06. 誰もが諦めたことをしよう
「名前」
頬に何かが触れた気がした。
手?あったかくて安心する。
ゆっくり目を開けるとお兄ちゃんが隣の運転席からわたしを見ていた。ん?なにこれ。
「…ん…?なんでいるの?」
「だいぶ寝たな」
「あ!ドライブ……何時?」
お兄ちゃんが夜中に連れ出してくれたんだった。
スマホ部屋に置いてきちゃった。
「ごめん、ガチ寝した」
「いやちょうど良かったぜ」
座りっぱなしだったから外に出ようと言って車から降りたお兄ちゃんに続こうとしてブランケットを畳んでいると外からドアを開けてくれた。寝起きにお姫様待遇されてもときめかないわよ。うそ、ちょっとだけときめきました。
「それ持ってけ」
え、ちょっと待って。車から降りてみると潮の香りと波の音。どうして気が付かなかったんだろうってくらいに空気が違う。外は明るくなり始めていた。
「え……ここどこ」
「海」
「わかるけど……」
なんで海。どこの海。
手を引かれて駐車場から砂浜に降りる。転ぶなよと言われるけどちゃんと手握ってくれてるから転びようがない。
やわらかい砂の上をスニーカーで歩く。わあ、本当に海だ。
強い風が髪を散らす。目の前を歩くお兄ちゃんの髪も揺れていた。わたし、お兄ちゃんと手繋いで歩いてる。現実じゃないみたい。
少し歩いて適当なところに並んで座った。カーディガンの下は部屋着のトレーナーとショーパンだったりする。その上すっぴん。我ながらパジャマ丸出しで外出してしまった。いやコンビニ行くだけだと思ったんだもん。明るくなってくると恥ずかしいな。
「お前は本当に足出すのが好きだな」
「パジャマだから家では誰も見てないよ」
「俺が見てんだよ」
「見なきゃいいのに」
「目に入るんだろーが」
持ってきたブランケットをかけるとポケットから缶コーヒーを出してくれた。まだあったかい。寝てる間に買ってくれたのかな。隣でプルタブを起こす音がした。
「眠くない?」
「夜勤で慣れてる」
「そっかー。すごいよね、いつも仕事頑張ってるもんね。…お兄ちゃんはなんで警察になろうと思ったの?」
「男なら守りたいものくらい守れねぇとな」
「なかなかできないよ、そんなこと。人のために命かけて頑張ることって難しいと思う」
「…別に人のために頑張ってるんじゃねぇよ」
「ん?どういうこと?」
「例えば、守りたい奴が1人だけいるとするだろ?そいつを守るには周りの悪い奴を片っ端から逮捕すりゃあいいんじゃねーかって。そうりゃあそいつも守れるし、ついでに他の奴らも平和で一石二鳥。何より金も貰える」
「…なんか安直というか、単純だね」
「きっかけなんてそんなもんさ、何事もな」
「だからもっとシンプルに考えろ、焦るな」と呟いて煙草に火を付けた。白い煙が風に流されて消えていく。波が、引いては押し寄せる。朝日が、登っていく。少しずつ、時間は進む。こうして悩んでいる間にも。
人は、自然の前ではあまりにちっぽけだ。就活なんて失敗したって何かしらすれば生きていける。長い人生のうちにあるちょっとしたイベントなだけ。大したことじゃない。
この景色の前ではお兄ちゃんが好きとかラブとかライクとかそういうのも全然どうだっていい話だ。全部。あー、すごくちっぽけな悩みだなぁ。なんでこんなことでうじうじしてるんだろう。ずっと現実から目をそらして。
「お兄ちゃんありがとう…、今日のこと忘れない」
「俺も躓いたときよくここに来てた。まさかお前を連れてくることになるとはな」
「悩んでたの?」
「俺だって悩んだりするさ」
「そっか、みんな同じなんだ」
「…たぶん今同じこと考えてると思うぜ」
「…………そっか」
そうか、シンプルに考えるとそうなんだ。
人や物がぎゅうぎゅうに敷き詰められたあの街の、狭い箱の中にいるから胸がざわざわ震えてしまうんだ。
あの生まれ育った箱の中でしかわたしたちは居られないのなら、新しく始めなきゃいけない。わたしだけの人生のために。わたしは1人の人間として生きていきたい。自分に嘘をついたりしたくない。
「お兄ちゃん、わたし就活終わったらあの家出る」
「ああ。応援する」
心が震える。でもそれは、今まで感じてた物じゃない。
自然の前では、わたしたちの存在はちっぽけだ。本当に。
風が吹く。家族とか兄妹とかそういうしがらみが解けていく。今だけは、ひとりの人間同士が寄り添っていると思いたい。いつの間にか繋いでいた手をぎゅっと握った。
「髪黒いとアレ思い出すな。名前が高校の時すげぇ泣いてたからどうしたかと思ったら彼氏に浮気されたって」
「ねぇなんで今そういうこと言うの?本人でさえ忘れてたのに綺麗な海の前で汚い思い出蒸し返さないで。ついでに言うと浮気じゃなくて三股だから、三股。あー思い出しちゃったじゃん」
「お前マジで男運ないからなぁ」
「本当だよ。あなたが一番の運なし男だよ。記録更新だよ」
「ハハッ、そりゃ上等だ」
「…もう認めてもいい?」
「好きにしろ。俺はずっと、お前の気持ちがここまで来るのを待ってたんだ」
波の音が合図だった。引いていく強い力に引っ張られたのかもしれない。そんなのなんだっていい。触れ合った唇は潮風で乾いていて、煙草の苦さとほんの少しだけ甘いコーヒーが混ざり合っていた。
title by 溺れる覚悟