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10.わるいこでいようわたしたち

……夜中、ふと目が覚めた。
隣を見ると名前が腕の中で眠っていた。ダブルサイズのベッドは二人で寝ても余裕があるのにぴったりと寄り添って目を閉じていた。顔にかかる髪を撫でると現れたのは細い首筋。そこにはまだ新しい赤い跡。自分が付けたものだ。ぞく、と心の奥を支配するのは欲しいものが手に入った満足感とほんの少しの…不安。
いつか……この夢から目が覚めて、名前が俺を好きになったことを後悔する日が来るかも知れない。この夜を軽蔑し、忘れたい過去だと思う時が来るかも知れない。決して軽い気持ちでしたんじゃない。お互いが初めてな訳ではないしそんなことはこの際大きな問題ではない。わざわざこんな所に連れてきてまで俺が欲しかったのは…………。

バルコニーに出て煙草に火をつける。煙は風に流され暗闇に消えていく。名前の気持ちがこんな風に離れて行かなければいいと思わずにはいられない。あんなにも焦がれていた存在が手に入った途端、今度は渦巻く不安と焦燥に駆られる。安心なんかしていられない。兄妹という枠を飛び越えたこの夜、新たに思うことがあった。
部屋に戻りベッドを覗くと愛おしい女の姿があった。寝顔は幼い頃から全く変わらない。7つ違いの妹。共働きで忙しい親に代わって自分が育てたようなものだ。何よりも大切に、誰よりも愛情を持って。そして自らこの関係を壊し茨の道に引き摺り込んだ。薄着でフラフラと夜に出歩いて変な男に引っ掛かるくらいなら自分が……なんて、変な男の方がまだマシかも知れない。こんな風に歪んだ愛情を向けるなら。こんな守り方、道理に外れている。唇に触れると起こしてしまったようで目を開けた。

「……お…にい」

「…馬鹿」

自嘲気味に笑いもう一度その唇に口付ける。

「簡単に俺の手に落ちてくるんじゃねぇよ」

お前が拒否してくれれば…他の誰かと幸せになってくれればこんな風に希望なんて持たなかったのに。一度震えるような幸福感を知ってしまえば失うのが恐ろしくなる。手離せるかわからない。余裕ぶって大人だなんだって言う癖に、名前を失う事を想像すると本当は怖くて堪らない。

「…眠れないの、?」

「いや、勿体ねぇと思ってな」

「なにが?」

「夜が明けるのが」

「…そうだね」

起き上がった名前は傍らにあったキャミソールとショートパンツを身に付けた。細い脚を惜し気もなく晒すのは最早コイツの特技とも言える。バルコニーに出ようとする肩に備え付けのナイトウェアを掛けてやる。

「寒ぃぞ、外」

「うん。ありがとう」

腕を通したワンピースタイプのナイトウェアのボタンを締めてやっているとふと名前が顔を上げた。…どう見ても大人の女の顔だ。いつのまにこんな成長したんだか。さっきまで手の中にあったこの身体も、男を喜ばせる魅力をこれでもかと放っていた。思い出して目眩がする。今までどんな男がこの肌に触れて来たのか想像しようとする頭を振り切るためにまた煙草に火を付けた。

「ねぇ朝日見よう。一緒に」

「ああ」

バルコニーのテーブルと椅子ではなく、ウッドデッキにそのまま腰を落とす。隣に座ると名前が少し寄り添ってきた。

「寒くない?」

「ああ」

「…海って夜見るとちょっと怖いね」

「そうだな」

情事の余韻が距離感を躊躇わせている。お互いに少し素っ気なく言葉を交わした。

「でも……あの朝日を知ってるから、大丈夫だよ」

初めてキスをした日の光景は俺の記憶にもはっきりと残っている。あの日の感動を忘れることはないだろう。

「十四郎」

これまで何度も兄と呼んできた彼女から発せられる自分の名前を呼ばれる度に鳥肌が立ち、そして狂おしいほどの激情が沸いて出る。誤魔化すように煙を吐いた。

「後悔してる?」

「してるわけねぇだろう、俺はお前の方が」

「後悔すると思う?こんなに好きなのに」

強い眼差しが突き刺さる。覚悟を決めた時に見せるその瞳に昔から弱かった。県外のいいとこの大学に受かったとき、周囲の反対を押し切って自宅から通える普通の私立大に行くことを決めた時も、こんな眼をしてた。

「十四郎が警察学校に入った時…すごく寂しかった。寂しくて…叶わないなら好きなことも忘れようと思った。その頃からかな。男と付き合って別れての繰り返し」

「お前そん時、」

「高校入ったばっかだね」

「……マジかよ」

なんか好きになれなくて、と言って膝を曲げて顔を埋めた。その身体を抱き寄せる。顔を上げろと指示して視線が絡む。

「だからね、好きって思い合えることは凄いことだと思う。後悔なんてしない。するはずないよ」

「…名前」

「お兄ちゃんは真面目だからさ、わたしのこと心配してくれてるんだろうけど…そんなに弱くないから。責任とかそういうの、考えなくていいよ。だってもう大人だし。自分の意思でここにいるんだから」

「そうか」

「……ずっと呼んできたのに、今はもう…お兄ちゃんて呼ぶ方が違和感あるね」

微笑みながら紡がれる艶のある声と言葉に馬鹿みたいに煽られる。誘われるままにワンピースのボタンに指を掛けると手が冷たかったらしく身体を揺らして押し返してきた。

「あ、ちょっ、と」

「日の出までまだ少し時間あるだろ」

「…露天風呂…お湯入れ直す?」

「そうだな」

立ち上がろうとした名前を止め檜でできた浴槽に湯を張るまでの間、ゆっくりと服を脱がせ合いながら唇を貪った。






「うっ…………………まぁ……!!」

「美味しいと言え」

「おいっっしい…!!!」

馬鹿みたいに美味しい美味しいしか言えなくなかったわたしが連れて来られたのは鰻屋。チェックアウトの時間ギリギリまで滞在していたホテルを出て、帰るかと思ったらせっかく来たんだからってなんか知らないけどめちゃくちゃ有名な所を予約してくれていたらしく、静かで落ち着いた料亭のようなお店で慣れないながらも十四郎と向かい合って小声で喋りながら待った後に出てきたのが特上の鰻重。これがもう、なんていうかもう、

「パリッ!ふわっ、とろりんって感じ!」

「分かったから落ち着いて食えよ」

語彙力を失った言い方に流石に十四郎も笑いながら箸を口に運ぶ。その食べっぷりからして相当気に入ったな。

「鰻ってあんま食べる機会ないけどそれがまた特別感あっていいよねぇ」

「明日からまた頑張れよ、就活」

「うっ、やめてよまだ終わってないから。今日を終えるまでが休みだから!」

「…俺も暫く忙しくなるかも知れねぇ。あのヤクザ達が大人しくしてりゃあいいんだけどな」

や、ヤクザってこの時代にもまだ本物がいるんだ。映画の中だけだと思ってた。そう考えるとわたしは随分と平和に生きてるもんだなぁ。色々聞きたかったけどこんな素敵な店で話すことじゃないからやめておく。

「ビール飲みたい」

「運転手の前で言うなよ」

「あとでコンビニ寄って」

「お前って本当しょーがねぇな」

「今更でしょ?」

「ったく」

店を出て帰る前に寄ったコンビニで二人分の飲み物を買って出た時にスマホに着信があった。北大路くんだ。通話しながら外の喫煙スペースで煙草を咥えた十四郎の所まで歩いていく。今度の卒業生の就活セミナーの件だ。待ち合わせの場所と時間を約束してると隣でライターの火を付ける音がした。ふとそちらを見ると…なんか不機嫌な顔して煙を吸っている。じゃあね、と通話を切ってスマホをしまった。

「待った?」

「待ってねぇよ」

「怒ってる?嫉妬?」

「違ぇ。お前、サバサバしてるし男友達多いだろうからな」

「嫉妬じゃん」

話しながら車に乗り込む。コンビニの袋から缶コーヒーを出して運転席のドリンクホルダーに入れようとするとその手を引っ張られて十四郎の太腿の上に上半身ごと倒れた。

「何これ。膝枕?」

無言で見下ろされて片手で頬っぺたをぶにっと潰される。タコみたいな変な顔してるであろうわたしに外から隠すようにキスしてきた。いや多分これ見えてんじゃないかな。そのうち頬から手が離れたと思ったら今度は鼻を摘まれた。鼻!?と同時にぐっと唇が深く押しつけられる。えっ嘘、ちょっと、息できな…!

「ぅっ、ふ、っんー!んん!」

バタバタ暴れて死という文字が見えてきた頃にようやく解放された。

「ぷはぁっ!はっ、はぁっ!な、んなの!?」

死ぬかと思った!マジで!

「アホ。んな真っ赤な顔してっとまた全部脱がすぞ」

「っ!もー本当なんなの!?」

起き上がってシートベルトを付けていると隣で缶コーヒーを開ける音がした。車が走り出す。とにかく熱くて助手席の窓を開けて風を入れた。そっぽ向いてお茶のペットボトルのキャップを捻る。

「ビール飲むんじゃなかったのかよ」

「一人で飲んでもつまんない」

帰りはお互いに口数が少なかった。でも…信号で止まるたびに十四郎が脚を撫でたり髪に触ったり肩に触れたりした。行きの時とは明らかに違う温度だった。わたしも甘えるように寄り添って、家に着いて車から降りる前に、初めて自分から十四郎にキスをした。




title by 花洩