12.ほんとうは、
「うわっ…何その頭どーしたの。なに、タカスギさんも喧嘩するの」
「ううん、ぼーっとしてたら扉の角にぶつけちゃっただけ」
「あー…鈍臭そうだもんなぁ」
坂田さんとお友達になってからたまにこうして会う時間が楽しみになっていた。いつの間にか会合の時間より早く来てくれたり、集まりがなくても気紛れに現れるようになった。そして迎えの車が来るまで裏門の端にある芝生で座ってお喋りに付き合ってくれる。思えば、初めての男友達だ。『外』の人間だからか、それとものんびりした雰囲気のせいか、この人には自然と本音を言えた。
「妹さん元気?」
「元気元気。最近甘えてきたりしてすっげー可愛いよ。前から可愛いけど」
「仲良しでいいね。そういえば坂田さん二年生だったよね。進路は?」
「あー全然。勉強すんのも働くのも嫌だわ。つーかまず進級がヤバイ」
「じゃあうちの若衆になる?住み込みだけど」
「ぜってー嫌」
「あはは、みんな仲良しで楽しいのに」
「『アットホームで楽しい職場です』って謳い文句付けてくる所なんてロクな職場じゃねーよ」
「そうかも」
いくら仲良くて楽しくても極道なんて嫌だよね。坂田さんは妹さんのことが大好きだから、離れたらきっと寂しがるだろうな、お互いに。妹さんはどんな人なのか分からないけどこんなに溺愛されるくらいだから本当に可愛くて良い子なんだろうな。想像すると楽しいな。ニコニコしながら考えていると少し眉を寄せた坂田さんの声が低くなった。
「…タカスギさんさ、なんかあった?ここんとこ会う度に元気なくなってる感じがする」
「…元気、だけど…?」
今すごく笑ってたのに元気がないなんて不思議なことを言う人だ。でも心の奥でつかえているものがあるのは本当だった。言っても、いいかな。坂田さんになら。
「…実はね、許嫁の方がいるんだけど…その人のやりたいことを応援したいけど、おうちを継がなきゃいけなくてどうしたらいいかなって」
「は?許嫁?さすがお嬢様は次元が違うわ…。でもさ、そいつも本当にやりたい事だったらアンタに用意して貰わなくても家とか関係なく自分の道を作ると思うぜ。アンタはちょっと背中押してやればいーんだよ。つーか、多分それじゃねーよ」
「それじゃねーって?」
「元気ない理由。兄ちゃんのことだろ」
鴨太郎さんのことを気にしているのは本当だった。でも晋助のことだって同じくらい心を占めている。坂田さんにはどうしてわかってしまうんだろう。たまにしか会わないのに。毎日一緒にいる舎弟さん達でさえこんなことに気づかないのに。
「…坂田さんは、先生とかカウンセラーとか向いてるんじゃないかな」
「誰がそんなめんどくせー仕事するかよ」
「でも、やりたいことがありそうだね」
「…そーだな。ちょっと気になってる奴はいるかな。こんな俺の面倒見てやるって物好きで偉そうでうるせーオッサンなんだけど」
「きっとその人が導いてくれるよ」
人との縁は大切にしなさいってお父さんが言ってた。だから鴨太郎さんとの縁談も、鴨太郎さんが好意を寄せてくれたことも全部大切にしなきゃいけないわたしのご縁だ。不義理をするつもりは全くない。でもね心は、心だけはまだ置いてけぼりなの。
「…ほんとうは、晋助のことが一番好きで、特別で…大切なの。きっと高校を卒業したらあの人と籍を入れることになると思う。ずっと一緒にいたから離れるのがこわい。そのうち忘れられちゃうかもしれない」
初めて人に本音を言った気がする。いつも見守ってくれている万斉さんにさえも、ここまではっきりと晋助のことが好きだと言葉にしたことはなかった。
「そっか、そりゃ怖いよな」
「…うん」
「それ一回そのまま兄ちゃんに言ってみろ。きっと欲しい言葉をくれるぜ」
「…どうしてわかるの?」
「俺も『お兄ちゃん』だから」
ぽんぽんと頭を撫でた手つきは本当にお兄ちゃんが妹にするようなそれだった。いつも妹さんにしてるんだろうな。毎日一緒にいられて羨ましいと思う。でも、坂田さんも妹さんも2人なりの悩みがあって、苦しんでる。血の繋がりがあるからこそ。
「坂田さん、ありがとう」
ちょうど黒い車が裏門に停まるのが目に入った。それがいつも別れの合図だった。
「またな」
坂田さんは立ち上がってバッグを手に取った。今日も空っぽのお弁当箱だけが入っているその中から、からんと軽い音が聞こえた。
*
「剥がすぞ」
「うん」
お風呂上がりに額の処置をしてくれるのは大抵晋助だ。寝る準備をして部屋に行くとガーゼを替えて傷の具合いを見てくれる。彼がお仕事でいないときはまた子さんにお願いするか自分で鏡を見ながらやるのだけど、うまくいかない事が多い。鏡って、見てると左右がよくわからなくなるんだよなぁ。
「そろそろガーゼも外していいな」
言われて鏡を見てみると傷があったところは赤く太い線が通ってはいるけど順調に治ってきていた。
「跡残らないといいなぁ」
「ドジってできた傷だからな」
「う、思い出させないで」
晋助は、最近屋敷にいる時間が増えた。特にこうしてわたしと夜一緒に過ごす時間を割いているように感じる。もちろん、わたしが眠ったあとに出かけて行くこともある。様子はいつも通り。からかったり優しくしたり。2人で過ごすこの時間が好きで、大切だった。わたしだけを見てくれる。目を合わせて、時折笑いかけてくれるその瞬間があるからここまでやってこれた。これからもこの思い出を一生忘れずに生きていく。…でも、晋助はわたしがいなくなってもきっと平気。今まで通りこの広いお屋敷で暮らして、舎弟のみんなとお仕事をしていく。寂しがったりしない。だって若頭だから。そのうちわたしがいないことが当たり前になっていって、忘れちゃうかもしれない。それがどうしても怖い。
「…晋助、わたしが伊東のおうちにお嫁に行っても忘れないでね」
「なんだ急に」
「忘れられちゃったらさみしいから念のため」
「何年面倒見てると思ってんだ、忘れるわけねぇだろう」
それもこんな手のかかる女を、と続けて、晋助の手がわたしの髪を撫でた。ふと、その手が動きを止める。見上げると真剣な顔をした晋助がわたしを見下ろしていた。皮のソファが擦れる音がして、何故か嫌な予感がした。
「…名前、お前はこの家を出ろ」
「出るよ?高校卒業したら、伊東のおうちに」
「それまでにだ。いいか、高杉の名を捨てろ。お前は……吉田に戻れ」
「……!」
吉田。その名が晋助の口から出たということは、すべての終わりを意味していた。
「結納までに事を済ませる。伊東組を同盟関係から傘下にする。実質の解散だ。あの次男も組から追い出す」
あ、終わっちゃった。わたしのゆめのような日々。
呆気なく、突然に。いつから?晋助はいつから知ってたの?わたしが、偽物だって。晋助が言ってる言葉の意味が理解できない。伊東組を解散させるってどういうこと、ううんそれより…。
「偽物だってわかってて、一緒にいてくれたの?」
「偽物?」
「わたし、ほんとは晋助の妹じゃない」
「それは偽物とは言わねぇよ。お前は、親父の言いつけをちゃんと守っただけだろ」
「……晋助、わたし」
「名前、お前が本当に伊東と結婚したいなら組との関係を切った後で好きにしていい。とにかく今は、」
「だめ、」
「…何をそんなに拘ってる」
「わたし、このままでいいの。高杉のまま鴨太郎さんと結婚してもいい。だってそうじゃないと」
晋助との関係が、完全に切れてしまう。
家族でなくなる。それが一番恐ろしい。
「お前が高杉でいると俺が困るんだよ。…お前に触れない」
晋助の手が肩に触れた瞬間、びくりと身体が震えた。いつも隙間もないくらいくっついて寝ていたのにもう触れることさえいけないことのような気がした。それができたのは、兄妹だからでしょう。ゆめから覚めた今、ここにいるのは何の関係も持たないただの男と女だ。その響きの、なんと脆いことか。
「こわいよ、晋助…。家族じゃなくなったら、わたしたちどうなるの?何も残らない、そんなの、いや」
「名前、俺はお前が妹だから優しかったんじゃねぇ。俺はずっとお前を女として見てた」
「……だめ、言わないで」
温かい手が、頬に触れる。いつの間にか流れていた涙が晋助の指を濡らした。ああ、あの目だ。やめて、そんな目で見ないで。戻れなくなる。何年もかけて築いてきたこの関係が、形を失くす。
「名前、好きだ」
ズキン。胸が、押し潰れたみたいに息ができない。晋助の唇が、わたしを欲しいと言う。距離が近づく。こんなの、わたしが望んだ幸せじゃない。遠くから晋助の幸せを願うだけで良かった。恋人になりたいなんてゆめの先のゆめだ、おそろしいほどの、ひかり。眩しくて、一瞬で、消えてしまう。こわい。
「おにいちゃん……やめて…」
震える声で発した言葉に、晋助の動きが一瞬止まった。必死で腕を抜け出して、部屋を飛び出した。
どうすればいいの。どうしたらまた戻れるの?頭が働かない。何も考えられない。ひとりになりたい。
自分の部屋にいれば晋助が来るかもしれない。裸足なのも構わずに裏庭へ降りた。記憶を頼りに暗闇を走って、いつか晋助と2人で抜け出した勝手口を開けて外に出た。息が上がって喉が痛い。胸が苦しい。視界が歪む。でも、少しでも晋助から遠くに離れたかった。
ひとりで屋敷の外を歩いたのは初めてだった。
車通りはない。ぽつぽつと光る外灯と屋敷の灯り。しばらく歩いて冷静になってから戻ろう。ただ身体の方は早くも限界だった。心臓がおかしいくらいに音を立てている。涙で視界がにじむ。わたし、今日、お兄ちゃんを失った。
屋敷の塀を伝って歩くうち、黒塗りの車が一台停まっているのが見えた。うちの車じゃない。高杉組のナンバーは全部覚えてる。こんな時間にお客様?ただの路駐にしてはこんな裏庭の方の、しかも屋敷の横につけるのが不自然だった。
夜道の雰囲気と相まってそのうち恐ろしくなってきて、来た道を戻ろうとした時だった。バタンとドアを閉める音がした。振り向けば車から男が2人降りてきていた。
「おいで」
野良猫に言うかのようにいやに粘っこい声だった。弾かれたように走り出す。だけどもう歩きすぎた身体では逃げ切れないことは明らかだった。すぐに追いついた男の手がわたしの腕を掴んで思い切り引っ張った。薄い部屋着を身に付けた身体がアスファルトに打ち付けられてあちこちが擦り切れて血が滲む。
「これはこれは、偵察に来たつもりが思わぬエサが舞い込んで来たなぁ」
スーツ姿の小太りの男はニヤニヤと笑いながらわたしの身体を舐めるように見た。危険。晋助の知り合いじゃない。知り合いだとしても友好な関係じゃないことは明らかだった。逃げなきゃ。早く。
「離して」
「人を呼ばれる前に行くとしよう。オイ、連れて行け」
「大人しくしろ」
「やめて!」
もう一人の若い男が車に連れ込もうとする。だめ、誘拐なんてされたらみんなに迷惑がかかる。当然だけどこんな時間に外を歩いている人なんていなくて、わたしが屋敷の外に出たことを知る人なんて誰もいない。大声をあげようとすると煙草くさい手で口を塞がれた。必死に抵抗しているうちに痺れを切らしたのか屋敷の塀に頭を打ちつけられた。ドロリ、額から生暖かいものが流れ落ちる。傷が開いたんだ、と理解すると同時に意識を失った。
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