08.大人になれない系おとなたち
「ただいまぁ〜、はぁめっちゃ疲れた」
「おうおかえり」
「あれお兄ちゃんがいる。サボり?」
「お前と一緒にすんな」
良い匂いがする。キッチンに立つお兄ちゃんは夕飯を作ってくれているようで覗いてみると…何かを炒めてマヨネーズとポン酢で和えたものがあった。なんとも不格好な盛り付け。この人は料理だけは苦手だ。
「良い匂いなのにビジュアルが凄いよねいつも」
「味はいいんだから文句言うな」
「ほとんどマヨネーズのお陰でしょ」
「名前」
「味見していいー?お腹すい、」
箸を取ろうとするとその手を掴まれて引っ張られ唇が触れ合う。驚いて目を閉じることも忘れたわたしを見下ろしていた。
「こっちが先だろ」
「…家だよ、ここ」
「他にどこですりゃあいいんだよ。キスする度に車飛ばして海にでも行きゃあいいのか?」
「……………それも一つの手」
「アホか」
恥ずかしい。とにかくひたすら恥ずかしい。兄妹からいきなり恋人の空気に晒されて熱が上がる。
「荷物置いてくる」
味見も忘れて逃げるように自分の部屋に駆け上がった。リクルートスーツを脱ぎ捨てて部屋着に着替えているとコンコンとノックの音。
「俺そろそろ出るけど」
「あ、そっか…行ってらっしゃい」
「………」
「なに?」
お兄ちゃんがずい、と部屋の中に入ってきて扉が閉まった。
「密室でなら良いんだよな?」
「え?」
抱きしめられてまた唇が触れる。厚い胸板に押し付けられて煙草の香りがした。何度も優しく触れた後にしっとりと濡れた舌が唇を舐める。
「っ、ちょっと」
「逃げんな」
力、強い。無意識に顔を逸らし逃げ腰になった身体をいとも簡単に押さえられ、頬を掴まれ固定された。強引とも言える行為の後に近づいてくる見慣れ過ぎたその顔がどうしても、拒否できない。
「……っおにい、」
「名前で呼べ。二人の時は」
キスの間に低く囁かれた声は掠れて触れる指先が今さっきまで夕飯を作っていた手だと思えないくらい艶かしく動く。薄く目を開けるともう男の顔した人がそこにいた。なにそれ。そんな瞳、するの。
「……と、…し、ろ」
「…っ」
喉の奥から搾り出された言葉のない嗚咽のような声が漏れた。今までの関係が塗り直される感覚。より鮮やかに、より深い沼に引き摺り込まれていく気がする。ハマったらやばい、でももう抜け出す術はない。
「十四郎」
「…ああ」
頭の隅っこで時間、大丈夫かなと心配したのはほんの一瞬。徐々に濃厚になっていく口づけに意識が全部持っていかれてしまった。
*
「……さすがにヤバいよねぇ」
椅子にもたれて大きく伸びをすると軽くまとめた髪が肩にかかった。寝る前の習慣になりつつある企業研究が全然集中できない。パソコンの画面を閉じてベッドに寝転がるとさっきの行為が思い出されてどうにも恥ずかしくてバタバタと足を動かした。あー恥ずかしい。ドアの方を見る度にお兄ちゃんのことを思い出してしまう。頭が混乱する。わたしなんで部屋でキスなんかしちゃったんだろう。さっきからそればっかり考えてる。
……でもさ本当に、今後くっつけるとしたら家の中しかないんじゃない?堂々と外は歩けても手を繋だりしたら近所の人だってびっくりするだろうし、ましてや二人きりになりたいからってホテルに入るのを知り合いに見られたりしたら…悲惨なことになる。だからお兄ちゃんの言う通り家に人がいない状態で、部屋の中でならまだこうやってキスできるのかも。でもさそれってあまりにも心臓が持たなすぎる。
「………十四郎、だって」
名前を呼び捨てにしたことなんてあったっけ?言い慣れない下の名前。初めて彼氏を呼び捨てにした時ってこんなに照れくさかったかな…もう覚えてないけど……ていうか彼氏?彼氏、彼氏………だよねぇ?異性とくっついてキスしたら彼氏って言っていいんだっけ。
それなりに恋愛の経験は積んできたはずなのに中学生みたいな自問自答を始めてしまう。あーそうだよねぇこういうのが恋だよねぇ。そうそう、こんな感じ。
ふと思い立って部屋を出た。しんとした廊下を少し歩いて階段を挟んだ向こうの部屋のドアを開ける。鍵なんてかかってるわけがない。ふわ、と香る煙草の香り。それだけでドキッと胸が熱くなる。お兄ちゃんの部屋。最後に入ったのいつだっけ。そう言えばわたし、今までお兄ちゃんと密室に二人でいたことってあんまりなかったかもしれない。覚えてないだけかもしれないけど。車は除いたとしても部屋に二人っきりなんて…。もしかしてずっと我慢してくれていたのだろうか。いやまさか………待って。あの人わたしのこといつから好きだった?海からの帰り道、『ずっと不純な目で見てた』って言ったよね。あれって……。
結局、ほんの少し部屋のドアを開けただけですぐにそれを閉めて部屋に戻って布団を頭まで被って目を閉じた。自分に都合の良い考え方ばかりしてしまう。
お兄ちゃんってずっとわたしのこと好きだったのかな。そう思っていいのかな。わたしの初恋が始まったのと同じくらい、わたしのこと想ってくれてたって思っていい?
「やば、土方十四郎」
恥ずかしすぎて、でも早く名前で呼ぶことに慣れたくてついフルネームを口にした。同じ名字。本当なら結婚してから同じになるものなのにね。それってめちゃくちゃ嬉しいのにね。多分わたしたちはそんな素敵な幸せ手に入らないから、ただこの時間を大切に大切にしていきたい。
*
「北大路くんって、スーツ着ると急にその筋の人みたいになるよね。ちょっと声かけるの緊張する」
「そうか?清潔感を重視してるつもりだが」
「そろそろスーツ着るのも慣れてきたねー」
大学の求人情報を見にきたらちょうど図書館から出てきた北大路くんとばったり会って進捗を報告した。今、2件面接を受けたところ。とりあえず卒業までに内定一つもらえたら上出来…と思ってるわたしは意識の低い社会人になりそうだ。働きたくないなぁ。
「今度うちの卒業生が就活生向けに体験談話に来るらしいな。まだ募集してると思うが」
「えー行こっかなー…どうすれば内定貰えますかって」
「先方も自分で努力しろとしか言えないと思うがな」
「そうだよねぇ」
おっしゃる通りなんだけどもし秘策があれば是非とも聞きたい。
「…この間見た時から思っていたが名前、お前今の方が好みだ」
「えっ?…どうしたの急に」
「真面目そうで浮ついてなさそうな所に好感が持てる。まぁあくまで外見の話だが」
めちゃくちゃ嫌味じゃん。
「すみませんね茶髪だとチャラチャラしてて」
「うまく言えないが…まあ、可愛いってことにしておく」
「忖度したよね今」
北大路くん、付き合ってた頃より話しやすい気がする。なんでだろう。無理に好きになろうとしてたからかな。お兄ちゃんと重ねてたから違いを見せつけられて苦しかったから?
恋人としてはうまくいかなかったけど、友達としてならいい関係になれるかもしれないなーと思う。
「…やり直さないか、俺たち」
「………え」
歩いていた足が止まった。振り返ると冗談ではなさそうな空気。
「今なら、上手くいく気がするんだ。俺たち」
「……ごめん。わたし好きな人がいる」
「そうか。悪かったな。忘れてくれ」
あっさりと引いてまた歩き出した北大路くんの隣を歩くのに少し勇気が必要だった。また、傷つけた。ごめん。自分のことばっかりだ。いつも。
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