13:ほどとおい、けれど

 ぼんやりと白い空を眺めた。

 あれ? わたし、何をしてたんだっけ。

 ぐるりと辺りを見渡す。霧に包まれたみたいに、どこもかしこも真っ白だ。

 ──…………! ……ナマエ……!

 誰かが呼んでる。お父さんとお母さんかな?

「お父さん? お母さん!」

 声を上げても返事はない。一体誰に呼ばれているのだろう。

「……おやぁ」

 ふと、背後から嫌な声が聞こえた。
 あの日からわたしの耳を離れない、妙に艶やかな、落ち着いたテナー。

 咄嗟に振り向けば、すぐ側にその男は立っていた。

「娘がいたのか」
「ひっ……!」

 細長い指に頬をするりと撫ぜられ鳥肌が立つ。胃液が込み上げるみたいに気持ち悪い。

 ──……ナマエ……ナマエ……!

 また、誰かに名前を呼ばれた。先ほどよりも声が近くなった気がする。
 すると狂気を孕んだ瞳でわたしを見つめる男が不気味に口角を吊り上げた。開いた口の中から声が聞こえる。

 わたしを呼ぶ、両親の声が。



「──ナマエちゃん!」

 はっと目を開けた。眉尻を下げたサンジさんが心配そうな表情でわたしの顔を覗き込んでいる。
 ゆっくりと半身を起き上がらせれば、首筋に水滴が伝った。どうやらわたしはびっしょりと汗をかいているようだ。

「サンジさん……。すみません、わたしいつのまにか寝ちゃってたみたいで……」
「いや、いいんだ。ただ随分と魘されてたみてェだったから……悪い夢でも見たのかい?」
「夢……見たような気がします、よく覚えてないけど……」
「そうか……」

 サンジさんはそう呟くと、ゆるりとわたしの頭を一撫でしてからキッチンの方へ踵を返した。

 カチャカチャと何か作業をする音が聞こえる。もしや、わたしのために何か作ってくれてたりするんだろうか。
 食がトラウマであることは一味の皆に伝えたような気がしたけど、もしかしてあれも夢だったのだろうか。寝起きで混乱して、なんだか夢と現実がごちゃごちゃになっている。
 とにかく、早くサンジさんに伝えないと。わたしに食事は必要ないって、早く、早く──。

「あの、サンジさん……っ」
「ナマエちゃん、固形物はまだ難しそうでも流動食ならどうかな」
「へっ……」

 そう言ってわたしの前に差し出されたのは小さな鉢に注がれた少量の重湯だ。
 丁寧に濾されたそれは料理というよりもはや白濁した飲み物に見える。

「ナマエちゃん、見たところ飲み物はまだ大丈夫だろ? ずっと何も食わねェのはさすがに身体に悪ィし、食えるもんから口に入れていった方がいい」
「サンジさん……」
「物を食えねェのって辛ェよな……。ナマエちゃんと事情は全く違うが、おれも昔何も食えなかった時があったからさ、よくわかるよ」

 懐かしむみたいに、僅かに眉尻を下げて微笑むサンジさんを見ると、なんだか胸の奥がじんと熱くなるような気がした。
 今はこの船でコックをしているサンジさんが物を食べられない時があったなんて、一体どうしたのだろうか。少し気になるけれど、辛い過去かもしれないし、深く聞くのはやめておこう。

 わたしは前に置かれた鉢を手に取って、じっとそれを見つめた。
 これはほとんど飲み物みたいなものだし、大丈夫だと思う。だけど、そう思って口にした物を吐いてしまったらどうしよう。不安だ。
 重湯を見つめたまましばらく飲みあぐねていれば、サンジさんが不意に「無理しなくていいよ」と優しく声をかけてくれた。

「いえ、……大丈夫、です」

 幾度か息を整えて、恐る恐る口をつけた。じんわりと温かいそれを、ゴクリと喉に流し込む。喉越し、も、ほとんどない。ほのかにお米の味がするお湯って感じだ。

「あ……」

 思わず、涙が溢れた。
 食事というには程遠い流動食かもしれないけれど、調理された物を嫌気なく口にできたことがなんだかひどく嬉しかったのだ。
 ぼろぼろと頬を伝ってくる涙を必死で拭っていれば、突然泣き出したわたしに驚いたサンジさんが焦って背中を摩ってくれた。

「やっぱまだキツかったかな……?!」
「ちがっ……ちがうんです、うれ、うれしくて、」
「! ……そォか。そりゃァよかった」

 そう言って嬉しそうに微笑んでくれたサンジさんは、なかなか止まらないわたしの涙が落ち着くまでずっと側でわたしを慰めてくれていた。

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