07.あいつは深淵ばかり覗いてる
あの日以来、店には行っていない。様子が気掛かりではあったが安易に顔を合わせば高杉組との関係が露見してしまうし何より警察が見張っているとすると迂闊に近づくことはできない。そうさせたのは自分だ。もう会わない。これが丁度良い幕切れだった。己が側にいれば危険が及ぶ。ただ最後に見た悲しく傷ついた瞳が忘れられなかった。酷いと言う言葉は何度浴びてきたか分からない程だがその意味を一番痛感した。
『事情聴取したけどさ、彼女…無関係だったってよ。ネットでオーダーが来てあのマークのネックレスを作ってただけだ。今若い子に人気のモチーフってさ。要望があって駅ビルの店にも置いてひと月くらいだったらしい。良く売れるなぁとは思ってたみたいだけど』
「…そうか」
『まさか依頼されて作った物が麻薬組織のシンボルマークとは夢にも思わねぇよなぁ。一般人にはチケット代わりにされていたことも。それを知って随分とショックを受けていたそうだ』
「そうだろうな」
『…おいなんでそんなに他人事なんだよ。まさかお前あの子から身を引くとかじゃねぇよな?いくら一般人だからってそんなことするタマかよ』
「いや、丁度良かった。やはりカタギの女は面倒だ」
『…万斉、お前もしかして…本気、なのか』
それは別れると言うことに対してなのか、名前への気持ちがと言うことなのか…もうどうでも良い。そもそも付き合う付き合わないといった言葉さえ交わしたこともない。結局、数ヶ月に及んだこの関係は何だったのだろう。名前にとってはただ気紛れに来て身体を重ねるだけの男だと思っていたかも知れない。ならばここで終わらせても支障はない。
「とにかくあのネックレスを持つ奴が何か関係があるのは確かだ。俺は組織の方を探る」
『分かってるさ。彼女の方はそろそろこっちの監視も外れるだろう。それよりお嬢様は大丈夫か?クラスメイトがこんな事になってさぞかし心痛だろう』
「大丈夫だ、体調の良い日は学校に通っている」
『そうか。落ち着いたら三人で飲もう。それまでに彼女と仲直りしておく事だ、万斉』
返事できずにいるとじゃあな、と通話が切れた。それをポケットにしまいながら庭の前を通るとお嬢が一人、花に水をやっていた。心ここに在らずといった様子で手元は覚束ない。
「手伝おう」
「…うん」
シャワーホースを受け取り吹きかける様子を眺めている少女の視線の先には鈍色の指輪が輝いている。心は断ち切った筈なのに、情が移ったのかこれだけは外せなかった。
「…お嬢の言った通り、無関係だったそうだ」
何が、誰が、とは言わなくても意味は伝わったようで「そう…」と小さな返事が返ってきた。やがて水やりを終え片付けをしているとスーツの袖が控えめに引っ張られる。お嬢に向かい合い膝を折り見上げたその瞳からは今にも涙が溢れそうだった。
「ここに暮らしているみんなは…喧嘩してもどんな時も同じ空間にいられるでしょう?お互いを感じられる空気があって、そのうち仲直りできるけど、でも『外』にいる人とは…会いに行かなきゃ会えないから…」
「…彼女のことか?」
頷くと重量に従って涙が俺の手の甲に零れ落ちた。
「寂しいよ、万斉さん。お姉さん、一人でずっと…きっと後悔してる。作品を利用されて、傷付いた人がいるって知って…万斉さんを頼りたくても出来ないんだと思う」
「…俺は疑ったんだ。お前のように信じられなかった。そんな男が側にいたところで支えになれる筈がない」
「でも分かったでしょう?お姉さんのことがどれだけ大切なのか。本当は会って謝りたいんでしょ?」
「………それは」
お嬢の瞳はあまりに真っ直ぐにサングラスの奥を覗いていて、己の心の弱さを見透かされている気がした。
「万斉さんはここで守らなきゃいけないものがたくさんあって、考えることも多くて…だからわたしたちのことをまず心配してくれたんでしょ?でも抱え込まなくて大丈夫だから。みんなも、晋助もいるから。家族をもっと頼って欲しいの」
「………、」
「お姉さんには万斉さんしかいないから。きっと待ってるよ」
「お前の大事な『お嬢』にここまで言わせたんだ。素直になってやるってのが筋じゃねぇか」
振り向けば不敵な笑みを浮かべた晋助が立っていた。
「お前達兄妹は本当に人のプライベートに入って来るのが好きだな」
「んふふ、だって『家族』だから」
「……そうだな」
暫く振りにお嬢の悪戯っぽい、可愛らしい笑顔を見た。目の前で笑って欲しい。名前にも。例え…そう願うことで彼女の命が危険に晒されると分かっていても。
*
名前の店を訪れるとやはり閉まっていた。だがいつもと違うのは、ガラス窓が無残に割れているという点だった。
「これは…どうした?」
「……河上、さん?」
店内で破片を拾っていた名前は俺の姿を見て驚いて顔を上げた。顔色が悪いと一目で分かる。
「分からないの。上にいて、何か割れる音がして降りて来たらもう…石を投げられたみたい」
「悪戯か」
「責めているのかもね。知らなかったとは言え麻薬売買の斡旋をしていた訳だし…」
「だからと言って店を攻撃していい理由にはならないだろう。元々は薬を売る方、そしてそれを買い使った者が悪い」
「そうだけど、あのネックレスがなければ関わらずに済んだ子も大勢いるはずよ」
淡々と言いながらガラスの破片を拾い集めていく。丸まった背中の隣に腰を下ろし透明な塊から手を遠ざけた。
「素手で触るな。血を出して倒れるぞ」
「………ごめんなさい。河上さんはあの日それを教えてくれようとしたのに」
「気にするな。俺も暴れて、怖がらせて悪かった」
ゆっくりと首を振った。修理は手配済みですぐに来るそうだ。それにしても……。
「ちゃんと食ってるのか。それ以上痩せると死ぬぞ」
「大丈夫。最近寝付けなくて。色々あったからかしら。でも河上さんの顔が見れて安心した。わざわざありがとう、何とかやっていくから大丈夫よ」
微笑み、幾度となく荒れた店内の中心で言う。どう見ても大丈夫じゃないのは明らかだし一般人の女一人で対応出来る範囲を超えている。このままでは名前本人に嫌がらせが及ぶのも時間の問題だ。本当は不安で仕方ないだろう、罪悪感に押し潰されそうなんだろう。それなのに目の前にいる俺にさえ弱音を吐かないのはそういう人生だと受け入れてしまっているからなのか。そうなら余りにも愚かで、孤独で…抱きしめたい衝動に駆られた。
「一人で生きてきたから頼り方も分からないのか」
「…え?」
「素直になれ」
晋助に言われた言葉だ。この状況を変えるには、互いに一歩踏み出すことが必要だった。細い身体を抱き締めれば困惑した目で俺を見上げた。
「名前、俺と来い。一度全て捨てる覚悟があるなら」
「……いいの?私なんかを」
「俺が選んだ女をなんかと言うな」
躊躇った後に小さく頷き、そしてようやく俺の背に腕を回し抱きついてきた。
「あんなこと言ってしまったからもう会えないと思った…。貴方はいつも助けてくれたのに…、怖くて電話もできなかった」
「違う」
俺が、突き放したから。カタギの女だからといって向き合おうとしなかったからだ。コンコン、と店の扉がノックされる。背を向けているが気配で誰か想像がつく。
「生憎の定休日か。しかしこの惨状は穏やかじゃねぇなぁ」
「晋助、頼みがある」
「長居はするなよ。あくまで宿を貸すだけだ」
話が早い。この様子を見て状況を察したのだろう。
「貴方が…若頭、さん?」
名前が俺の腕から抜け出して晋助の方へ踏み出した。
「高杉組三代目若頭、高杉晋助だ」
「名字名前です、あの今回は…」
「細かいことはいい。万斉に任せる。屋敷で匿うには条件がある。一つ、中で知り得た情報は漏らすな。二つ…アイツの話し相手になってやってくれ。俺は暫く構ってられねぇ」
「お嬢様、ですね」
「それから…客からのメールリストを見せろ。何か情報があるかも知れねぇ」
「はい」
名前が晋助を2階の自室へ案内し荷物をまとめている間、やってきた業者の対応にあたった。ガラスを交換しようやく後片付けが済んだ頃には陽が傾き始めていた。名前は一人で降りてきた。
「晋助は?」
「行くところがあるって。河上さんは今夜は出なくていいと言ってたわ。…多分、私の監視をして欲しいんだと思う」
「まだ信用がないのは仕方がないだろうな。本来は外部の…しかもカタギの人間が出入りして良いところではない」
そうねと返し元通りになった店の鍵を閉めた名前の荷物を攫えばそんなに大きくもないバッグが二つだけ。しかも一つの中は商売道具だろう。女ならもっと大荷物でもいい筈だ。
「これだけか」
「必要ならまた後日取りに来るわ。一先ず最低限有ればいいから」
人通りの少ない裏道に入るとコツコツと二つの足音が響く。手配しておいた迎えの車が視界に入った頃、名前が呟いた。
「信じてくれて…迎えに来てくれてありがとう。これでもう何が起きても後悔しないわ」
「…まるで最期の言葉だな」
「いつ死ぬか分からないから言っておこうと思って」
「そんなに俺が弱く見えるか?」
え?と目を瞬かせた名前はくすりと笑った。
「違うわ、河上さんの事じゃなくて私のことよ。…ねえ、どうしてサングラスをかけているの?スーツにサングラスなんて目立つのに」
「目立った方が狙い易いだろう」
「一緒に歩く…若頭さんの為?」
「自分の為だ。目の前で若頭がやられるところなど見たくもないからな」
「そうやって組を守ってきたのね」
「結果的に守っているのは自分自身だろうな」
晋助は周りが守ってやらないといけないほど弱くない。万が一撃たれたとしても咄嗟に急所を避けるくらいの事はできる。それよりこうして歩いているだけで倒れてしまいそうな名前の隣に立つ方が余程神経を使う。万が一、この瞬間に高杉組の幹部である自分を狙われでもしたら危害が及ぶのは隣に歩いている人間だ。なるべく目立つように、こちらに銃口が向くように。組に入った時に教えられたことだ。
「お嬢様と仲良くなれるかしら」
「無駄な心配だな」
車に乗り込んだ名前は運転手に向かって丁寧に頭を下げた。武市は表情を崩さず挨拶をして前を向いたが鼻の下が伸びている。屋敷に着いてからも会う人間一人ひとりに暫く世話になることを伝えていた。離れに住むオヤジの部屋へは俺一人が赴くことになった。
「組に出入りするという事がどれだけ危険に晒すか解っているだろう。前列を忘れた訳じゃないだろうな」
「…はい」
「生半可に手を出せばお前の命も無いぞ」
それだけ言って許可が降りた。背筋が痺れ血液が凍る感覚。この世界の全ては行動と成果。一度この屋敷に入れた人間を離すつもりはないと笑う表情は晋助と良く似ていた。離れを後にしてお嬢の部屋を通れば三人分の楽しげな女の声が漏れ聞こえてくる。
「鉄壁と言われるあの河上さんを落とすなんて一体どんな手で誘惑したんスか!?やっぱりその美貌っスか!?」
「ゆ…誘惑だなんてそんなことできないわ」
「二人が仲直りしてほんとに嬉しい。万斉さんずっとあの指輪付けてるんだよ。お姉さんのこと大好きなんだね」
…別の意味で背中が痺れる。自分の話題で盛り上がる女子会の立ち聞きは野暮だ。仲良くなれるかと不安がっていた名前の横顔を頭の中で思い浮かべ、「ほらな、無駄な心配だっただろう」と誰に言うでもなく呟いてその場を立ち去った。
*
「…眠れないのか」
部屋の隅で小さなパーツを繋げている名前の後ろ姿は一つのおもちゃに夢中になった子どもの背中のようだ。時刻は夜中の2時。いくら何でもこんな時間にやる必要はない。
「目が冴えちゃって」
「細かい作業をしているからこそ目が冴えるんだろう。こっちに来い。眠らせてやる」
ソファに招くとすぐに片付けをして隣に座った名前の薄いカーディガンを肩から落とす。部屋着であるキャミソールの紐に指をかけると困惑した表情で離れようとするが今にも折れそうな細腕で何をしようと逃す訳がない。
「だめよ、」
「隣は留守だ」
そういう問題じゃないと制する唇を塞ぎながら衣服を剥ぎ肌を撫でればすぐに甘やかな吐息に変わっていく。
「…河上さん…」
「今日、店に行くまでの間…何度お前を思い出したか分からんが考えていたのは俺だけだったか」
「…急にそんなこと言わないで」
「お前を抱きたい」
「………ずるいわ」
それが了承の合図だと判断して胸の膨らみを揉み口に含んだり転がしたりと刺激していると焦ったく腰を浮かした反応を見て内心ほくそ笑む。相性はかなり良い方だ。そこには触れずに太腿や足の付け根をゆったりと撫でるだけに留めズボンを脱いだ。立ち上がりかけた自身を肌につければ察した名前の手に柔く握り込まれ上下に揺する。ソファから起き上がり、硬くはっきりと芯を持った先を何度か舌先で舐めてから口に含んだ。手は休まず扱きながら唾液を絡ませて滑らせる。じゅ、と湿った音が部屋に響き、形に沿って舌を這わせつつ引っ掛かりの部分を軽く吸われると意図せず肩が震え声が出るのを反射的に抑えた。
「意外だな。どんな男に仕込まれたんだ?」
「水を刺すようなこと言うのやめて」
「気になっただけだ。今まで何人の男がこれを見たのか」
傷跡がある脇腹に触れるとくすぐったかったのか触るなと視線で訴えてくる。女が奉仕している様を見下ろすのは別に珍しくもないし何とも思わないはずだが、自身のものを口一杯に咥え湿った瞳を向けてくる名前の表情は何とも言えないむず痒さと満足感があった。奉仕がこんなにも気持ちが良いものだとは初めて知った。だが「抱きたい」と言っておきながら押されてばかりでは面子が立たないというものだ。
「…っもういい」
「……気に入った?」
「いや」
押し倒し足を広げるとそこはもう滴りそうなほど溢れていた。ひくりと反応する蜜壺に間髪入れず口を付け吸い付いた。
「あぁっ…!」
突然与えられた強い刺激に高く悲鳴に似た声を上げ逃げようとするくびれを押さえつけ更に奥へ舌先を差し入れその度に溢れ出る愛液を音を立てて舐め上げる。
「大人しくされているよりする方が性に合ってる」
「やぁっ…!そこで話さないで…っ」
「普通に話してるだけだがな」
「っ、っも、無理…やめて……っ、」
「こういうことは初めてか」
「やめてってば…!ぁあ、」
細い腰が耐えられないというように沈み込むのを支え指を突き立てながら陰核ばかりを責め立てるとすぐに絶頂を迎えた。
「気に入ったか?」
「……っ、馬鹿じゃないの」
「力を加減しないと骨が折れそうだな。…来島が心配している。ここの女達は食が細すぎるとな」
話しながらそそり勃つ自身を埋め込んでいく。最奥に辿り着いた刺激に同じタイミングで目を閉じた。数秒置いて好きなところを突いてやる。久しぶりだからかナカは狭く、それでも今まで以上に愛液で溢れていた。動く度にじゅくじゅくといやらしい音が耳に届く。
「っ、あっ…ぁん…っ」
今更ながら腕を口に付けて肉を噛み必死に声を殺している名前の腕を外し髪を撫でる。薄く開いた瞳から涙が溢れた。
「跡になる。こっちにしろ」
「んっん……っ」
身体を起こし密着した状態で己の肩口に頭を付けさせる。下から揺さぶり突き上げながら肩に名前の乱れた呼吸と僅かな痛みを感じた。噛み癖でもあるのか。
「ああっ、河上さん…っ!」
「名前…っ」
しがみつき動きに合わせて腰をうねらせる華奢な身体の狭い中心が徐々に絶頂へと誘う。麻薬のような快楽に最後の方は名前に構うことなく欲望のままに打ちつけた。同時に何度目かの絶頂を迎え息を整え俯く顔を覗けばぐったりと力が抜け意識を飛ばしていた。ベッドに運び自分も隣に寝転ぶことに酷く違和感があった。行為の後に女と横になったことはなくさっさとその場を後にするのが普通だった。高杉組に招き入れ自分の部屋に部外者を置く判断をした自分に今更ながら驚き、しかしはっきりと自覚する。腕の中で安らかに眠る名前の存在が、今となってはいつからか判らないほど前から特別になっていたのだと。『素直になれ』……頭の中で晋助がまたそう言って、喉の奥で笑った。
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