遅すぎるぞ晋助」

「平賀に言え。こっちも十分急いで来たつもりだ」

そんなことは分かっている。駆けつけた人間は晋助を含め全員ずぶ濡れだった。だがあまりの疲労に文句の一つも言いたくなる。

「とにかく頼む。煙を吸い過ぎた」

抱えていた名前の身体を晋助に預け、足元にあるもう動くはずもない男の心臓をもう一度撃った。

「地獄で待っていろ」

意識が遠ざかる。頭痛と吐き気が止まらない。御苦労さん、と労いの声が聞こえるのと同時に目の前が暗転した。





目が覚めれば組が世話になっている小さな病院だった。先代との縁で主治医になったのがきっかけで息子が代を継いだ今も世話になっている診療所で、金さえ払えば何も聞かず治療を施して終わる。あの火事はどうなっただろう。最後の方は記憶にないがここにいるという事はどうにか無事に脱出できたらしい。

「目が覚めたか」

「…屋敷に百合が咲いた。近いうちに見に行ってやって欲しい」

「開口一番に何を言うかと思えば…」

男にしては長く整えられた黒髪を揺らす医者は病室の窓を開けた。

「彼女なら今帰ったところだ。ずっとそばに着いていたんだがな」

視線を動かせば傍らに簡易的な椅子が一脚あった。目の前で父親を殺した男をどのような思いで見下ろして居たのだろう。

「怪我はなかったのか」

「だいぶ煙を吸い込んでいたが打撲と擦りむけ程度だったぞ。それより心配なのは生活習慣だ。食欲不振と不眠の症状はいつからだ?一人だとストレスを溜め込む性格のようだから当分は側についてやれ」

「………」

まるで俺のことを家族か恋人とでも思っているかのような口振りに返す言葉がなかった。今度こそ終わってしまったような気がしてならない。ストレスの元凶が側にいていい筈がない。あの後のことはその日の夜に病院に現れた晋助に聞かされた。

「詐欺グループ兼大麻の違法栽培に違法取引等々、バイトを含めあの場にいた奴らは全員捕まった。畑と呼ばれていた建物も全焼。お前が始末した奴等も真っ黒焦げになって出てきたぜ。その辺は平賀が上手く理由をつけて処理するだろう。暫くは家にも帰れねぇな、アレは」

淡々と耳に入る言葉の奥であの古びた一階の店舗に並ぶ彼女の作品達が陽に照らされてキラキラと輝く様が脳裏に浮かんだ。一つひとつ丁寧に願いが込められたあのアクセサリーも、余計な物は持たない素朴な暮らしをしていたあの部屋も全てなくなってしまったのか。

「店主は屋敷を出て行った。新しい住居を探すのに少し手を貸した程度で後は大丈夫だと」

「…そうか」

居場所を聞こうか悩み、しかし遂に何も言えず沈黙ばかりが重く落ちた。

「退院は二日後だ。迎えを寄越す」

そう言って晋助は病室を後にした。頭痛が酷い。窓から差し込む光が眩しくて目が開けていられない。そういえばサングラスを無くしたんだと思い出した。世界はこんなにも明るかったのか。
退院の日、診療所を出ると待っていたのは名前だった。誰の差し金かは聞くまでもないだろう。つくづくお節介が過ぎる男だ。

「……武市はどうした」

「忘れたの?頭に怪我をして大きな病院に入院中よ。とても元気そうだけど傷が深いから長引くかも」

ごく自然に歩き出した名前の隣にいることに居心地の悪さが込み上げる。

「お屋敷に行く前に寄り道させて」

ゆっくりと歩みを進める中で、互いにあの日について何か言うべきだという空気感があった。しかし言葉にならない。何から話すべきか考えあぐねていると辿り着いたのは組から程近いマンションだった。

「若頭さんが手配してくれたの。本当は祖父の田舎に戻ろうと思っていたんだけど…この街にいる限りは何かあれば守ると言ってくれて、暫くそうしようかと思って」

案内され部屋に入ると既に引っ越しは終わっていて、リビングにはテーブルと二脚の椅子だけが置かれていた。

「名前、話がある」

飲み物を用意しようとしたその腕を引いて、直ぐに離した。細く柔らかな線が振り返る。

「俺はお前の父親を殺した。俺は、もう恩人でもないただの仇だ。平気で人を殺す。そんな人間が執着して良いはずがない。お前に相応しい男は幾らでもいる。だからもう、」

続きが、喉につかえて出てこない。手離したくないと思ってしまっている。いつの間にかこんなにも一人を想い続けている。引き返したくない、しかし駄目だと心の内でせめぎ合う。何て滑稽で馬鹿馬鹿しい男なんだ。

「…ここに来てもらったのは、あの日のお礼を言いたかったからなの」

そう言って名前の方から俺に触れた。手を取り、いつものように指輪を撫でた。

「ありがとう河上さん。目の前で父を殺してくれて。これでやっと前に進めるわ。…気付いたの。私、暴力が怖いんじゃなかった。傷ついた末に誰かを失うのが怖かった。いつの間にか何かを壊す為の行為だと勘違いしていたの。でも違う。貴方はいつも、誰かの為に拳を振るってた」

人を殺してその家族に感謝されることはない。なのに名前は当然のように俺に笑いかけている。

「組にとっては人を殺す手でも、貴方の意思で触れる大切な物にはとても優しくなるの。どちらの手も、私にとっては変わらないわ」

「…名前」

「仇とか立場とか、そんなことに拘らないで。貴方が何であろうといいのよ。背負わないで。あの人を殺してと言ったのは私よ。たまたまその術を持っていた貴方が引き金を弾いただけ。まだ…血や暴力は少し怖いけど、それを乗り越えてでも貴方と一緒にいたい。そう思っても良い?」

差し込む光が眩しい。いや、眼前の彼女が向ける直向きな言葉のせいだ。目を細めると風に揺れるレースカーテンを閉めるため背を向けた名前は一拍置いて呟いた。

「好きよ」

例えるなら耳にかけられた細いパーツが風に揺れてちり、と音を立てたのと同じくらいに細く小さな声だった。都合の良い空耳かと思えたが無意識に掻き抱いた。驚いて振り向いた唇を塞ぎ、腕の中にすっかり収まった身体を持ち上げて寝室に向かう。真新しいベッドに横たえて同じように沈み込む。正面から見上げてくる視線を、絡めた指を、これ以上ないほど愛おしく思う。これだけの感情を手離すのはもう無理だ。名前が欲しい、どうしても。

「…今の聞こえてた?」

「ああ」

「初めて人に言ったから恥ずかしい」

「そうか。俺も初めてだ」

「…?何も言われてないわ」

「聞こえなかったか?」

こんなにも全身が熱を持っているというのに。胸の内で何度も反復してようやく声になる。

「…感情が形になるとしたら、お前のことを言うんだろうな」

「……え?」

「愛というのはこういうことかと言ったんだ」

「……、……」

普段は落ち着いた佇まいの名前の頬がみるみるうちに少女のように赤くなる様を見た。愛、と呟いて何度か瞬きをする目元に唇を当てるとようやく微笑んだ。

「本当はずっと知りたかった。この気持ちが愛っていうのね…」

首に腕が回される。引き寄せて合わせた唇から甘い吐息が漏れる。服の下に手を差し入れ上から順にキスを落としていくと辿り着いた場所で動きが止まった。

「此れは…どうした?」

「変?」

「…いや、」

花が咲いていた。脇腹に百合が。傷跡の上から入れたタトゥーはシングルニードルを使い細い線で描かれていたがそれが百合の儚さと重なって白い肌によく似合っていた。

「何でも良かったんだけど、どうせなら河上さんの好きな花にしようと思って」

「何時の間に彫ったんだ」

「引越しの次いでに若頭さんに紹介して貰ったの。岡田さんって言ったかしら。河上さんの腕を彫った人だから間違いないって」

「……よりによって岡田に肌を見せたのか。彼奴は腕は確かだが武市よりタチが悪い変態だ」

「でも、綺麗でしょ?傷を薄くする治療もできるみたいだけど、そうしたところで無くなるわけじゃないから」

「それとこれとは別だろう」

「…もしかして妬いてるの?」

「…そうかも知れんな」

「河上さんって、そんなこともできるのね」

くすくす笑い腕の刺繍を撫でた名前から宥めるようなキスが与えられる。丁寧で、それでいて情熱的な熱さを伴う。

「誰の為に在りたいか考えてみたらって武市さんに言われたの。…私、これからは貴方の為に生きようと思う。それが自分自身を大切にすることに繋がるから。そうしたら少しは強くなれる気がするの」

「いや……お前は初めから強い女だったよ」

愛がここにあるならば、心臓は高杉組の物だとしても心はお前の元に置いて行こう。大事に持っていて欲しい。そして俺が死んだら手離して欲しい。そう伝えると、

「貴方の心はもう私の物よ。捨てるつもりも誰かに渡すつもりはないわ」

そう言って穏やかに微笑んだ。

「そうか。ならば今日は安心して屋敷の門をくぐれる」

「どうかしたの?」

「……お嬢の傘を壊した。けじめを付けなければならん」

「あら、早いお別れね」

笑いながら細い指が俺のシャツのボタンを外していく。同時にこの手も名前のデニムに手をかけた。

「後で一緒に怒られに行くわ。借りたのは私だもの。お嬢様はそんなことで怒らないでしょうけど」

「あの子の兄に殺されに行くんだ」

「ふふ、じゃあ河上さんを守らなきゃ。フライパンでも持って行こうかしら」

それはいい考えだと口角を上げて後はもう互いの心と身体に集中した。百合が舞う様は美しく、何かを大切に想う気持ちが通じ合うということがこんなにも満たされるものなのだと知った。幾度か紡がれた言葉を聞き逃さないように、そして何一つ忘れることのないよう名前の全てを全身に焼き付けたい。

「河上さん、好きよ」

「…名前」

耳元に送った愛の言葉が想像以上に柔く響いた。恥ずかしそうに、それ以上に幸せそうに微笑む名前がこの世の何よりも美しく思えた。



end.


title by FELICIT