18:ねつ
「ナミさんの容体どうですか……?」
なるべく音を立てないよう静かに階段を降り、眠る彼女を見守るビビさんにそっと声をかける。
昨日、ナミさんがひどい熱を出して倒れたのだ。
原因はわからない。わたしのように海王類の口の中に入ったことで気分を悪くしたわけではないだろうし、おそらく
そんな粉雪の降り注ぐ寒空の下、ゴーイング・メリー号は医者を探して海を彷徨っている。ビビさんの提案でアラバスタを指す指針から一度外れることにしたのだ。
一刻も早く、医者を見つけられればいいのだけれど。
わたしの声に振り返ったビビさんは残念そうに首を横に振る。その奥では顔を真っ赤にさせたナミさんが苦しそうに短く息を吐いていた。かなり辛そうなのは、わたしが新しい冷タオルを作りに部屋を出る前と変わらないようだ。額の上のぬるくなったタオルを取り除いて、今しがた用意してきた物を代わりに乗せてあげた。
「熱……なかなか下がりませんね」
「ええ……ただの風邪にしてはあまりにも辛そうだし、気候変動で体調を崩したっていう感じじゃなさそうなのよね……。どこかでウイルスでも貰ってしまったのかしら……」
「ウイルス……ですか」
だとしたら少しでも早くに医者を見つけなければ大変だ。
普通の風邪ならある程度であればわたしにも看病の知識があるけれど、未知のウイルスとなるとどう対処すれば快方に向かうのか見当もつかない。やはり専門の人に診てもらわないと。
「ナミさん……」
苦しそうに眉根を寄せる彼女を見て、思わずこちらの眉間にも皺が入る。一体どうすれば……今のわたしに何ができるのだろうか。
そんなふうに考えていれば、ふと階段の方からカタンと誰かの足音が聞こえた。
「おーい、サンジ……って、あれ」
顔を覗かせたのは暖かそうなブランケットに身を包んだウソップさんだ。外は余程寒いのだろう、彼の長い鼻の先が仄かに赤く染まっている。
ウソップさんは階段を半分ほど降りながら辺りをきょろきょろと見回して、なんだいねェのか、と小さく呟いた。
「ウソップさん、どうかしたの?」
「あァいや、サンジにちょっと来てもらいたかったんだけどよー……いねェならしょうがねェや」
そう言って踵を返そうとした彼を咄嗟に呼び止める。
移動していなければ、サンジさんはおそらくキッチンにいるはずだ。わたしは取り替えたタオルを手に取り立ち上がった。
「これを置くのにサンジさんのところにも寄るので、わたしが呼んできますよ」
「そうか? 悪ィな。じゃあ格納庫にいるからって伝えてくれ」
「はい」
少し駆け足で階段を上がっていくウソップさんを見送り、続いてわたしも部屋を後にする。キッチンの扉を開けば、調理台に向かうサンジさんの後ろ姿が目に入った。
すると物音ですぐに気が付かれたらしい、サンジさんはわたしを視界に捉えるや否や少し驚いたような表情をしながらナマエちゃん、と名前を呼んだ。
「どうしたんだい?」
「ウソップさんが探してたので呼びにきたんです。サンジさんは今──……」
何をしているのか、と聞こうと思ったけれど、その背後の鍋から湯気が立ち上っているのを見るに、ナミさんのための病人食を作っていたのだろう。手元に器が用意してあるから、あとは装って持っていくだけという雰囲気だ。
「わたし、このあとまたすぐナミさんのところに戻るので、それ持っていきましょうか?」
「えっ?」
「ウソップさん、なんだかお急ぎな感じだったので。早く行ってあげた方がよさそうです」
「でも……」
面食らった様子でサンジさんはちらと鍋を一瞥する。彼はとてもいい人だから、きっとわたしのトラウマに気を遣ってくれているのだ。
たしかに、以前であれば料理を見るだけでも吐気がするほどだったけれど──。
「……わたし、皆に話してから、ちょっとだけ楽になったんです。気持ちが軽くなったというか……だからこれくらいなら大丈夫だと思います」
さすがにさっきみたいなのは無理ですけどね、と笑う。あのレベルは思い出すだけでも血の気が引く。あんなに大きな海王類とはできれば二度と会いたくないものだ。
「そりゃァよかったけど……無理しねェで」
「はい。配膳くらいでしかわたしは役に立てないですけど……ナミさんに元気になってほしいですし、やれることはやらせてください」
「ナマエちゃん……」
わたしは明るいナミさんしか見たことがなかったから、そんな彼女に元気がないのはひどく心配になる。
小さい器を手に取り、出来立てのお粥を注ぎ入れた。わたしが普段出してもらっている重湯よりもお米の質感が残ったそれを見て、そういえば食べ物らしい食べ物を間近で見るのは久しぶりだな、なんて思った。
「ナミさんには、早く回復できるようにきちんとごはんを食べてもらわなきゃ……です、ね」
それだけ言って、思わずはたと動きを止めた。
そうだ、体力回復には栄養を摂らないといけないじゃないか。わかっていたことなのに、いざ声に出すと自らに重くのしかかる。
寝込むナミさんを心配している今の気持ちは、わたしが食事を摂らないことで皆にさせているものと同じなのだろう。
「………………あの、サンジさん」
ナミさんのお粥をコトリとトレーの上に置いて、サンジさんに向き直る。
「この器、もうひとつありますか?」
わたしの問いに彼はもちろん、と微笑んだ。
◯
「ナミさんは?」
トントンと、静かに階段を降りてきたのはサンジさんだ。ウソップさんとの用事を終えてきたのだろう。
「お粥を食べ終えて、ちょうど今また休まれたところです」
「でもやっぱり熱はなかなか引かないみたいね……」
「そっか……」
ビビさんの言葉に皆肩を落とす。しかし少しとはいえ食事も摂れたのだから、きっとこれから快方に向かっていくはずだ。そしてそれは、きっとわたしも……だろうか。
するとその瞬間、船体が大きく妙な揺れ方を見せた。本棚の中身がバタバタと音を立てて倒れていく。
「何なの、この揺れはっ!!」
「な、ナミさん……!」
咄嗟にナミさんの安否を確認すれば、サンジさんが軽々とベッドごと持ち上げて揺れを軽減させていた。さすがだ。
「しっかり舵とれよ、ナミさんに何かあったらオロすぞてめェらァ!」
外で進路を見てくれているルフィさん達に向かってそう怒声を張り上げる。揺れが落ち着くや否や、ここを頼むと告げて慌ただしく階段を駆け上がっていってしまった。
落ちてしまった冷タオルをナミさんの額に乗せ直す。変わらず苦しそうではあるけれど、今の影響で悪化した様子はないようなので一先ず心配はなさそうだ。
「外で何があったんでしょうか……」
「ええ……。あんなに大きい揺れ……また海王類とかかしら……」
「えっ……」
サッと血の気が引く。船をこれだけ揺らすとなるとかなりの大きさのものの仕業になる。まさか、そんなことがこう何度もあっては堪らない。
ふと青ざめたわたしの顔を見てか、ビビさんがはっとして口を開いた。
「ナマエさん、ごめんなさい、私ったら無神経なことを……」
「あ……い、いえ、大丈夫です」
いけない、ビビさんに気を遣わせてしまった。
皆に事情を話して少しはマシになったと思ったけれど、こういうところは少しも変わっていない。いつまで経っても迷惑ばかりかけてしまう。
「今は揺れも落ち着いてるし、きっと──」
ビビさんが何か言いかけたところで、ドンドンと数回の轟音が鳴り響いた。
「銃声……!?」
「じゃあさっきのは海王類なんかじゃなくて……」
敵船の襲撃に遭ったんだ。わたしがそう言うよりも早く、ビビさんは立ち上がり階段へ向かった。
「ナマエさん、カルー! ナミさんをお願い! すぐ戻るから!」
「あっ……!」
彼女は返事を聞く間もなく部屋を後にした。ビビさんだって危険なはずなのに、すぐに駆けつけてしまうなんて。追いかけようかとも思ったけれど、ナミさんを1人にするのも不安だし……。
わたしはベッドのすぐそばに腰掛けた。ナミさんは変わらず息を浅くしながら真っ赤な顔で眠っている。これだけの騒動でも目を覚さないなんて、よほど体調が悪いのだ。
「ナミさん……はやく、元気になってください」
溢すように呟いたけれど、返事は聞こえなかった。