10.こころは逃げきれない
「身体の具合いはどうだい」
「最近は良くなりました。お散歩に行ったり、花に触れています」
「伊東の次男とも仲良くしているか」
「はい。とても良くしていただいています」
「それは良いことだ」
「……お父様」
「名前、おいで」
お父様の座る椅子へ近づく。頬を撫でられ、指が髪をさらう。晋助の触り方を思い出した。でもわたしを見る目の温度は正反対だ。
「良く似ている。綺麗だよ」
「………」
誰に、とは言わない。でもお互いに思い浮かぶ顔は同じ。その人を想いお父様は目を閉じる。僅かに滲むのは後悔か懺悔か、それとも他の感情なのか…わたしには分からない。
「晋助とも変わらず仲良くしているか」
「…はい」
「昨夜、下のモンを庇って怪我をしたそうだ。クク、あの晋助がまさかそこまでできるようになったとはな」
低く笑う声。親子だと思う、笑い方ひとつでさえも。でも、晋助はもっと優しく笑う。もっとずっと綺麗で、何よりも……甘い。
「お前のお陰で晋助は人間らしい感情を持つことができた。仲間意識や義理というものはここでは欠いてはいけないものだからね。本来それを教えるのは『あの男』の筈だったのだが…。お前をここに置いたことは正解だった」
指が、顎にかかる。穏やかに笑うお父様の底知れない感情がじわじわと指を伝って全身に流れてきそうで、時に怖くなる。この家に来てからというものずっとこうして『優しく』してくれている。この表情を崩したところを見たことがない。だからこそ………恐ろしい。
「ここに来てもう10年か。本当に『あの事』は言わなくていいのか?」
「……はい」
「近いうちにお前にはここを出てもらうことになる」
それまで、穏やかに過ごしなさい。
右手を取られる。お父様の着物が擦れてしゅる、と小さく音を立てた。薄く弧を描いた口元が、わたしの手の甲に触れた。
*
「離れに行ってたのか」
「……万斉さん」
「顔色が優れないな」
庭に出て何をするでもなく池を眺めていると万斉さんが来て隣に腰を下ろした。高杉家に来てから月に一度は離れに住むお父様と2人だけで話す時間が設けられている。その度に万斉さんはわたしのところに来て寄り添ってくれる。
「オヤジと話すのは緊張するか」
「…万斉さん、わたし……救われたいなんて思ったことない。本当だよ。だけど晋助やみんなには…幸せになって欲しいと思うの」
「…名前」
「晋助、怪我したって聞いた。大丈夫かな」
「心配するな、ただのかすり傷だ。怪我なんて言うまでもない程度だ」
「…そう」
そうやってしばらく2人並んで池の中を泳ぐ鯉を眺めていた。わたしがここでできること、それはわたしが一番よくわかっている。お父様のために、晋助のために、みんなのために、やれることをする。そうしてみんなの幸せが巡って最後の最後にわたしの幸せになると信じてる。それまでは迷わないことに決めたの。
「…あ、そうだ。鷹久さんのお見舞いに行くんだった」
「そうか。気をつけてな」
長い間しゃがんでいたから立ちくらみがしないようにゆっくりと立ち上がるのを支えてくれて、晋助よりもしっかりとした大きな手が頭を撫でた。駐車場で待っていた武市さんと合流すると反対側から晋助が乗り込んできた。長い足を組んでシートに深く座る。
「晋助、どうしたの?」
「俺も用事がある」
「病院に?具合悪いの?もしかして昨日の怪我?痛い?」
「違ぇよ」
矢継ぎ早に問い掛けると誰から聞いたんだそんなこと、と睨まれる。万斉さんじゃないよと返しておいた。
「ハッハッハッ。仲良くドライブと行きましょうか」
武市さんは楽しそうに言って車を出した。わたしは隣に座る晋助の骨張った手をじっと見つめた。さっきわたしに触れたあの手を思い出して、自分の手を重ねた。するといつものように握ってくれた。
「晋助とお父様の手、似てる」
「……そうか。何を話したんだ」
「鴨太郎さんと仲良くしているかって」
「まぁ、仲は良いだろうな。キス程度で土下座するくらいには」
「そんなことお父様には言わないよ」
「胡散臭いほど真面目な優男だな。結構なこって」
「…ほんと、真面目な人だよね」
病院で下ろしてもらうと「若頭を送ってまた来ます」と言って車は去っていった。ヤクザの若頭。鴨太郎さんはまだ若頭にもなっていないけれど、きっとわたしとの婚姻と同時に若頭に上がるはず。そして伊東組の跡を継ぐのだろう。そうすれば完全に夜の世界を生きる人になる。いつ命を落としてもおかしくない。
前に鷹久さんが言っていた、鴨太郎さんのやりたいことってなんだろう。どうしても本人から聞かなければいけない気がした。これからも自分の気持ちを押し殺してヤクザの仕事をしていくのだろうか。死ぬまでずっと。それは夜の世界のことは何にも分からないわたしでさえ、想像するだけで気が遠くなるようなことだと思った。
*
考え事をしているときはだいたい何か失敗してしまう。そう例えば、今。お風呂上がりの脱衣所で頭の高さより少し下にある棚を開けてボディクリームを出した。その時にうっかり棚の扉を開けっぱなしにしていたことがその失敗のうちの一つ。
昼間お父様と話してからずっと頭がぼうっとしていた。晋助と鴨太郎さんのことを考えているとクリームの容器が手から滑り床に落としてしまった。そしてそれを拾い立ち上がろうとすると軽い目眩に襲われる。それでも何とか足に力を入れて勢いをつけて立ち上がった。
「…う、まわる、」
その時だ。閉めるのを忘れていた扉の角に額を思い切りぶつけて床に倒れ込んだ。ガン!といい音がしたのを自分でも聞いた。強い衝撃と痛みを受けて一気に意識が遠のく。
「失礼します。どうかされましたか?……お、お、お嬢……!?」
近くにいたのだろう、頭がぶつかった音と身体が倒れた音に気付いたまた子さんが脱衣所をノックして開けるとわたしが倒れていて案の定とても驚いた声を出した。恥ずかしいところを見られちゃったな。でも起き上がることができない。駆け寄ってくるまた子さんに薄らと微笑む。
「だ、いじょうぶ……」
「どこ見ても全然一ミリも大丈夫じゃないっスよ!なんなんスかこれは!」
誰か医者を!なんて真っ青になって大きな声を出すからそんな大袈裟な、と思うのに身体はぴくりとも動かない。特にぶつけた頭が痛い。目の前が真っ白だ。頭、というよりおでこに近い。たんこぶになったらいやだな。
「名前」
珍しく焦った声だった。ぶつけたところに柔らかいタオルのようなものが当てられる。少し目を開けると眉根を寄せた晋助がわたしを見下ろしていた。またドジしたって怒るのかな。ぼーっとしているからだって。でも今日は否定できない。
「名前、しっかりしろ」
「…たんこぶできた?」
「たんこぶどころじゃねぇよ」
前髪をかきあげた手のひらをチラリと見ると赤く染まっていた。その血、わたしの?
「派手にやったな」
「晋助、これは一体…!?」
騒ぎを聞きつけて万斉さんも現れた。冷静に考えるとお風呂上がりでそもそもボディクリームを塗ろうと思っていたからまだキャミソールとショートパンツしか身につけてない。
「できれば見ないで…」
「この状況で何言ってんだ、アホが」
「これは酷い…パックリいってるな。風呂上がりだから特に血が出るんだろう」
パックリ。切れたってことだよね。だからこんなに痛くてぼーっとするんだ。ただでさえ血が薄いのに。う、なんか寒気がする。
「桂先生、すぐに来るそうッス」
また子さんの声がする。バタバタと外が騒がしい。
「お嬢!お気を確かに!」
「お嬢に血が…!なんてことだ…う、目眩が…」
「おいお前しっかりしろ!」
他の舎弟さん達の声も聞こえる。遠くで心配そうにしてくれているのを感じて声をかけたいけど目の前は真っ白。ドクドクと脈打つ感覚が気持ち悪い。痛いなぁ。
「来島、アイツら閉め出せ」
「はい!お前ら散れ!お嬢の傷に触るッス!」
「またみんなにドジっていわれる…」
「言わねぇが、心配かけるな。あの高杉組の奴らがお前の血だけは見ると倒れちまう」
「うん…」
指先で晋助の手を探すと繋いでくれた。今日は2回も手を繋げた。それが嬉しかった。
*
「名前さん、どうしたんだ」
「ちょっとぶつけてしまって…」
左側の額に大きなガーゼを貼りつけて鴨太郎さんを出迎えた酷い有様のわたしはさぞ彼を驚かせたことだろう。
「いまの医療ってすごいんですね。こう…結束バンドみたいなので引っ張って留めて、縫わずに済みました。傷跡も縫うより残らないそうです」
「…そうか。痛々しくて聞いてられないな。早く治してくれ」
「意外ですね、こういう話は苦手ですか?」
「好きな人の怪我の話を喜んで聞く男がいるとするなら相当なもの好きだよ。花のように美しい君の、そんな姿を見て動揺してる」
好きな人。
会う回数を重ねていくうちに鴨太郎さんはわたしのことをただの許嫁以上に思ってくれているようだった。抱き締めるときも、キスをするときも、例えるなら他の誰かの物に触るように躊躇いながら優しく触れてくれる。もっと乱暴にしても壊れたりしないのに。こんなことで壊れてしまうほど、美しくも脆くもない。花の方がよっぽど繊細で、純粋で、美しい。二人で庭に咲く花達を眺めながらゆっくりと歩く。
「あの…鴨太郎さんのやりたいことってなんですか?」
「やりたいこと?」
「…家を継ぐ他に、やりたいことがあると」
兄から聞いたのか、と呟いて暫く沈黙した後に、鴨太郎さんは口を開いた。
「弁護士になりたいんだ。こんな家の自分が弁護士なんて笑われるかも知れないが、法律の勉強が楽しいんだ。法は全ての人の上に平等にある。力や暴力ではなく言葉で人を守ることできる、素晴らしい仕事だと思う」
「……、鴨太郎さんらしいです、とても。鷹久さんは心根が優しいから家を継ぐのに相応しくないと仰っていましたが、鴨太郎さんも同じくらい優しい心を持っています」
「…ありがとう。君は?」
「え?」
「以前言っただろう。同じ匂いがすると。名前さんは、何をしたいんだ?」
「わたしは……花の勉強がしたいです。いつか海外の庭園を見たり、もっとたくさんの花を使って作品を作ってみたい。花の世界を知りたいです」
「君らしいよ。叶えさせてあげたい」
でも、きっと無理だと思う。わたしたちは行き先の決められた船に乗っている。周りは底無しの海。その船の上で生きるしかないの。
「…名前さん、俺は君の秘密を知っている」
「…え?」
「君はここから抜け出せるだろう。家を継ぐ定めにある俺とは違う。なのになぜ、俺と結婚してまでこの世界に居続けようとするんだ」
「鴨太郎さん、あなたは……どこまで知っているの?」
わたしと晋助が本当の兄妹じゃなくて異母兄妹ってこと?それとも晋助さえ知らないもっと奥の、…………深いところに固く閉まってあるもの?
「逆に聞くよ。君はどこまで知ってるんだ?俺たちの持つ秘密を合わせれば、真実はひとつになる」
鴨太郎さんの眼には確信があった。
きっとこの人は本当に知っているんだ。
「…いや…です…、聞きたくない」
「一体何が君をそこまで追い詰めているんだ…!」
救わないで。救おうとしないで。
「ごめんなさい…っ」
逃げ出した。自分の部屋まで走って、扉を閉めてうずくまる。息が上がって苦しい。世界がぐるぐる回って吐き気がする。ガーゼの下の額がドクドクと脈打って痛い。
「やめて……」
わたしの日常を壊さないで。これ以上幸せにならなくていい。10年前、決めたの。かみさまとの約束を守り続けたいの。
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