太陽と月 [ 38/39 ]
太陽と月
hi「……少しだけ、昔話をしようか」
「昔話、ですか?」
「ああ。昔の、お話だ」
太陽の国と呼ばれる国が、ありました。
そこから遠く離れたところに、月の国と呼ばれる国が、ありました。
二つの国はやがて知り合い、交流を持ち、そして、大きな大きなケンカをすることになったのです。
「けんか……ですか」
「そう、初めは些細なことだったのかもしれない。けれどね、いつの間にか、誰にも止められない大きな争いになっていた。気がついたときには、周りの色々な国々を巻き込んでいたんだよ」
太陽の国はとても小さくて、反対に、月の国はとても大きくて、二つの国の力は、圧倒的に違うように思えました。
どちらの国も、自分達の生き方と考え方に、揺るぎのない自信と誇りを持っていました。
誰もが、自分達こそが正義だと、そう考えていたのです。
「『正義』――、むずかしい言葉ですね……」
正義を掲げ、二つの国は激しくぶつかり合いました。
血を血で洗う、そんな日々が続きました。
太陽の国も、月の国も、次第に悲鳴と血で染まっていきました。
なんと凄惨な光景でしょう。なんとおぞましい光景でしょう。
どれほど目を背けたくなる現実でしょう。
彼らが立ち上がるのは、人を守るためでしょうか。それとも、殺すためでしょうか。
どちらもが正解で、どちらもが間違いなのです。
誰かがほろほろと流した涙は、真っ赤な血を洗い流すことはできませんでした。
「どう思う?」
「え?」
「彼らがやってきたことを、どう思う?」
「えっ……と。……せんそう、とは、愚かなことだと思います。なにがあっても、たくさんの人を――いいえ、数に関係なく、人を殺めることは、あってはならないと、そう思っています」
「――そうだね。その思いを、忘れないで」
太陽の国は、たくさん月の国の人々を殺めました。中にはとても残酷な方法で、彼らの命を無理やり奪っていきました。
月の国も、たくさん太陽の国の人々を殺めました。中にはとても残酷な方法で、彼らの命を無理やり奪っていきました。
しかし彼らは、血を見たかったのでしょうか。人が事切れる様を、業火に呑まれる様を、見たかったのでしょうか。
「命を奪うことは、とても恐ろしいことだ。けれど我々は、いつもどこかでそれを正当化してしまう。いけないことだよ。そこは忘れないでほしい。けれどね。――彼らが命を賭して守ろうとした未来に生きているということを、どうか覚えていてほしい」
「あ……」
ある日、怪我をした月の国の兵士が、太陽の国でばったりと倒れていました。
日もとっぷりと暮れた、夜のことです。
祖国と変わらぬ月と星の明かりとが、傷だらけの兵士を照らしました。
兵士は水を飲もうと、川岸へと這っていきました。落ちないように気をつけながら水を掬っていると、後ろに人の気配を感じました。
ああここまでか、と、兵士は諦めたように笑いました。
太陽の国の人々は、月の国の人々を異形と呼んでいました。
月の国の人々は、太陽の国の人々を下等な生物と呼んでいました。
『だから』、ころしてもいいのだと、なにかを押さえつけてそう思っていました。
「それで……どうなったのですか?」
死ぬのだとしても、誇りは捨てるまい。
月の国の兵士は震える手で武器を構えました。――途端に、小さな悲鳴が聞こえました。
小さな小さな、とてもか細い悲鳴でした。
おや。
目を凝らすと、そこにいたのは若い娘でした。木桶を持ち、ぎゅうっと目を瞑っているらしい娘は、痩せっぽちで随分と汚れています。
娘は震える声でなにかを言いました。それはおそらく、太陽の国の言葉で、「殺さないで」と言ったのでしょう。
兵士は武器を下げました。殺す必要も、殺される心配もないと思ったからです。
娘はがたがたと震えていましたが、長い間迷うそぶりを見せて、恐る恐る、近づいてきました。
傷だらけの身体を見て、また小さく悲鳴を上げ、なにか決心したように布を濡らして、兵士の腕をそっと掬い上げたのです。冷たい水が、傷口にぴりりとした痛みを与えました。
娘はなにかを言っています。けれど、兵士には分かりません。
兵士はどうしようかと考えて、娘にお礼を言いました。ありがとう、お嬢さん。けれど娘にも、兵士の言葉は分かりません。
分からないはずなのに、娘ははっとしたように兵士を見て、困ったような顔をしたまま微笑みました。
その顔は、今にも泣きそうでした。
じいと見ていると、娘は月明かりでも分かるほどに顔を真っ赤にして走り去っていきました。
月の国の兵士はこのまま寝てしまいたいほどに疲れていましたが、夜が明けてしまえば太陽の国の人に見つかってしまいます。鉛のように重たくなった身体に鞭を打ち、兵士は人目につかないところへ隠れました。
翌朝、眠っていた兵士が目を開けると、そこには太陽を背負った痩せっぽちの娘が、不安そうな顔をして覗き込んでいました。
目が合うなり勢いよく顔を俯かせたので、兵士は娘の首が取れてしまうのではないかと驚いたほどです。
娘はまた、何事かを言いました。けれどやはり、理解できません。太陽の国の言葉はとても難しいのです。
兵士は言いました。「これ以上私と関わると危ないから、もう来ない方がいい」しかし娘は、首を傾げてしまいます。
困った子だ。いっそ怒鳴りつけてやれば、怖くなって逃げ出すだろうか。よし、と息を吸い込んだ兵士の目の前に、ずいっとなにかが差し出されました。
「パンかなにかですか?」
「うーん、惜しいね。正解は木の根、かな」
「木の根!? そのようなもの、食べられるのですか?」
「……食べるしか、なかったんだよ」
兵士はとても驚きました。おそらくこれは、娘が持つごくごくわずかな食料の一部――あるいはすべてなのでしょう。それを渡そうとしているのです。
驚いて固まってしまった兵士を見て、娘は急に慌てだしました。
木の根を指差し、口を指差し、ぱくぱくと食べる仕草を繰り返します。食べ物だと伝えたいのでしょう。
そのあまりに必死な仕草に、兵士はとうとう笑いを堪えきれなくなりました。
傷口が痛むのも構わずに大きな声で笑っていると、娘は一瞬きょとんとして、小さく可憐な声で、同じようにくすくすと笑い出しました。
言葉はこれっぽっちも分からないのに、笑い声だと分かるのが、とてもとても、不思議でした。
月の国の兵士は、ゆるく編まれた娘の髪に手をやって言いました。
「『太陽の国の人々は、夜空のような、とてもうつくしい色の髪と目をしている』」
太陽の国の娘は、これ以上はないくらいに顔を真っ赤にさせました。
娘の震える手が兵士の髪にそっと触れて、ためらいがちに視線が合わされました。
そして娘は、もごもごと小さく、なにかを言いました。
兵士にはその言葉がなにか分かりませんでしたが、ふわりと、思わず笑っていました。
「……その女の子は、なんと言ったのですか?」
「さあ? それは彼女にしか分からないよ。兵士には、太陽の国の言葉が通じないのだから」
「では、そのあと二人はどうなったのですか……?」
「さあ……。どうなったのだろうね」
二人がどうなったのか、誰も知りません。
やがて争いは終わり、太陽と月の国はぎこちなくも手を握り合いました。
あれだけの悲劇を生んだ戦いは、その理由すら分からなくなるほどに、歴史の一部となりました。
「言葉が分かるようになった今なら、二人の未来も違うものだったのかもしれないね」
怖くて、つらくて、悲しくて、けして軽視してはいけない歴史なのです。
もしも。
もしもあのとき、娘の言葉が兵士に通じていたら、兵士は笑ったのでしょうか。
――月の国の兵士は、太陽のような髪と、早朝の空のような瞳で、娘の伝えようとする言葉を聞いていたのです。