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08.くちびるはいつかきょうをうらぎるだろう

「晋助、今日何時に帰る?」

「…はっきり言え」

「一緒に寝ていい?」

「早く帰れたらな」 

そんなやり取りをしたのが学校に行く前の朝のことだ。嫁入り前の女が言うことではないとわかってはいるものの、もうひとりではほとんど眠れなくなってしまっていた。
体調は少しずつ良くなってきている。今週は生け花をしたいな、なんて思えるほどには。
ただ、ふとした時に鴨太郎さんの表情を思い出す。普段は少し張り詰めた空気を纏っていて、二人だけで話すときに見せる静かな微笑みを零す瞬間が人間らしくて良いなぁと思っていた。そしてこの間の口づけ。慎重すぎるほど一定の距離を保ってきたあの人の男性の部分を見てしまったことは少なからずわたしの心を乱した。

………似ていた。晋助が2人きりの時にわたしを見る表情に。晋助が時折ああいう目でわたしを見るようになったのはもう思い出せないほどに前から。それが何を意味するのかは考える必要はない。だからただ、目を閉じてあの日晋助と一緒に見た金木犀の香りを思い出せばいい。

「初めてだったな、 」

「どうかされましたか、名前さん」

「ううん」

幾度となく唇を落としてくれた晋助でさえ、わたしの唇には触れたことはなかった。





「やっぱり…坂田さん!」

「げっ、タカスギ…サン」

迎えの車を待っていると大きなバイクの音が聞こえてきた。その方向を目指して近づいていくと思った通り坂田さんだった。以前、他校の生徒に絡まれたのを助けてくれた。
坂田さんはわたしを見て明らかに嫌そうな顔をしたけど気にしない。大体の人はみんなそうだ。わたしは高杉組の人間とはいえ、何の力もないのになぁ。

「この間はありがとうございました。また会合ですか?」

「そー。うちから結構距離あんのになんでわざわざこんなとこまで来なきゃいけねーんだよ。緊急の呼び出しもあるしよー。アンタ、フラフラしてっとまた絡まれるぞ」

坂田さんはこの辺りの喧嘩の強い高校生チーム…不良の集まりみたいなのものなのかな?その新しいリーダーらしい。本人にはやる気なさそうだけど、確かに強かったもんなぁ。

「あ、鞄開いてますよ」

坂田さんの鞄はチャック全開で今にもお弁当箱が落ちそうになっていた。それにしてもお弁当以外は何も入ってなさそうだ。

「お弁当、いいなぁ」

「百華女子は弁当じゃねーの?」

「うちは食堂なんです。自分で作るんですか?」

「いや、妹が」

「妹さんいるんだ。うちも兄がいるんですよ。仲良しですか?」

「あー…まあ、仲良し………と言えばめっちゃ仲良しっつーか、なんか難しいよなぁ。お互いに思春期っつーのは」

「思春期……」

少し言いにくそうに頭を乱暴にかいてわたしを見下ろした。

「あのさー、参考までに聞きたいんだけど…ぶっちゃけ兄ちゃんと手繋いだりチューとかしたいと思う?いやマジで参考までに」

「……、」

「あっ悪り、今の忘れて」

「坂田さんは、妹さんにキスしたいとおもう?」

「…したいよ。好きな女だから」

妹さんのことを思い浮かべたのだろう、坂田さんはすっごく優しい顔で笑った。前に会った時よりも元気そうというか、満たされているように見える。はっきりと言ったその言葉には強い意志があった。

「素敵だね」

わたしも坂田さんみたいに胸を張って自分の気持ちを言えたらな……なんて考えることさえ許されないけど。坂田さんもきっと色々悩んで答えを探しているんだろうな。それを知れただけでわたしの心も少しだけ救われた気がした。

「誰にも言うなよ」

「内緒にするね」

人差し指を口に当てた坂田さんはヘルメットを被ってバイクを動かした。遠ざかる背中を見送って、ちょうど到着した迎えの車の方へ歩き出した。






指先で落雁を弄ぶ。小皿に出したそれをつついてみたりパズルのようにくっつけたり、金平糖をひとつずつまあるく並べてみたり。そうしていると部屋の扉が開く音がした。

「お帰りなさい」

「ああ」

晋助はわたしが起きているとは思わなかったみたいで意外そうな顔をした。いつもならとっくに寝ている時間。

「眠れねぇのか」

「ちょっとだけ」

シャワー浴びて来るから待ってろと言いながら晋助は部屋に備え付けのシャワールームに消えた。それを追いかけて脱衣所に座り込む。背中合わせのガラス戸の向こう側で水の跳ねる音がする。晋助がすぐ近くにいると思うとどうしてこんなに安心するんだろう。ふわふわのバスタオルを引き寄せて顔を埋めた。

「何かあったのか」

わたしがいることに気づいていたらしい。
低い声が尋ねてきた。

「…晋助、キスってどんな感じ?」

返事はなかった。シャワーの音で聞こえてなかったのかもしれない。答えが欲しいわけじゃないから大したことではない。ぽつぽつと独り言のように呟いた。

「………鴨太郎さんとキスしたの。でも嬉しいと思えなかった。たくさんするうちに嬉しくなったり幸せになったりするのかな」

放課後、穏やかに笑ってた坂田さんみたいに。いつかあの表情ができるようになるのかな、わたしにも。

シャワーの水の音が止まってガチャリとガラス戸が開いた。温かい蒸気がもわもわと脱衣所に流れてくる。抱きしめていたバスタオルを渡そうと振り向こうとすると、床に押し倒された。一瞬のことで何が起きたかわからなかった。濡れた髪から落ちる水滴が次々とわたしの顔にかかる。

「しん、」

「そんな報告を毎回俺にする気か?」

ああ、その顔。
この間の鴨太郎さんに似た目をしてる。

「ううん、ひとりごと」

「……俺にどうして欲しいんだ」

怒ってる、のだろうか。
ぽた、ぽた。雫が涙みたいにわたしの頬に落ちてくる。

「望んでないよ、なにも」

ぐっと顔が近づいて、唇が触れそうになる。鴨太郎さんとの時は目を閉じて受け入れたけど、わたしは晋助から目を離さなかった。このまま流されたらきっともう引き返せない。第一、こんな行為に意味なんてない。だってわたしたちは結ばれることなんてないのだから。それならなにもする必要はない。
そんな空気が伝わったのか、短く息をついて晋助は離れた。胸に抱きしめていたバスタオルを取られる。わたしに落ちた水滴を丁寧に拭いてから自分の身体を拭きはじめた。身体、冷えてないかな。

「お兄ちゃん、宮沢賢治の本あったよね?借りていい?」

「…ああ」

起き上がって先に脱衣所を出て本棚から本を何冊か抜き出した。次に病院に行ったら鷹久さんに持って行こう。戻ってきた晋助はわたしがテーブルの上に散らかした落雁と金平糖を一瞥してベッドに上がった。

「一緒に寝てもいい?」

「だめだと言っても入ってくるだろ、お前は」

いつものように隣に横になってわたしを抱きこんだ。さっき、拒絶したばかりなのに。どんな気持ちでいるんだろう。ごめんなさい。与えられてもそれだけは受け取れない。わたしは、妹でいたい。

「おやすみなさい」

時刻は深夜3時。少し前の自分ならこんな時間まで夜更かしできたことを喜んだだろう。でもね、長く起きている時間の分だけ息が苦しくていられないの。



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