ビター・カラメル・スウィート [ 37/39 ]

ビター・カラメル・スウィート


hi

 長い長い睫の先に、透明のビーズが乗っている。



*ビター・カラメル・スウィート*



 初めて歌奈さんを見たとき、私は本当に驚いた。バーのカウンターでグラスを傾けるその人の睫の先に、ビーズがくっついていると思った。だがそれは、当然のことながら見間違いで、彼女はただ、ほろりと静かに涙を浮かべているだけだった。
 友達がトイレの住人になってしまって、カウンターに一人残された私の隣に、歌奈さんは当然のように座った。カラン。氷の崩れる音と一緒に、彼女のすっきりとした妖しげな香水が香る。
 ねえ、なに飲んでるの。肩に手を置きながら耳元で囁くように言われて、同性相手にどきりとしながら、私はしどろもどろに「カシスオレンジです」と答えた。「ふうん」、喉の奥で彼女は笑う。これが男性なら、百戦錬磨の風格さえあっただろうな、と今でもぼんやりと思う。それほど、あのときの歌奈さんの仕草は色っぽかった。
 あたしはね、「うたな」っていうの。「歌奈」って書くから、みんな「かな」って間違えるんだけどね。グラスについていた水滴を指で拭って、カウンターに名前を書くというなんでもないような所作に、なぜかいたたまれなくなって目を逸らす。歌奈さんはそんな私の肩に顎を乗せて、からかうように笑った。
 それから歌奈さんは、色々と私に質問攻めをした。
 大学生? どこの大学? 学部は? ここには誰と来たの? 彼氏はいるの? ――など。
 困りきってしまった私を見かねて、まだ若いマスターさんが申し訳なさそうに眉を寄せ、カウンターの向こうから歌奈さんの肩を掴んで引き離す。ごめんね、コイツ俺の知り合いなんだわ。サービスのカクテルを受け取りながら言われた一言に、私は曖昧に頷くしかなかった。
 それにしても、友達はいつまで経ってもトイレから戻ってこない。もう三十分近くになるため、心配して見に行こうと席を立った瞬間、歌奈さんは私の腕を掴んで笑った。
 戻ってきてね。
 潤んだ瞳、アルコールで上気した頬、濡れた赤い唇。私の目は、それらを順番に追って、心臓に大きなダメージを与えた。どくどくと耳の奥で聞こえる心音は、きっと酔いが回ったせいだと言い聞かせてトイレに走る。マスターさんの、呆れたような声が遠くに聞こえた。



「ちょっと、律。そこ、間違えてる」

「え、うそ。どこ?」

「ほらここ。データのセル、一個ずれてない? これがDの13でしょ?」

 あ、ほんとだ。手元の資料とパソコンの画面を見比べて、画面を指でなぞりながらデータを修正する。こんな面倒な作業、ほんとはしたくないんだけど、と思っていたのがバレたのか、優菜がため息をついた。

「手抜きしたら単位落とすよ。データが狂ってたら元も子もないんだからね」

「うう、分かってるよ。……あ、ともちゃんからメール来た?」

「ううん、まだ。それより誤魔化すな。さっさとやれ!」

「……はぁい」

 一喝されて、いつまで経っても慣れないエクセルと向き合う。そんな作業を続けていると、携帯をいじっていた優菜が「そういえば」と切り出した。
 視線は資料と画面の往復をしたままで、相槌を打って先を促す。

「歌奈さんがね、今度飲みに行こうだって。ほら。今メール来た」

 そう言ってずいっと差し出された携帯の小さな画面には、ハートの絵文字しか使われていないシンプルなメールが表示されていた。差出人は長谷川歌奈だ。

「歌奈さんが?」

「うん。内定も決まったし、ぱーっとお祝いしたいんだって。りっちゃんもぜひに、って書いてあるけど……どうする?」

 優菜の「どうする?」は、「行く? 行かない?」のどうするではなく、「いつにする?」のどうする、だ。ええっと、となんでもないように考えるそぶりをしながら、手帳を開く。そこで絶句した。今月のページには、レポート提出日と試験日以外、なんの予定も書かれていない。
 これじゃあ寂しい子じゃないか。思わず顔をしかめた私の手元を覗き込んで、優菜は「いつでもいいみたいだね」と笑っている。
 この子は明るく勝気で、強引なところがある。だけど、しっかり者ですごく優しい。喧嘩っ早いところもあるけれど、あとでちゃんと自分から謝れる人なのだ。だからみんな、多少の強引さには目を瞑っている。
 優菜が歌奈さんとの飲み会の日にちを決め終えた頃、私のデータ入力も最後までいった。あとは保存して、続きは家でやろう。パソコンのシャットダウンを待っている最中、コートのポケットで携帯が震える。
 誰だろうと思って見ると、そこには知らないアドレスが表示されていた。誰かアドレス変更したのだろうか。しかし、とメールを開こうとした手が止まる。
 このタイミングだ。それに、私に背を向けた優菜が不自然すぎる。まさか、この相手は。

「…………やっぱり」

 そのまさかだった。

「別にいいでしょ? 男に教えたわけじゃないだし。あんなに仲いいのに、アドレス知らない方が変だよ」

 なんで毎回逃げてんの、という優菜の疑問は最もだと思う。けれど、理屈じゃないのだ。歌奈さんは年上だし、教えて欲しいという申し出を理由もなく断るのは失礼だと理解している。でも、どうしたって私は、彼女にアドレスを教える気にはなれなかった。
 よっぽど複雑な顔をしていたのか、優菜がどこか心配そうに覗き込んでくる。今にも謝られそうだったので、私は慌ててUSBメモリを鞄に突っ込み、彼女の手を引いてPC教室を出た。
 コートのポケットの中には、メール画面のままで携帯が黙りこくっている。ボタン一つで未読のメールが開封されることは分かっていたけれど、私は家に帰るまで、そうすることはできなかった。



 私はけっして、歌奈さんのことが嫌いではない。町で姿を見かければ、引っ込み思案で臆病者だと自覚しているこの私が、自ら走り寄って挨拶するくらいには好きだ。それがどれほどのものか、分かってもらえるだろうか。
 ではなぜ、あれほどにも頑なにアドレスを交換することを拒んでいたのかと訊かれれば、正直自分でもよく分からない。ただなんとなく。その答えが、一番正解に近いような気がした。
 今でもこうして私と歌奈さんが交流を続けているのは、なんとも不思議な――けれどとても単純な縁からだった。
 優菜に彼氏ができたのが、二ヶ月前。私達がバーで歌奈さんに出会ったのが、三ヶ月前。この一ヶ月の間は、歌奈さんの「う」の字も聞かないくらい、なにもなかった。けれど嬉しそうな顔で優菜が言った「彼氏できたの!」で、状況は大きく変わる。
 なんてことはない。優菜の彼氏が、あのバーのマスターさんだったのだ。歌奈さんに絡まれてろくに相手ができない私の代わりに、酔ってへろへろになった優菜を看病してくれたのはマスターさんだった。そいつのお詫びに、というお言葉に甘えてそうしたのだが、どうやらそれがきっかけで、優菜は彼に恋をしたらしい。
 ドラマや漫画でよくありそうな展開に、二人してきゃあきゃあはしゃいだのを覚えている。ひとしきりはしゃいだあとで、ふと、私は歌奈さんのことを思い出した。変わった名前の、変わった人。どぎまぎしてしまうくらい、色っぽいあの人は、マスターさん――藤谷慶也さんの知り合いだった。
 そして案の定、優菜に連れられてバーに行くと、藤谷さんの前で一人グラスを傾ける歌奈さんに再会した――というわけである。
 あ、りっちゃんだ。一ヶ月前とは打って変わって、無邪気に笑った歌奈さんの笑顔が、妙に忘れられなかった。


 藤谷さんのバーとは違うお店で、私達四人は鍋を囲んでいた。歌奈さん希望のコラーゲン鍋がぐつぐつと煮え、優菜と藤谷さんを煙の向こうに隔ててしまう。
 他愛のない話をしながら鍋をつつき、笑い合う。それはいつもと変わらない。藤谷さんの隣で顔を真っ赤にしてけらけら笑っている優菜も、それを暖かく見守る藤谷さんも、本当にいつものパターンだった。
 ただ一つ違っていたのは、私の隣にいる歌奈さんがずっと携帯に目を落としているということ。話には参加しているのに、心ここにあらずといった様子でメールばかりしている。
 一体誰としているのだろう。なんとなく気になって、歌奈さんに鍋を取り分ける際にちらっと携帯を覗きこんでしまった。ほぼ無意識だったので、画面に踊る文字を見た瞬間、あ、と気づく。

「ありがと、りっちゃん。あっれ、今日はあんまり飲んでないね」

「え、あ、そんなことないですよー。歌奈さんこそ、ペース遅くないですか?」

「んー……あたしは、ちょっとねえ」

 歌奈さんの内定祝いだというのに、その本人が遠慮がちにしているだなんて。そんなにメール相手が気になるのだろうか。
 開始一時間で限界を向かえた優菜を支えて、藤谷さんがトイレに連れて行く。最低でも十分、長くて三十分は戻ってこないだろう二人を、なんともいえない気持ちで見送った。
 二人並んだ状態で四人テーブルに残されて、異様な空気に包まれる。歌奈さんが大根に箸をつけて、おいしいと笑った。

「りっちゃんってさぁ、料理得意?」

「料理ですか? ええっと……あんまり。でも、一人暮らしなのである程度はできますけど……。歌奈さんは?」

「あたしはねえ……これがもう、さっぱりで。チャーハンなんかべっちょべちょだし、ハンバーグとか中生なのに外焦げてるし。卵焼き作ったら、三回に一回の確率でじゃりっていうよ」

「それは……すごいですね」

 大げさに言っているのか真実なのかは分からないけれど、心底困ったように肩を落とす歌奈さんの様子を見ると、限りなく真実に近いのだろう。三回に一回殻が入るって……相当な確率じゃないだろうか。
 それにしても、意外だった。才色兼備の看板を掲げて回るような人だから、てっきり料理もできるものだと思い込んでいた。一人暮らしだと思っていたけれど、実家生なのだろうか。そう訊くと、歌奈さんは首を振った。やはり一人暮らしらしい。実家なら親がやってくれるから、仕方ないですよ。そんなフォローを用意していた私は、今度こそ言葉に詰まってなにも言えなくなってしまった。
 ずるずるとうどんをすすって、間を持たせる。ええと、どうしようか。歌奈さんは膝の上に置きっぱなしだった携帯を鞄にしまって、ため息と共に笑った。

「じゃありっちゃんは、お菓子とかも得意?」

「得意ってほどではないんですけど、クッキーとかプリンくらいならたまに作りますよ」

「プリン!」

 そうそう、それそれ。大げさに笑った歌奈さんは、花形にくり抜かれたニンジンを齧ってどこか遠くを見る。

「あたしにとって、クッキーがお菓子界のショッカーだとしたら、プリンは幹部なわけ。で、ケーキなんかボスよ、ラスボス。あたしには、スライムが精一杯なのにー」

「スライムって――あ、もしかしてゼリーですか?」

「あったり〜。で、まあ、そのプリンなんだけどね」

 二人は、まだ戻ってこない。

「あのお尻だか頭だか分かんない部分、あるでしょ? あの茶色いの……ええと、なんていったっけ?」

「カラメル?」

「ああそう、それ。で、カラメルって水と砂糖煮詰めて作るじゃない? それだけならあたしにもできると思ってやったんだけど、これがもう……惨敗で」

 鍋は焦げるわこびりついて離れないわで、もう悲惨。あげく苦くって食べれたもんじゃないのよ。
 チューハイを飲み干した歌奈さんが、店員さんにカルピスサワーを注文した。すぐに運ばれてきたジョッキに、彼女はためらいなく口をつける。
 焦げに焦げまくったカラメルか。よほど苦いんだろうな。

「でも、苦手なのに作ろうって思うのがすごいじゃないですか。私だったら、苦手なことわざわざしませんもん」

「あたしだって、できればそんなことしたくないのよ? でも、アイツがプリン好きだって言うから」

 アイツ?
 きっと歌奈さんは、今自分がどんな顔をしているのか気づいていない。優しくて、でもどこか切なげに、携帯に目を落としている。
 なんだろうか。きゅう、と胸が痛んだ。

「大学の、サークル仲間なんだけど。ハタチ過ぎてんのにガキっぽくって、お子様で、ほんっと馬鹿な奴なんだけどねー? そいつが、プリン食いたい〜って突然言い出したの」

「歌奈さん、なんのサークルなんですか?」

「あれ、言ってなかった? サッカーのなんだけど。ちなみに、そいつ一応エース」

 アイツ、という人の話から逸らそうと振った話題も、するっと戻されてしまう。なんで話を逸らそうとしたのかも分からない。
 ただ、急に胃の辺りが重たくなった。

「一人暮らしの女だったらプリンくらい作れるだろ、とか無茶言い出しやがってねー。あたしはこれまでコンビニにお世話になってたっての。なのになんでか、作っちゃってて」

「へえ……」

「プリン本体は不気味なねっとりスポンジになるわ、カラメルはにっがいわでもう最悪。ムカつくわ情けないわで光輝に電話して、言ってやったの。作ってやったから食いに来いってね。そしたらね、アイツ食べながらマズイだのなんだの文句ばーっかり。あげく自分の方が上手く作れるとか言い出して、ほんっとムカつく」

 桃のチューハイを飲むフリをして、出てこない言葉を誤魔化した。ムカつく、と零す歌奈さんの顔は穏やかで、鍋に伸ばした箸が踊っている。

「でもね、文句言いながら全部食べてさー。ばっかじゃないの、ってね。まったく、男ってわっかんないわー」

「ええと……歌奈さん、その人……。……彼氏、なんですか?」

 やけに口の中がからからだ。

「え? ええー? 彼氏? あー……微妙、ってやつ、かな」




 そこから、よく覚えていない。
 ふと気がついたら、自分の部屋に戻ってきていた。ベッドに背中を預けて座ったまま寝ていたらしく、ごきりと首がなった。
 なぜか手にはコンビニの袋が握られていて、中には真っ白な砂糖とプリンの素が入っている。
 アルコールが残っているのか、ぐらぐらする頭のまま、キッチンに立つ。
 ぐつぐつ。鍋に砂糖と水を入れて、ぐつぐつ。真っ白な砂糖は、次第に色を変えていく。あああ、もったいない。こんなにも真っ白で、綺麗なのに。そんな風にさえ、思った。
 完成したカラメルが甘く香ばしいにおいを放っている。誘われるように中指を突っ込んで、その熱さに驚いた。
 じんじんとした痛みを持つ中指に、とろりとしたカラメルが絡みつく。ゆっくりと口に含んで、思わず笑い出したくなった。

「なにこれ、にっが……。まっず……」

 プリンなんて、何度も作ったことがあるのに。
 カラメルなんて、余裕中の余裕だったはずなのに。

「あーあー、もう……。お酒って、こわいなあ……」

 きゅう、と喉の奥が苦しくなった。じわりと熱を帯びた目元から、なにかが順番に零れ落ちていく。
 だらしなくキッチンの床に座り込んで笑いながら泣く女の姿は、さぞ不気味なことだろう。自分でも気持ちが悪いと思っているくらいだ。
 なにに対して泣いているのかも、さっぱり分からない。




 ――ねえ、りっちゃんは? 好きな人とか、いないの?



 分からない。本当に。
 ただ、あれからどれだけの時間が経とうとも、あの日食べたカラメルの苦さが舌に残っているのだ。



[*prev] [next#]
しおりを挟む

「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -