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12.歯がゆさが連なってほどけて

「…全く、若い女子がそんな所に切り傷とは世も末だな。幸い縫う程ではないが」

「ありがとうございました。あの……お金は…」

「高杉から貰う。気にするな」

高杉って、誰だろう。わたしをここに連れて来てくれたのは河上さんという人なのに。黒いスーツにサングラスの、表情がわからない人。有無を言わさず『乗れ』と命令され連れてこられたのは個人でやっているような小さな病院だった。保険証も何も要らなくて待合室さえない。通常ならとっくに閉まっているであろうこんな夜の時間帯でも当たり前のように見てくれた。でも桂先生と呼ばれた長髪の綺麗な男の人は何やら怒っている。

「何があったか知らんが見た感じ『外』の娘だろう。こんな所に二度と来るんじゃないぞ」

「…はい。ごめんなさい」

「顔を上げろ、お前を責めている訳じゃない。兄が気になるか?」

「…………心配だけど、大丈夫、です」

ぎゅっと拳を握った。大丈夫なんかじゃない。心配で心配で、今すぐにでもあの倉庫に戻りたい。でも何もできない。それが歯痒くて悔しくてどうしようもなく不安だった。お兄ちゃんはいつもわたしを守ってくれたのに。施設に入れようとする親戚から。子ども二人だけで暮らすことを反対する大人たちから。いつだって味方だった。一緒にいた。そんなお兄ちゃんが大好きだった。わたしは神威から守ることもできなかった。ただ一人で逃げてきた。

「案ずるな。高杉組が付いていれば大丈夫だろう。すぐに帰ってくるさ」

「…あの……高杉組って、なんですか?」

さっきも聞いた高杉という言葉。桂先生は診察室の入り口に控えている武市さんをちらりと見た。視線で恐らく何かやり取りをして、「ここまで来たなら知っている方がいいだろう」と向き直った。

「この辺を取り仕切る極道一家の名前だ。ウチは所謂闇医者……表立って病院にかかれないような連中を相手にしている。お前がこの病院に連れてこられたという事は奴らと何らかの繋がりを持ったということだ。直接関わっていなくとも」

直接という言葉にずしんと重い物が心臓の上に乗っかってきた気がした。いくら遅刻魔でサボり魔で、不良とかリーダーとか言われていてるお兄ちゃんだってただの高校生。警察と顔見知りではあるけど極道一家なんて危険な人達と関わりを持つことなんてあるはずない。…なのにすごく嫌な予感がするのは、わたしが一般の人が入れるはずのない病院の椅子に座っているから。どうしてお兄ちゃんのスマホに河上さんの連絡先が入っていたんだろう。どうして発信履歴の一番上にそれがあったんだろう。わたしは選択を間違えてしまったのだろうか……。桂先生は動揺して視線を彷徨わせたわたしの肩をぽんと叩いた。

「元気を出せ。とにかく今夜は家に帰って寝ることだ。しっかりと睡眠を取って、栄養のある物を食べると良い。ほうら〜エリザベスだよぉ〜」

ひょこっと目の前に現れた白いもふもふしたパペットのような物が桂さんの声に連動して動いている。ペンギンみたいな、鳥みたいな少し間抜けな顔。

「…おかしいな、奴の妹ならこれですぐ笑顔になるんだが。まぁあの子ももう一般の病院に通っているからあまり会わんのだがな」

「桂先生は内科の先生なんですか?」

「俺の専門は小児科だ」

「え」

「祖父が開業してから色々あってな。今じゃ抗争で怪我をしたなんていうむさ苦しい馬鹿共しか来ない。頭の方は小児科にかかるレベルの子どものような連中ばかりだがな」

「違いありませんなぁ!」

武市さんが大きな笑い声をあげた。桂さんも笑ってる。…今のは笑うような内容だった?話が深すぎてついていけない。

「そて…そろそろ参りましょう。夜更かしはお肌の大敵ですぞ」

「はい。桂先生、ありがとうございました」

「大事にな。家族も勿論だが、自分自身も」

含みを持った言い方に振り返ると桂先生は立ち上がって白衣を脱ぐところだった。男の人にしては綺麗で長い黒髪が嫋やかに揺れていた。来た時と同じ真っ黒な車の後部座席に乗ると、隣にわたしの通学鞄が置かれていた。確か倉庫に連れ去られた時に取られたはず。

「忘れ物ですよ」

与えられた情報はそれだけだった。きっと倉庫に向かった河上さんの部下のような人達が拾ってくれたんだろうなと思った。それならもうあの場所での出来事は片付いたと言うことなんだろう。でも肝心なお兄ちゃんはどうなったの?神威は?あんなに大勢の人の喧嘩をどうやって沈めたの?…それを武市さんに聞いたところで知るはずもない。運転手であるこの人は現場を見ていないしただわたしを病院と家に運んでくれているだけだから。それに、何か聞いた所で望むような返答を貰えないだろう。しばらくしてようやく見慣れたマンションに着いた。当然だけど、わたしたちが住む部屋は真っ暗だった。

「武市さん、ありがとうございました。お世話になりました」

「こちらこそ可愛らしいお客様とドライブをさせて頂いてありがとうございました。もし万が一に次の機会があるならば…『あの子』と友達になってあげて下さいね。貴女とは気が合いそうなので」

あの子?桂先生が言っていた人と同一人物なのだろうか。頷くと人の良さそうな笑顔を見せて車は音もなく走り出した。もうわからない。きっと二度と会うことなんてない。次は、ない。桂先生も河上さんもみんな良い人だったけど、もう関わっちゃいけない。
エレベーターを上がって4階の角部屋に入ればしんと静まり返っていた。やっと帰ってこれた。とても疲れたし、とても怖かった。通学バッグに入っていた自分のスマホを操作してお兄ちゃんにメッセージを打った。

『今、帰ってきたよ。お兄ちゃん大丈夫?無事だよね?』

送信ボタンを押した途端、制服のポケットの中から短いバイブ音がした。音なんてほとんど無いはずなのに何故か部屋に響いて、恐ろしかった。

「……そうだよね…見るはずないよね」

お兄ちゃんのスマホはわたしが持っているんだもん。届くはずない。それでも声が聞きたい。体温に触れたい。大丈夫ってヘラヘラした顔で帰ってきて欲しい。早く。もう怪我しても怒らないから。何してたのって聞かないから。だから早く帰ってきてよ。

「お兄ちゃんのバカ………」

家から出るなと強く言われた言葉を心の中で反復した。お兄ちゃんを探しに行くことなんてできない。できることはただここで待つだけ。結局日付けが変わっても、朝方になっても玄関のドアは開かれることはなく、わたしは二つのスマホを抱きしめて眠りについた。





「ごめんな」

桂先生に手当てしてもらった首元を撫でる感覚がして薄らと目を開けた。ぐずぐずに疲れた身体じゃ起き上がれなくて、自分の部屋の天井をぼんやりと見た。少し視線を移すと白いふわふわ髪の男の人が立っていた。その人はわたしに背を向けていて、机の上に置いてあったはずの書類を手に持っていた。高校受験の願書。結局言い出せなくてまだ伝えてなかった。なんで見つけちゃうの。こんな形で知られるはずじゃなかったのに。

「そっか。そうだよな。名前ももう高校生になるんだもんな」

その声は変に落ち着いていた。どんな表情をしているのかわからない。呼びたいのに喉がカラカラで声が出なくて、金縛りにあったみたいに動けなかった。「なぁ名前」その書類に視線を落としたままわたしの名前を呼んだ次の瞬間、夢かもしれないと思うほど現実味のない言葉を耳にした。

「俺たち、離れよっか」

振り向いたお兄ちゃんは包帯だらけだった。わたしの首元と同じ手当ての仕方。あの後お兄ちゃんも桂先生のところに行ったんだろうと予想がついた。返事なんてできるはずもなくて、ただ人形のように固まって目を合わせることしかできないわたしを見下ろして、独り言のように呟いた。

「こんな兄貴でほんとごめんな。自分でも情けねぇけど、名前のこと守るにはこうすんのが一番良いから」

「おに……」

「幸せになれよ」

リサイクルショップで買った安いベッドが軋む音がした。わたしの顔を覗き込むお兄ちゃんの表情は傷が痛いのか高校受験のことを黙っていたことに腹を立ててるのか、多分どちらでも無い今まで見たことないくらい悲しい顔をしていた。端が切れて血が滲んだまま固まった唇がわたしの唇に触れて、離れていく。パタンと扉が閉まってその背中が見えなくなるまで閉じることもできなかった目の端から、一晩中我慢していた涙が伝って落ちた。おはようなのかおやすみなのかわからない。おまじないだったのかもわからない。ただこれがわたしたち兄妹の最後のキスだった。

title by 金星