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08.めくらましの影を踏む

「晋助見て、お姉さんがネイル塗ってくれたの!綺麗でしょ」

「ああ」

「あのね晋助、お願いがあるの」

「ダメだ」

「まだ言ってないよ」

「用事がない限り店主は外に出さねぇ。昨日万斉にも言われただろう」

「お散歩もだめ?ずっとお屋敷の中じゃお姉さんの身体に悪いよ。今ね、隣町の公園で向日葵が見頃なんだって」

「花なら庭に腐るほど咲いてんだろ」

「もう!晋助ってば、」

「走るな。またぶっ倒れてぇんなら別だが」

細い線ではあるがしっかりと伸びた晋助の背を追いかけるお嬢が不満の声を上げている。いかにも女子校らしい品の良さそうなデザインのスカートを揺らしながら足を早めようとする様子に釘を刺し、自ら歩みのスピードを緩める姿は妹の身体を心配する兄の何者でもない。その様子を眺めていると名前が声をかけてきた。

「お帰りなさい」

「…ああ。今日は何していたんだ」

「いつも通り部屋で注文分の商品を作っていたわ。お屋敷の中をウロウロして皆さんの邪魔をしてはいけないし」

高杉組の敷地内で俺の隣に立つ名前にはやはり違和感を感じてしまう。俺が屋敷にいる時以外は部屋に篭っていることを知ったお嬢はそれを良く思っていないようだ。学校からの迎えの車内でも話すのは名前のことばかりだし、帰るなり晋助にどうにか外出の許可を得ようとしているがこの件が片付かない限りは難しい。それはお嬢自身も分かっている筈だが気持ちのやり場が無いのだろう。そんな様子を見て名前は穏やかに笑っている。

「お嬢様、本当に可愛くて良い子ね。若頭さんもお嬢様には特別優しい顔をするもの。ああいうのが家族っていうのね」

「…あの子がそれを聞いたら喜ぶだろうな」

人一倍『家族』に執着しているお嬢にとって名前の言葉は嬉しいものだろう。

「極道の世界にもこんなに穏やかで優しい時間があるのね。知らなかったわ」

「必要ないと思う輩も勿論いる。『親兄弟』の関係以上の感情を理解できるような生い立ちを持ち合わせていない奴が多いからな」

そういう自分も家族や愛なんてものは必要ないと思っていた。元よりこの世界に入る人間が家族の愛を、親の愛を、知っている者はごく僅かだ。愛が何かは知らないが、どのようなものかは知っている。日々目の前で繰り広げられる兄妹ごっこ。残酷な運命の中で甘やかな愛情を浴びて育ったあの子と、狂おしいほど冷徹な高杉組の若頭との間にある決して切れることのない絆。触れ合う温度の儚さ。目にする度に貫かれるような痺れを持つ。言葉など必要ない。二人の存在が体現する。あれが愛なのだと。そしてそれがあるからこそ晋助やお嬢はこの屋敷で穏やかに生活できているのだと。

「…明日、アパートに戻るといい。着替えが足りないだろう。武市に伝えておく」

「いいの?」

「家との往復じゃ気晴らしにもならないだろうが」

「充分よ。ありがとう河上さん」

閉じ込められている身だというのに礼を言う名前に思わず苦笑する。周りに多くを求めない名前は与えられた現実の中でも強く生きようとする覚悟と力がある。だがそれが酷く危うく見える。人に頼ることも、寄りかかることも下手な彼女が唯一自分には甘える瞬間がある。それに気が付いた時、胸の奥が焼けつくように熱くなる。

「あっ、お姉さん!来てきて、百合が咲いたの!」

「百合?」

制服を着替えて戻ってきたお嬢が名前の手を引いていく。それに付いていく彼女も嬉しそうだ。よく二人で並んで花の手入れをしている。一見窮屈そうに見える生活だがお嬢の存在やこれだけの生花に囲まれる生活は刺激的で楽しいと話していた。

「随分と仲良くなったみてぇだな」

名前の代わりに隣に立ったのは晋助だ。咲いたばかりの百合を並んで愛でる後ろ姿は微笑ましい。

「顔色も大分良くなったな。眠れるようになったのか」

「ああ、まだ寝付けないこともあるが…。あのまま店に居続けることを考えればこれで良かったんだろう。晋助、お前が許可を出したのも意外だったが」

「遅かれ早かれいずれここに挨拶に来ただろ」

「…お前はどうして俺達が上手くいく前提で話をするんだ」

「見てれば分かるさ」

「これほど周り道をしているのにか」

「だからこそだ。適当に思っている相手に手なんざ貸さないだろ、お前は」

いつの間にそんな風に人に興味を持つようになったんだ。一時的に屋敷に住んでいるとは言え実際にはただこれまで通りの関係に戻ったという程度なのに。

「店主は喫煙者か?」

「いや、知る限りでは吸わない筈だが…それがどうかしたのか」

「店に行った日、部屋から葉巻の匂いがした。女にしては珍しいと思ったが」

「上の階の住人だろう。名前はよく窓を開けて作業しているからな」

「だとしたらどんな奴なのかと思ってな。あそこは駅から距離があるし商店街の一本奥だ。立地も良くなければ古くて家賃も安い。店を構えるには落ち着いていて良いがあそこに住むくらいなのに煙草じゃなくて葉巻に拘るのが気になっただけだ」

ところで、と晋助が口角を上げる。玩具を見つけたような笑みが逆に恐ろしい。

「なぁ万斉、いいモン見せてやろうか」

「…何だ」

ポケットから取り出された物に目が見開かれる。透明なビニールのパッケージに入った乾いた草の塊。ラベルには例のマークが描かれている。件のグループが売り捌いている大麻の現物だ。

「これは…!一体どこで!?」

「見本だ。平賀から特別に借りた。やはりこの街の何処かで違法栽培している可能性が高そうだ」

「売人と接触できたのか」

「店主の顧客リストから仕入れた情報が役に立ったのさ。あの連中のアドレスを片っ端から引っ掛けてSNSのアカウントを特定した。明日、手押しの約束を取り付けてある。お前が部屋に女を連れ込んで仲良くやってる間にな」

「…夜に名前を残して屋敷から出るなと言ったのはお前だろう」

「冗談も通じないようじゃ飽きられるぜ」

「……………」

「せっかくだから使ってもいいが。まぁこれも冗談だ」

「晋助、お前が言うと冗談に聞こえない」

「いっその事つまんねぇヤクザなんか辞めて芸人でも目指すか」

「付き合ってられんな」

「ウチで一番若い奴を売人志望という設定でグループと接触させる。どの程度の幹部が出てくるか楽しみだな」

「害虫は早く潰すに限る。巣の根本からな」

「クク、その顔、店主に見せるなよ」

楽しげに笑う若頭こそ、明日の接触を心待ちにしているようにしか見えない。晋助が部屋へと戻っていったのを見計らってお嬢が「万斉さん!」と手を振って呼んだ。

「お話終わった?楽しそうだったね」

「まぁな。…見事だな」

眼下にあるテッポウユリは大層立派に花をつけていた。純白の花筒の先は綺麗に反り返っている。去年植え付けてからお嬢が特に気にしていた花だ。梅雨明け以降、日差しが当たりすぎないように何度も様子を見に行っていた。

「桂先生が分けてくれた球根、ちゃんと咲いてくれてほっとした。今度見せてあげなきゃ」

「伝えておこう」

うん!と嬉しそうに頷いたお嬢は来島に呼ばれて屋敷の中に入っていった。そろそろ夕飯時か。

「河上さんはどんな花が好きなの?腕の桜は確か、お嬢様が来た季節に咲いていたのよね」

ふと隣に腰を下ろしていた名前が言った。視線は百合に向けられている。六枚の花破片は白く艶やかな肌に寄り添うように横を向き、小振りで華奢な姿は名前によく似ている。花に特別な好みはないが、強いて言うならば…。

「これだ」

「…百合?目の前にあるからって適当に言ってない?」

「これがお前に似合うと思ったからだ。これからは好きな花を尋ねられたら百合と言うことにする」

そう言うと、きょとんとした瞳でこちらを見上げた。

「私こんなに綺麗じゃないわ」

「いや、お前は綺麗だ」

「…河上さんってたまにすごく直球で女を口説くわね」

「口説いたつもりはないがお前が喜ぶならこんな言葉いくらでも言ってやる」

「そういうのはたまに言うからこそ価値があるのよ」

良い香り、と溢して目を閉じた横顔は相変わらず儚げで、触れたくなって手を伸ばすのは常に無意識だ。頬に落ちた髪をかき上げると耳に付けられた手作りのピアスと己の指輪が引っ掛かりカチャリと音を立てた。

「下手ね」

「そのうち慣れる」

くすりと笑う名前の頬に手を当て唇を奪おうとして、奥から聞こえる雑音が耳に入って止めた。

「あ〜〜イイっすね!めっちゃいい雰囲気っスねお嬢!カメラ持ってくるべきだったっス!」

「ちょっとまた子さん聞こえちゃうよ!今すっごく素敵なんだから隠れて隠れて!」

「…来島、お嬢、何か用だったか」

「ヒッ…!河上さ…!ああああのあのあの、お夕飯の支度が出来たので呼びに行こうかな〜……なんて……はは」

「後で行く」

「先に行ってるね!お姉さん、後でねー!」

「ええ、また後で」

きゃあきゃあ言いながら駆けていく二人はまた晋助に怒られるのが想像できる。それにしても部屋以外はどこで誰が見ているかわかったもんじゃない。

「お嬢様の教育に悪いところを見せちゃったかしら」

「あの子もそのうち許婚と顔を合わせることになる。問題ない」

「……許婚」

「相手はほぼ決まってるがな。珍しくもないことだ」

日が陰ってきた。サングラスの向こう側の視界が足元をより暗く見せる。先を歩いていると背中につんと指先が触れた。振り返れば名前は少し不安げに眉を寄せていた。そして真剣な声色で問いかける。

「若頭さんや……河上さんもお見合いをするの?」

「晋助はこの先分からんが、少なくとも俺はしない」

「そう、良かった」

「…………」

「どうかした?」

「いや、」

その微笑みの意図は何なのか、何に対して良かったと言っているのか……安易に自惚れてもいいのか分からず名前を見下ろした。






朝から雨が降っていた。日を改めればいいものを「ついでに商品を発送したいから」と武市が運転する車に乗り込んだ名前を見送る。本来ならついて行きたい所だが生憎今日は例の組織の一員と接触する日だ。

「傘を持って行け」

「これ、大切な物じゃない。車だから大丈夫よ」

「その方がお嬢も喜ぶ」

渡したのはお嬢に貰った蛇目の和傘だ。梅雨以来使われなかったそれを選んだのは出会ったあの日のことを思い出したからかも知れない。名前は少し悩んだ後に手を伸ばして受け取った。

「じゃあ…借りるわ。ありがとう。行ってきます」

「ああ。武市、頼んだぞ」

「お任せ下さい。それにしても名前さんと二人きりなんてむふふな気持ちになりますなぁ」

「運転に差し支えるなら心臓を止めてやっても良いんだが」

「さぁ行きましょう」

車が出たのを確認してから車庫に戻り別の車に乗り込んだ。

「兄貴、よろしくお願いします」

「しくじるなよ」

オトリ役を任された若い舎弟が頭を下げた。その辺によくいる若者風の私服を身に纏っている。晋助は既に別の車で先に向かっている。車は待ち合わせ場所の手前に着き、オトリは一人でその場を後にした。耳に付けたイヤホンのスイッチを入れると雑踏と雨の音が聞こえる。

『あ、あのー…『ベジタリアン』さんですか?俺、この間連絡した『ポン太郎』です』

『よぉ、よろしく。早速だけど金持ってきた?』

『『野菜』の代金と、入会費の10万…っスよね』

『最初はバカ高けーなと思うけどこんなんすぐ稼げるぜ。ハタヌシさんは10万先に払わせる事でやる気があるか見定めてんだ』

自慢気に話す男の声がデカくて助かる。雨と雑踏の音に消される事なくしっかりと会話が耳に入ってくる。残念ながら幹部ではなさそうだが口が軽そうな話し方からして情報は手に入れられそうだ。

『スゲー雨だな。事務所に案内するわ。さっさと行こうぜ』

『はい。あのー、ハタヌシさんって誰っスか?』

『『畑主さん』はこの会社の社長だよ。本名じゃねーけどな。野菜を作る畑の主ってことで畑主さん。俺たちは畑を耕して収穫した野菜を販売して利益を出す労働者』

『すげー。俺にもちゃんと売れますかねー』

バン、と後部座席の扉が空き横に乗り込んだのは晋助だ。前髪から雫が滴っている。

「道が狭ェ。一台で行く」

「楽しそうだな」

「ヘンゼルとグレーテルの気分だ。さて…どれほど甘いお菓子の家に着くかな」

徒歩で向かう舎弟の指示で車はゆっくりと動き出す。イヤホンの向こう側では案内役の男がこの仕事の良さを自慢気に語っている。

『売れば売るほど自分の手に入る給料も上がる。マジで良い仕事だよ。お前も友達にガンガン勧めろよ。特に…このネックレスを持った客は絶対逃すな』

『何すかこれ?このマークめっちゃカッケーっスね』

『これを持って来る客には特別価格で安く売ってんだ。勝手に周りに広めてくれたり『野菜』を食べる頻度も多くなるから確実にリピーターになるぜ』

『ベジタリアンさんも野菜食ってんスか?』

『当たり前だろ。この仕事やってんのも手っ取り早く稼いで飯の足しにしたいからだよ。ウチの野菜は完全国内生産だからめちゃくちゃ質が良いんだよ。まだ試してねーんだろ?後で食ってみろよ』

「…馬鹿の会話だな」

「同感だ」

オトリ役の舎弟も大変だなと内心笑いつつ、しばらくして古びたアパートの一室に入って行った二人の姿を確認する。ここが事務所か。

『うわ…すげ………』

オトリ役の舎弟が漏らしたのは本音だ。麻薬だらけの光景が広がっているに違いない。イヤホンを外して平賀にアパートの地図を送り、晋助と車を降りインターホンもない部屋のドアをノックした。

「はいはーい誰?」

出てきたのは若い男だ。声からして案内役の男とは別。狭い玄関には置ききれないほどの靴が脱ぎ捨てられている。

「よォ、旨いモンがあるんだってな。俺達にも試食させてくれよ」

晋助の佇まいにただ事ではないと咄嗟に判断したこの男は正しい。見るからに動揺した表情で後退りした。

「なっ!?アンタ達なんだ…っ!?」

「名乗っても良いのか?後悔するぞ」

「きゃあぁ!もしかして警察!?」

様子を見に来たお嬢と歳の変わらなそうな女が悲鳴をあげる。土足で足を踏み入れれば狭い室内で若者達がテーブルを囲んで大麻のパッケージ詰め作業を行っていた。その殆どが制服を着ていたり大学生のような若い風貌だ。しかし若者特有の初々しさは消え失せ、爛々と輝く目で作業に没頭している。こちらに気付かない奴も多い。奥にいるオトリ役のウチの舎弟もこの光景に絶句している。

「お前……コイツらの仲間か?警察の関係者か!?騙したんじゃねーだろうな!?」

ここまで案内してきた売人の男が舎弟に詰め寄る。逆上し拳を振り上げるよりも先に舎弟の蹴りが腹にめり込み気絶した。その様子を見て悲鳴を上げる者、魂が抜けたように動かない者、一心不乱に作業している者…それぞれの反応がこの空間の異常さを表していた。

「ハタヌシは何処にいる?ここに呼べ」

「ちが、ちがうのあたし達何もしてない何も知らない!ただ稼げるって言われてパケ詰めのバイトしてただけ、こんなの使った事ないもん知らない知らない!!」

話が通じそうな女でさえもヒステリックに首を振るだけだ。

「仕方ねぇなソイツを叩き起こせ」

晋助の指示で気絶している案内役の男を足蹴りにして仰向けにした時、玄関から中年の男の声がした。

「オイ何だこりゃあ。お客さんか」

「やっと話の分かる奴が来たか。お前が幹部か」

「サツじゃあなさそうだな。誰からの紹介だ?どのくらい欲しい?」

倒れている男の存在なんて気にも止めずニヤリと笑いかけた品のないスーツ姿に見覚えがあった。晋助の方を見ているからこちらには気付いていない。この男、確か…。

「詐欺の次は薬か。次から次へと忙しいな」

「?…な、!?アンタは……!!!」

ここでようやくこちらを見た幹部の男は俺のことを思い出したのか目を見開いた。

「た、高杉組………!?」

以前名前の店に入り脅していた詐欺グループの中の一人だった男だ。まさかまた顔を合わせることになるとはな。

「組の名前を忘れていなかったようだな。しかしシマを荒らすなと忠告した筈だが」

「な、んでお前がここに…!」

「逆に聞くが、テメェは何故ここで薬なんか売ってんだ?誰に許可を取ってこんな派手なことしてんのか説明して貰わねぇと麻取サマにもご迷惑だろうが」

晋助のドスの効いた声に流石に目の前にいる男が何者か気が付いたらしい。

「アンタまさか…ッ、!?」

「誰でもいいだろう。どうせ死ねば直ぐに忘れる。一つ聞くが…『畑』はどこだ?薬の栽培はどこでしている?隣の部屋か?」

「…大事な商品の場所をヤクザなんかに教えるわけねぇだろう…!!横から掻っ攫われちゃ堪んねぇ…!」

「教えてもらわなきゃ殺せねェだろ?まぁ言う気がねぇなら仕方ねぇけどな?クク、」

チャキ、とスーツの懐から取り出した物が意味するのは脅しでも何でもない。この男が口を割らなくても撃つ気でいる。それが充分に伝わったのか男の喉元がごくりと生唾を嚥下した。

「……は、は。流石天下の高杉組……」

完全に声が震えている。平賀はまだかとスマホを出した時、着信が入る。丁度良かったと画面を見れば本来鳴る必要のないコールの主に嫌な予感がした。

「…どうした」

『ッすみ、ません……油断して…しまいました…』

息も絶え絶えの声に予感は的中したと喜ぶべきか否か。苦しげに言葉を詰まらせる武市は一度咳きこんでから手短に状況を伝えてきた。

「名前は無事か」

『…彼女の…店です…組の者を呼べと……ッ、怪我を、されているかも知れま……相手…』

「武市!」

電話は切れた。地面を叩きつける雨音に消されて最後までは聞き取れなかった。

「万斉、行っていいぜ」

「だが」

「平賀が来るまでコイツと遊んでることにすらァ」

「兄貴、俺が若頭のサポートをします。誰一人この部屋から逃しません」

オトリ役の舎弟も頷く。流石にこの人数を相手に二人を残していくのは後ろ髪が引けるが今はとにかく名前の店に向かいたい。

「………頼む」

アパートを飛び出した時、追い詰められているはずの男が笑い声を上げた。

「あの女、やはりアンタのだったのか!今頃どうしてるかなぁ!?」

玄関からでもゴツッと重い音が耳に届いた。恐らく晋助が蹴りを入れた音だろう。スマホの液晶を見た瞬間から嫌な予感がずっと続いている。最悪の結末を想像する度に強く水溜りを踏みながら無我夢中で走った。


title by 金星