小さな花 [ 36/39 ]
小さな花
hi 駅前のパン屋の角を曲がり、商店街を真っ直ぐに進む。不法駐輪の道を抜けると、ゆるやかな坂道に入った。ゆるやかだが長く続くその道はなかなかしんどいもので、自転車でえっちらおっちら上りきると、秋だというのにうっすらと汗ばんで息が弾む。
川沿いにそのまま進み、幼稚園の脇をすり抜けて小さな橋を渡り、昔ながらのたばこ屋の隣の隣のそのまた隣が、どうやら久坂ひじりの家らしい。
見た目は普通の一軒家だ。周りが年季の入った日本家屋が続いているだけに、リフォームしたばかりらしいその家は少々浮いている。クリーム色の外壁はまだ綺麗で、庭には色々な花が植えられていた。ただし隣の家は土壁の瓦屋根。余計なお世話かもしれないが、少し空気が読めていないように感じてしまう。無論、家をどうするかだなんて個人の自由なのだけれど。
手帳に書いてある住所と名前を確認し、表札と照らし合わせる。シルバーのプレートに、ポップな字体で久坂家のメンバーが書かれていて、久坂ひじりが次女だと知った。
携帯を開くと、約束の五分前だった。ちょうどいい頃合だろうとインターホンを押す。
『――はい』
少し高い、けれど落ち着いた声が機械越しに返ってくる。
「家庭教師の花柳ですけど」
『あ、はい。少々お待ち下さい』
庭の金木犀が甘い香りをこれでもかと主張するそんな季節に、彼女と出会った。
「先生の大学って、どんなとこなんですか?」
蜂蜜をたっぷり溶かしたカフェオレを飲みながら、ひじりが尋ねてきた。机の上には解きかけの問題集が広げられているが、どうやらしばらくは向き合わないと決めたらしい。あまり根を詰めすぎても意味がないので、龍太郎もひじりの母親が用意してくれたコーヒーに口をつけた。
先生の大学って、どんなとこなんですか。ひじりは見た目を裏切らず、控え目な性格だった。こうやって休憩のときに自分から話を振るようになるまで、大分時間がかかったものだ。
活字で見るとそうでもないのだが、ひじりのイントネーションは独特だ。――独特、というと失礼だろうか。変なわけではない。ただ、龍太郎には聞きなれないイントネーションだった。
久坂家は父親の転勤によりこの町に越してきたのだが、生まれてからそれまで育ってきた場所というのが関西だったのだ。だから当然、ひじりは関西弁を話している。龍太郎に対しては常に敬語なのでそうそう目立つわけでもないが、やはり発音は異なっていた。それに時折、「〜しはりますか?」とこちらでは使わないような敬語を聞いた。
最初はああこれが関西弁なのかと驚いていたが、今では随分と慣れた。初めて会ったとき、「大阪弁ってかわいいね」と言うと、彼女は困ったように笑って「これ、大阪弁じゃないんです。関西弁って、色々あるんですよ」と言った。
北海道や沖縄の方言のように、まったく意味が通じないわけでもないし、コミュニケーションは至って楽だ。「あ、すいません。このカップもうなおしといていいですか?」と言われたときには、どこも壊していないのに、と不思議に思ったけれど。
一年も彼女の家庭教師をしていると、もう「ん?」と思うことは少なくなる。「なおす」が「片付ける」の意味であることも、自分の中では常識となりつつあった。だから家でついつい「食器なおせよ」などと口にしてしまい、双子の兄に「はぁ?」と眉を顰められてしまうのだが。
「先生?」
「ああ、ごめん。俺の大学だよね。うーん……国際的ではあるけど、別に普通かな」
呼びかけも「せんせい」というよりは「せんせえ」だ。なんとなく、甘えるような口調に思えてくすぐったくなる。
ひじりはカフェオレを飲み干すと、パーマをあてたばかりの髪をくるくるといじって視線を泳がせた。カレンダーとパソコンを交互に見て、「学祭って……」と独り言のように呟く。
そういえば幼馴染の妹も、この間パーマをあてていたっけ。
「あの、学祭って、一般の人も行けるんですか?」
「もちろん。地域の人とか、高校生とかも結構来てるよ。久坂さんも来る? 息抜きも必要だし」
「いいんですか?」
「おいでおいで。受験生のガス抜きと、大学に対するイメージの向上にはぴったりだよ。……あ、でも逆に下がったらどうしよう。羽目外しすぎてる奴もいるしなあ……」
「大丈夫ですよ、先生の学校ですもん。絶対楽しいですって」
学祭が開催されている期間を告げると、ひじりは嬉しそうに笑ってカレンダーに印をつけた。いつにしよっかな、と歌うように呟くものだから、心から喜んでいることが伝わってきてさらにくすぐったくなる。
勉強を再開して終了の時間になると、ひじりはいつものように玄関まで龍太郎を見送った。じゃあね、と手を振ると、門を隔てたところで彼女が小さく声を上げた。
珍しく引き止めるようなその所作に、思わず首を傾げる。
「あっ、あの、先生は、いつ学祭行きはるんですか?」
「んー、まだ決めてないし……久坂さんが来る日に合わせようか? 道とか分からないだろうし、案内するよ」
売り子の呼び込みの凄まじさを思い出して苦笑する。ひじりのように大人しく、押しに弱い性格だと全部見て回る前に金が尽きてしまうだろう。進められるがままに買っていく姿が容易に想像できて、龍太郎はそう言った。
ひじりは途端に火がついたように顔を真っ赤に染め上げて、「え、あ、や、その、え、」などと意味のない言葉をぽろぽろと零している。
かわいいなあ。心からそう思った。
容姿は普通の、どこか垢抜けないただの女子高生だ。化粧をしているわけでもないし、素材が格別いいわけでもない。それでも、目立ちもしない、たった一つ額にできてしまった赤ニキビを神経質なまでに気にしていたり、太く黒々とした髪のせいで野暮ったく見えてしまうことを悩んでいたり、ファッション誌を手に取りたいのに恥ずかしがって素通りしてしまったりするなど、こちらからすれば「どうしてそんなに気にするの?」と尋ねたくなるようなところが、なんともいじらしい。
周りの女の子達は常に綺麗に着飾っていて、けらけらころころ笑ってかわいい。話も弾むし、一緒にいて楽しいし楽だ。けれど、一緒にいてほっとすることはない。そういう点で見ると、ひじりは癒し系なのかもしれなかった。
「いいん、ですか?」
いいんですか、はひじりの口癖だ。「〜してあげようか」と龍太郎が言うと、いつも彼女は「いいんですか?」と恐る恐る伺うように見上げてくる。そして「もちろんいいよ」と返すと、ふにゃっと口元がほどけて、「ありがとうございます」と返ってくる。
そのたびに龍太郎は、ああかわいいなあ、と心中で零すのだ。ひじりはころころとした子犬を連想させる。少し離れて後ろをついてきて、時折振り返ってやると必死で駆けてくる。その尻尾は、常にぱたぱたと左右に揺れているのだからたまらない。
「じゃあまた都合のいい日をメールしてもらえる? 友達とか誘うなら、それでもいいし。一人で来るなら、晩ごはんでも食べに行こうか。あ、でも受験生が丸一日遊ぶのはよくないかな」
「そんなことないです! うち別に一日くらい平気やか――あ、平気ですから! あの、もしご迷惑でなければ……」
「そう? じゃあおいしいお店調べておくよ」
そういうことには兄の方が詳しい。聞けばいくつかピックアップしてくれるだろう。
目を輝かせるひじりに手を振って、今度こそ自転車に跨った。
ペダルを漕ぐ。すっかり暗くなった午後六時。風を切って坂を下ると、あの日と同じ金木犀の甘い香りが全身を包み込んだ。