7:やまのぼり

「フーッ出たァ!本物の空!」

 意気揚々と張ったルフィさんの声が聞こえて、膝に埋めていた顔を上げた。
 太陽の光が眩しくて目を細める。限られた視界からなんとか空を見上げると、白い雲が風に流れていた。胃壁に描かれた絵じゃなくて、本物の青空だ。
 ほっと息をついた。随分と久々に呼吸をするような心地だ。鈍器で延々と殴られるみたいだった頭痛も治まり始めている。

 "食"がトラウマになってしまっていることはわかっていたけれど、巨大クジラに飲み込まれたことでこれほど取り乱してしまうとは思っていなかった。自分が何か食べ物を口にすることより、自分自身が何かに食べられることの方が両親の死因を彷彿とさせるらしい。
 この先自分が食べられそうになることなんて再び起こるかはわからないけれど、万が一にも先程までのように動けなくなってしまっては仇を討つどころの話ではない。どうにかトラウマを克服したいところだ。と言っても、簡単にできるものなら世話ないのだけど。

 ふと、ドボンと何かが海に落ちる音が聞こえた。皆が集まっている方へ行けば、どうやら奇怪な言動をする男女2人組を海へ突き落としたようだ。
 気分が優れなくてなんとなくでしか状況を追えていなかったけれど、確か捕鯨を企んでいたひと達だ。

「あっ、ナマエ!もう体調は大丈夫なの?」
「だいぶ良くなりました。すみません、ご迷惑おかけして……」

 声をかけてくれたナミさんにそう謝れば、彼女は「よかったわね」と微笑んだ。
 お荷物にしかならないわたしを厚意で居候させてくれ、その上こんなふうに優しく接してくれる一味の皆にじんと胸が熱くなる。
 そういえば先程サンジさんもわたしの気分を和らげようと背を撫でてくれたことを思い出す。ふとサンジさんを探して甲板をぐるりと見回せば、あのおかしな男女が何やら高笑いをしながら泳いでどこかへ去っていくのを見送っているところのようだった。




「しかし、50年もこの岬でね……まだその仲間の帰りを信じてんのか」

 船を停めて改めて岬に降り立ったわたし達はクロッカスさんから鯨──ラブーンの話を聞いていた。
 その生い立ちを知ると、空に向かって吠える声が悲しくて泣き喚いているみたいに思えた。

「ずいぶん待たせるんだなー、その海賊達も」
「バーカ、ここは"偉大なる航路グランドライン"だぞ。二・三年で戻るっつった奴らが50年も帰らねェんだ……もう答えは出てる。死んでんだよ、いつまで待とうが帰って来やしねェ……!」
「てめェは何でそう夢のねェことを言うんだ!まだわからねェだろうが。帰って来るかも知れねェ!美しい話じゃねェかよ、仲間との約束を信じ続けるクジラなんて……」
「だが、事実は想像よりも残酷なものだ」

 ウソップさんを制止するようにクロッカスさんは声を放った。皆しんとして言葉を失う。
 海を見つめわたし達に背を向けたままのクロッカスさんは「彼らは逃げ出したのだ」と話を続けた。

「この"偉大なる航路グランドライン"からな。確かな筋の情報で確認済みだ」
「な……なにィィ……!?」
「……このクジラを置いて……!?まさか……でも逃げるには"凪の帯カームベルト"を通らなきゃ……!」
「そうとも……故に、生死すら不明。だがたとえ生きていたとしても二度とここへは戻るまい。季節・天候・海流・風向き、全てがデタラメに巡り、一切の常識が通用しないのがこの海。"偉大なる航路グランドライン"の恐怖はたちまち弱い心を支配する」

 ごくりと息を飲んだ。クロッカスさんの言葉はとても冷たいけれど、きっとどれも本当のことなのだ。
 ふう、と吸い込んだ煙を吐き出したサンジさんは、腰掛けているテーブルに押し付けて煙草の火を消した。

「──そして心の弱いそいつらは、てめェの命惜しさに約束の落とし前もつけずにこの海からとっととズラかったって訳だ」
「見捨てやがったのか、この鯨を!そいつらを信じてこいつはここで50年も待ち続けてんのに……!ヒドいぞそりゃあ!」
「それがわかってるんだったら、どうして教えてやんないの?この鯨は人の言うことが理解できるんでしょ!?」
「言ったさ、包み隠さず全部な。だが聞かん。…………それ以来だ……ラブーンがリヴァース・マウンテンに向かって吠え始めたのも、"赤い土の大陸レッドライン"に自分の体をぶつけ始めたのも」

 ふと、リヴァース・マウンテンを仰ぎ見た。いくらラブーンの身体が大きいとはいえ、頂上が雲に隠れて見えないほどのこの山を崩せないことは容易に理解できる。痛々しい額のキズは深く刻まれており、50年の歳月を感じさせる。

「──まるで今にも彼らはの向こうから帰って来るんだと主張するかのように……!その後も何度も海賊達のことを伝えようとしたが、ラブーンは事実を決して受け入れようとしない」
「何てクジラだよ……。裏切られてなお待つか」
もねェのに……!」
「……きっと、信じたくないんですよね」
「そうだ。……意味をなくすから私の言葉を拒む。を失うことが何より恐いのだ」

 真実を受け入れることは、誰にとってもすごく恐ろしいものだ。しかしそうしないことには皆次に進むことができない。どうにかラブーンにそれを理解させることはできないのだろうか。
 するとふと、わたしの隣で寝そべっていたルフィさんが立ち上がったかと思えば、すぐそばの岩の上に麦わら帽子を置いてどこかへ歩いていってしまった。
 なんとなくつまらなそうに話を聞いていたし、飽きてしまったのだろうか。

「こいつの故郷は"赤い土の大陸レッドライン"の向こう側、"西の海ウエストブルー"。すでに帰り道はない。──だからここへ一緒にやってきた彼らだけが仲間であり希望だったのだ」

 皆そんなルフィさんには気がつかないまま話を続ける。
 サンジさんはいつのまに新しい煙草に火をつけていたのか、ふう、と白い煙を細く吐き出した。

「……でもよ、確かにこいつは可哀想な奴なんだが、言ってみりゃあんただって裏切られてんだぜ?……もう放っといてもいいんじゃねェのか?」
「……こいつの額のキズを見ろ……このまま加減なく頭をぶつけ続ければ、間違いなくこいつは死ぬ。妙なつき合いだが、50年近くもこいつとは一緒にいるんだ。今さら見殺しにできるか……」

 そういえば彼は自らを医者だと名乗っていた。悲しげに、力無く話すクロッカスさんの背中を皆神妙な面持ちで見つめる。
 すると不意にどこからか雄叫びが轟き始めた。

「うおおおおお」
「は!?」

 その正体はルフィさんで、何やら大きなものを抱えながらラブーンの背中を走り登っていたのだ。先程この場からいなくなったのはこのためだったのか。
 それを見てサンジさんやゾロさんは呆れたようにため息を吐いた。

「何やってんだ、あのバカはまた」
「ちょっと目を離したスキに……」
「山登りでも楽しんでんのかね」

 ラブーンの頂上、もとい、額の真上に辿り着いたルフィさんは何やら騒いでいるかと思えば、「ゴムゴムの」と声を上げながら手に持っていた物を大きく振り上げた。

「"生け花"!!」

 そんな掛け声と共にちょうど額のキズのところに勢いよく突き刺した。

 ──よくよく見るとそれは、わたし達がここまで乗ってきた、ルフィさん達の船のメインマストじゃないか。

 ブシュ、と大量の血が噴き出し明らかに目を泳がせたラブーンは先程までとは比べ物にならない、劈くような声で鳴き喚いた。

「何やっとんじゃお前〜っ!!」

 穏やかなはずの双子岬の空に、様々な叫声が木霊した。

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