07.白くいられない
お父さんとお母さんが死んだ頃についてわたしはよく覚えていない。悲しくて記憶がぽろぽろ崩れて砂になって飛んでいってしまったのか、それともただ幼かったからなのかはわからない。
両親が乗っていた車に飲酒運転で速度オーバーした車が信号無視をして突っ込んだ。即死だったと後からそう聞いた。一度は遠い親戚のおうちに行くことが決まったけど、2人ともは無理だというのでバラバラになる予定だったのをお兄ちゃんが無理を言って説得して2人だけで住むことになった。両親が遺してくれたお金と保険金で暮らしていくには困らなかった。
「高等部って宿題ないの?」
「あるに決まってんだろ」
「やってるとこ見たことないよ?」
「プリントくれねーんだもん」
「授業に出なきゃもらえないに決まってるじゃん。お兄ちゃんてバカなの?」
「うるせー」
「因みに学校行っても授業出ないと出席にならないの知ってる?」
「お前マジで馬鹿にすんなよ」
夕飯の後はいつも自分の部屋にいたけれど最近はリビングで勉強するようになった。お兄ちゃんが家にいるからだ。お兄ちゃんはわたしのすぐ後ろのソファに寝転がってジャンプを読んでいる。さっきお風呂に入ったからシャンプーのいいにおいがする。
「名前、ちょっと触っていー?」
「うん。どこか変?」
「変じゃねーけど。触りたいだけ」
ソファから手を伸ばしてすぐ近くに触るわたしの髪に触れた。手櫛で髪をすいて、頭を撫でる。それが気持ち良くてシャーペンを置いてお兄ちゃんに向き直ると、ジャンプはもう閉じられてわたしをじっと見ていた。
「あー可愛いわ」
「最近それよく言うね」
「言わなかっただけでずっと思ってたからな。心の中では毎日言ってるからな俺。名前ちゃんかわいー」
「…なんか恥ずかしい」
「お前はニコニコしてりゃあいいの」
「わかった」
エレベーターでのキスからお兄ちゃんは本当によく話すようになった。しかもちょっと恥ずかしくなるようなことを死んだ目ですらすら言う。気持ちを隠すのを止めたようだった。まだ慣れないけどものすごく嬉しい変化だ。
「進級、絶対してね」
「ハイハイ。お前そんなに俺に送られたくねーのかよ」
「違うよ。お兄ちゃんが留年したら朝起こしたりお弁当作ったりしなきゃいけないのが1年伸びるでしょ」
「あーそこね」
やる気なく喋りながら髪の香りをかいでる。わたしたちが使っているシャンプーは甘い香りの女の子向けの物で、お風呂上がりの2人が揃うとお花畑みたいにいい香りになる。
「お兄ちゃん、ぎゅってして」
ソファに寝そべるお兄ちゃんの上にのしかかるとぐえ、と潰れたカエルの鳴き声みたいな声がした。ふわふわの髪から甘い香り。綿あめみたいで美味しそう。ぱく。耳の上あたりの毛を咥えてみるとなんの味もしなかった。当然なんだけど、なんか残念。下でもぞもぞ動いていた腕がわたしの背中にまわった。
「積極的ですね」
「お兄ちゃんの髪の毛が甘かったら良かったのに」
「そんなん絶対虫が沸くだろ」
うげ、と変な顔をして見せてわたしを見上げるお兄ちゃんはいつも死んだ魚のような目をしてるのにここ最近はしゃんとして眉毛もそんなに離れていなくて、とっても格好良く見えることがある。たまにだけど。そういう顔してる時は決まってわたしに触れる。髪、肩、背中、そして最後に……、
「おやすみ」
ちゅ、と唇を触れ合わせてからのしかかるわたしをどけて部屋に戻っていった。おやすみのおまじないは唇へと場所を移して再開していた。
*
ピンポーン、宅配便以外は殆ど来客がないうちのインターホンが鳴った。画面を見てみると業者の人じゃないみたい。お兄ちゃんに少しだけ似たふわふわの黒髪にサングラスをかけている。誰だろう。
「どちら様ですか?」
「あーボク金時くんの友達で坂本って言いますー、金時くんいますかぁ?」
へらへらとして間延びした話し方。金時くん…って、お兄ちゃんのこと?
「はい、4階の奥からひとつ前です」
ボタンを押してエントランスのオートロックを解除する。とりあえずお兄ちゃんに出て貰おう。あの人が上がってくる前に起こさなきゃ。今日は土曜日。お兄ちゃんはまだ寝てる。
「お兄ちゃーん、お客さんが来てるよ!起きて!」
「……だれ」
「坂本さんてひと。知ってる?ふわふわのサングラス」
「……チッ、家に来るなって言っただろーが」
…と言うけど全く動こうとしない。布団に埋もれたまま暫くすると寝息が聞こえてくる。この寝起きの悪さは酷い。勢い良く布団を剥ぎ取ってほっぺたをぺちぺちする。
「坂本さん上がって来ちゃうよ。ほら起きて着替えて」
「…着替えさせて」
「いや」
「…名前ちゃんお願い」
「いや」
「………じゃあそこのパーカー取って」
言われた通りそれをお兄ちゃんの頭にバサっと落とすと観念したのかようやく起き上がって上のトレーナーを脱いだ。わたしに背を向けていたけどその横腹が黒ずんでいるのが目に入ってきた。治りかけているけどかなり痛そう。
「なにそれ」
「あ?……あ、」
「喧嘩したの?」
「…転んだ」
「うそ」
「ちょっと絡まれただけだから気にすんな」
「絡まれたらそうなるの?」
「名前」
振り向いて喉の奥から「ん、」と出た声に目を閉じる。もう殆ど反射だ。お兄ちゃんの手が前髪をかき上げて、おはようのキスが落された。その時、ドアの向こうでインターホンの音が来客を知らせたから怪我のことはそれ以上聞けなかった。
*
「だからワシ一人じゃあいつら纏まらんのじゃ!早く戻って来てくれ金時!」
「声がデケェよ。名前に聞こえんだろーが」
「いや〜お前にあんな可愛い妹がいたとは驚いたのう!全然似てなくて良かったなぁ!そのもじゃ毛が似たらせっかくの美人が可哀想ブハァへ!」
「俺はこの頭に誇り持ってんだよ馬鹿。で?なんだよチームがどうしたって?」
土曜の朝っぱらから押しかけてくる礼儀知らずの男は銀魂高校のチーム『silver wolf』の副リーダーとか副総長とか呼ばれている男だ。つーかマジでダセェ。言うのも恥ずかしいわなんだチームシルバーウルフって。考えたの誰だよ。
…で、その辺の高校のチームはお互い譲り合って仲良く走りましょうということで連合を組んでいるのだが、まぁ血気盛んな不良高校共は『俺らのチームが一番強い』的な自信と闘気ムンムンで何かと突っかかってくるわけだ。俺としちゃあそんなもんどうだっていいのだが、いかんせん下の奴らが黙っちゃいない。
『他校に舐められるわけにはいかない』と言わんばかりに個人的に喧嘩をふっかけてきたり逆にふっかけることもある。まぁそうなってくると穏便な鎮静のためにお互いの大将も出て行かざるを負えない。そこで俺と辰馬が割って入ってまぁ落ち着けやって仲裁するのもリーダーと副リーダーの役目でもある。尻拭いじゃねーか面倒くせぇ。
俺たちはもともとバイク転がしてるのが好きなだけでチームの強さとか誇りとかどうだっていいんだ。なのにこの町ではやれ走るならチームに入れだのチームに入るならまず俺を倒せだのうるっせーことこの上ない。前のリーダーだって殴りかかってきたから昔習ってた剣道の筋でちょっと殴り返したら一発KOだよ。そっから成り行きのリーダーになりいつの間にかバイク以外のことにまで神経と体力を使わなきゃいけなくなっちまったじゃねーか。早く引退してぇ。いっその事こと誰か俺をぶっ倒してくれ。でも痛ぇのは嫌だ。何より名前が心配する。
「お前このままチーム辞める気じゃないだろうな?」
「あー辞めれるもんなら辞めたいよこんな面倒くせーこと。つーか電話でも言っただろ出席日数やべーんだよ夜中ほっつき歩いてる場合じゃねーの」
「…金時、なんかあったか?この数週間で雰囲気がだいぶ柔らかくなった気がするのう。家にいるからかもしれんが」
「……まぁな」
「まさかコレか?」
コレ、と小指を立ててニヤニヤと下品に笑う辰馬を鼻で笑ってやる。ソレだったらどんなにいいかねぇ。恋愛がらみだということは間違いではないが。
「おい金時なんじゃその笑みは!やっぱ女か!」
「ちげーよ」
「いや絶対女絡みじゃ!ワシの目は誤魔化せんぞ!」
「うるっせーっていってんだろーが」
ぎゃあぎゃあ騒ぎ出した辰馬のスマホが鳴る。なんじゃこの忙しい時にと文句を垂れながら電話に出た。あー早く帰ってくれねぇかな。午前中に名前と買い出し行く約束してんだよなぁ。
「ああ!?条例違反が出た!?」
辰馬の顔色が変わる。スマホを奪い取りスピーカーに切り替える。声はうちのチームの後輩からだった。
『夜兎高校のリーダーが変わりました。突然現れた転校生で喧嘩がとにかく強くて…マジでヤバい目してる男です。近隣の高校のチームのリーダーを片っ端から倒すと宣言してます』
「……はぁ…俺マジで進級無理かも……」
昔から何かと面倒ごとに巻き込まれるタチだ。お祓いにでも行こうかとため息を吐いた。
title by ユリ柩