プリムローズの飛翔 [ 35/39 ]

プリムローズの飛翔



(夢で逢えたなら、とても幸せかもしれないね)
(それなのにどうして、涙が止まらないんだろう)



 馬鹿ね。松明に飛び込み、爆ぜる虫の音を聞きながらアンネリーゼは言った。赤銅色の髪を頭の高い位置で一つにくくり、手には洗濯籠を抱えており、その中には真っ白な敷布を大量に入れている。
 身を焦がす恋、燃え上がるような恋。女なら大抵は憧れる謳い文句の成り立ちが、このような羽虫から来ていると思うと一気に興も冷める。アンネリーゼは暗闇の中、静かに回廊を進んだ。
 鉄色の甲冑に身を包んだ兵士が槍を携えて立ち並んでいる。ちらとこちらを見る彼らの様子は、どこか落ち着きに欠けているようにも思えた。よいしょ、とずれてきた洗濯籠を持ち直し、担当している部屋を目指す。
 アロイジウス・レームブルック率いるテュヒュール騎士団は、この国で最も優秀な騎士団だ。帝国騎士の称号を得た者だけが入隊でき、彼らは王と同じ宮廷内に身を置くことが許される。武人の中の特権階級とでも言えばいいだろうか。アロイジウスのように騎士団長ともなると、発言力も強い。
 彼はこの国の英雄だ。貴族から平民まで、幅広くその名を知れ渡らせている。彼に憧れる娘は多く、かつてのアンネリーゼもそうだった。あくまでも過去形だ。
 こうして洗濯籠を抱えてこの回廊を渡る以前は、彼女は庭の隅に造られた洗濯場で敷布を洗うただの洗濯女だった。侍女というほどのものでもなく、朝から晩まで敷布と格闘していた。
 その頃は当然、テュヒュール騎士団の団員達と顔を合わすこともなく、ましてやアロイジウスなど雲の上の人物だった。彼の人物像は、人づてに聞く噂だけで形成され、アンネリーゼの中で彼は神に次ぐ美貌の持ち主となった。
 強さと知性を備え、女子供に優しく、男気に溢れた秀麗な騎士団長。髪は闇に溶ける漆黒、瞳は雪に落ちた影の青みがかった灰色。
 もしも彼に見初められたら――とありえないことではあったが、想像するだけで胸が一杯になった。いつか彼を、一目でいいから見てみたい。そんな思いがあったからこそ、彼女はつまらない毎日を耐え忍ぶことが出来たのだろう。



 だがそれも、三ヶ月ほど前についえた。夢も希望も、確かにそこにあった日常さえも崩れ去っていった。
 きっかけは別段特別なことではなかった。ただいつものように、先輩達に渡された――押し付けられた、とは言えない――敷布を抱え、冷たい井戸水に手足を晒しながら洗濯板と睨み合いをしていたときだった。
 たまたまその日は風が強く、洗う前の敷布が一枚、強風に煽られて飛んでいってしまったのだ。そんなことが分かったら嫌味だけでは済まされないと慌てたアンネリーゼが敷布を追いかけた先は、歴代皇帝の石像が並ぶ庭園だ。十四代皇帝――自信はないが、おそらくそうだろう――の頭に引っかかった敷布を四苦八苦しながら取り外し、周りに誰もいないことを確認しようとして――彼女は凍りついた。
 現皇帝の石像の前で佇む一人の男性の姿が、遠目ながらに確認できた。
 男はテュヒュール騎士団の軍服をまとい、裏地が赤の黒い外套を風になびかせている。その髪はまさに闇に溶ける漆黒だ。
 どくり、とアンネリーゼの心臓が大きく跳ねる。後姿なのでよく分からないが、あれはもしやアロイジウスではないだろうか。腰には荘厳な長剣を佩き、体つきもがっしりとしている。想像していたのは長身痩躯の一見優男風の姿だったが、実際騎士ともなれば筋骨隆々としていても不思議ではない。
 アンネリーゼは十四代皇帝の台座から降りるのも忘れて、彼に見入っていた。ここから彼までは大分の距離があり、さすがの騎士団長といえども気づく気配はない。それとも、なにかに集中しているのだろうか。
 アロイジウスらしき男は、現皇帝の石像の前に膝を折り、深くこうべを垂れてから立ち上がった。そしてそっと手を伸ばし、石像の頬に触れ――信じられないことに、彼は冷たい唇に自身のそれを優しく重ねた。

「――!?」

 驚愕のあまり瞠目したアンネリーゼの目には、小首を傾けて石像に口付ける男の姿がしっかりと焼きついてしまった。不幸にも彼が口付けるため、体勢を変えたおかげでしっかりとその光景が見えてしまったのだ。
 予想外の衝撃に、アンネリーゼの頭は混乱していた。ぐるぐると様々なことが駆け巡り、最適な答えを導き出せない。逃げるか隠れるかしなくては、と思うのに、身体はそれこそ石像のように硬直し、思うように動かなかった。
 やがて熱い抱擁まで石像に交わした彼が、台座から降りて振り返る。
 その瞬間、彼女の心臓は氷の杭で打たれたかのように悲鳴を上げた。

「誰だ貴様は!」

 雄雄しく、鋭い声に捕らえられる。大股で向かってくる彼を見て、アンネリーゼは泣きたくなった。

「答えろ。貴様は誰だ?」

「ア、アンネリーゼ、です……」

「聞こえない! もう一度言え」

「アンネリーゼですっ」

 鬼のような形相であっという間にアンネリーゼの腕を掴んだのは、優男風の美青年でもなければ肉体美を誇る美青年でもなかった。
 髪は漆黒、瞳は雪の影を映した青みがかった灰色。額の左から鼻筋を通り、右の顎まで走った一線の傷跡が目を引き、眉根を寄せずにはいられない無精ひげが剃られることなく残った顔。長い前髪は七対三の割合で左右に分けられ、それがさらに傷を目立たせている。
 必要のなさそうな筋肉まで鍛え上げられた肉体は、隆起した肩と分厚い胸板が黙して語っていた。実際、剣だこの出来た手に掴まれたアンネリーゼの腕は、今にも折れそうなほど痛い。
 美青年とは到底呼べない彼――薄汚い粗雑な筋肉男――の視線から逃れるように、アンネリーゼは涙目で目線を逸らし、そのことを激しく後悔した。
 彼の軍服の胸元に、テュヒュール騎士団の長であることを示す、唯一無二の徽章が付けられていたのだ。
 それは間違いなく、目の前の彼――薄汚い粗雑な筋肉男かつ、男の石像に口付ける変態――が『あの』アロイジウスだと証明している。
 築き上げてきたたくさんのものが、一気に崩壊した瞬間だった。

「貴様……見たか?」

 なにを、とは言わない。だからアンネリーゼも言わなかった。
 ただ黙って首を左右に振り、零れそうになる涙を敷布で拭う。しかし、彼はそれを許してはくれなかった。乱暴に台座から引き摺り下ろされ、アンネリーゼはしたたかに全身を地面に打ち付ける。依然腕は彼に掴まれたままなので、肩に余計な負担がかかって凄まじい痛みを訴えた。
 腕を掴む手に、さらに力が込められる。

「正直に言え。――見たか?」

 なぜこんなことになっているんだろう――急激な展開の速さに、アンネリーゼの思考はついていかない。
 憧れていた騎士団長は実はとんでもない野獣で、恋にも似た淡い想いは様々な面から打ち砕かれた。
 嗚咽を漏らして泣く彼女を冷ややかに見下ろしたアロイジウスは、ため息を一つついて空いた方の手で長剣の柄に手を伸ばす。
 その音を聞いて、彼女は勢いよく顔を上げた。

「答えないなら構わない。女を一人消すくらい、俺には造作もないことだ」

「っ! 見てません! ほんとに、なんにも! これっぽっちも、見てません!」

「なにを?」

「あなたがせき――、っ!」

 言いかけてアンネリーゼは己の失言に気がついた。
 慌てて敷布で口元を覆うも、もう遅い。剣呑に細められた灰色の双眸とは裏腹に、アロイジウスの口端はにいと吊り上がっている。
 彼は「そうかそうか」と言いながら、器用に片手で長剣を抜き放った。きらり、と陽光を受けて鋼が煌く。

「ひぎゃあっ」

「……もっと色気のある声を出せ。つまらん」

 顔の真横に刃を寄せられ、色気のある声が出せる侍女がいたら見てみたいとアンネリーゼは思考の隅の方で感想を漏らす。
 ひんやりとした感覚が頬に添えられ、それはゆっくりと降下して首筋へと宛がわれた。
 涙と一緒に鼻水が零れ落ちる。アロイジウスはそれを見て眉根を寄せると、呆れたように嘲笑を浮かべた。

「喜べ、天下のテュヒュール騎士団長に斬ってもらえるんだ。貴様は女だから、せめてもの情けで苦しまずに逝かせてやろう」

「こ、ころさないで……! 死にたく、ないの」

「ほう……?」

 嘲るような口調は、アンネリーゼからなにかを待っているようにも聞こえた。

「誰にも、言いません、から……! なんでもしますから! へ、へいかの、姿絵だって手に入れて――」

「乗った」

「それに…………って、え?」

「乗ったと言った。『なんでもする』という今の言葉、決して忘れるな」

 薄汚い粗雑な筋肉男かつ石像に口付ける男色の変態であり、人でなしの泣く子も黙る鬼畜団長は、長剣を鞘に戻すとその手でアンネリーゼの顎を掴み、無理やり上向かせた。
 雪の影の色をした瞳が、じっとアンネリーゼを検分する。

「いいか? 喋れば殺す。逆らっても殺す。呼べば三秒以内に返事をしろ。『はい』以外の返事は受け付けん。質問はするな。逃げるのは自由だが――できると思うなら、やってみろ」

 この瞬間から、アンネリーゼの人生は大きく変わってしまったのだった。



 あの日のことを思い出していたアンネリーゼは、目的の扉の前で立ち止まって大きく息をついた。
 すべてはあの日から変わってしまった。夢も希望も、理想も、幻想も、現実も、日常も、すべてが。
 気づけばいきなりただの洗濯女から騎士団長専属侍女へと昇進、周囲の妬みそねみやっかみを一身に受けるおまけつき。田舎のお父さんお母さん、娘は殺されるかもしれませんと手紙をしたためれば、封筒に入れる前にアロイジウスに取り上げられて嘲笑われ、「出せば?」の一言で終わった。もちろん手紙は引き出しの中に眠っている。
 何度逃げ出そうとしたか、もう覚えてはいない。だが確かなことは、逃げられるはずもないという事実が残っただけだった。
 鬱々とする気分を首を振って追いやり、アンネリーゼは片足を上げて洗濯籠を太腿の上で支えると、慎重に扉を叩いた。

「アロイジウスさま、アンネリーゼです」

 入れと中から促され、アンネリーゼは一度洗濯籠を置いて扉を開ける。アロイジウスに気遣いなど期待するだけ無駄だ。部屋に入り、音を立てないように静かに扉を閉めると、彼女は洗濯籠を持って彼の前に膝をつく。
 寝台に腰掛けたままの彼は視線一つ向けはしなかったが、それでもこれはやらなければならない絶対の儀式にも近いものだった。

「持ってきたか?」

「ええと……はい。これですよね」

 洗濯籠の敷布を掻き分け、中に隠された一本の匙(スプーン)を取り出す。食事の際に出されるものよりも細いそれは、精巧な細工の施されたティースプーンだ。
 ようやくアンネリーゼに――というよりは、ティースプーンに――目を向けたアロイジウスは、満足そうに目を細めてそれを手にする。色々な角度から見て確かめたのち、愛おしそうに軽く唇を寄せて微笑んだ。
 うげ、と思わず零れそうになる声をなんとか嚥下して、アンネリーゼはひたすら時が過ぎるのを待ちわびる。
 なにが悲しくて泥棒まがいのことをしなくてはならないのだ――と心中でぼやくも、今に始まったことではないので、どうしようもないことはとっくの昔に承知していた。

「アンネ」

「はっ、はい!」

 突然名を呼ばれ、過剰に反応したアンネリーゼを胡乱げに見たアロイジウスだったが、すぐに破顔した。

「よくやったな、イイコだ」

 そう言ってがしがしと犬猫でも扱うように頭を撫でられる。そのときばかりは薄汚い粗雑な以下省略の男も、優しげな人間に思えてしまうのだから不思議だ。恋い慕う相手の私物を手に入れては、宝箱と称する箱に収めていく危ない人間ではあるけれど。
 この大きな手は嫌いではない。アロイジウスは、アンネリーゼを殴ったり蹴ったりしない。その代わり言葉の暴力は抜群の破壊力を持っているし、殴る蹴るはなくとも本気で死の危険を感じたことはある。
 人生をこれでもかと変えた目の前の男をどうしようもなく憎たらしく思う反面、その正反対の感情を抱く自分がいる矛盾に、アンネリーゼは苦悩の日々を送っていた。
 愛しいとは思うが、恋愛感情ではない。そこは間違ってはいけない。彼女は誰とはなしに弁解する。
 アロイジウスは叶わぬ恋をしていて、それでとても一途なのだ。ほんの少し方向性が間違っていても、恋する人間を応援したくなるのが乙女というものだとアンネリーゼは思っている。
 喩えるならば母親が子供を見守るような、はたまたそれこそ犬猫が主人を慕うような、そのような『愛しさ』なのである。
 アンネリーゼがいなければ彼の宝物は増えないので、彼は結局のところ彼女を殺せない。ある意味利害関係の一致した関係だと言えよう。

「あのー……、アロイジウスさま」

「ん?」

「アロイジウスさまは、その……陛下の、どこをお好きになられたんですか?」

 愛おしそうにティースプーンを眺めていた目が、途端に険しくなった。
 ああしまった、質問はご法度だったとアンネリーゼは己の浅薄さを呪う。
 だが予想とは裏腹に、アロイジウスは小さく唸って目を伏せた。

「顔」

「はい?」

「――というのは冗談だ。あえていうなら……闇、だな」

「え、あ……。やみ、ですか」

「あの捻くれ具合に惚れた。あの方はご自身から常に目を背けておられる。他者の言葉も、思いも、すべて捻じ曲げて考えられる。真っ直ぐに受け止めない。被害妄想が激しいし、安直な考えしかできない。実に陳腐なお言葉ばかり述べられる」

「…………」

 アンネリーゼは沈黙以外に、その場を乗り切る術を知らなかった。
 下手をすれば――もしかするとしなくても――これはかなりの不敬罪に当たるのではないだろうか、と思う。
 確か尋ねたのは好きなところだった気がする。しかしこれは、どう聞いても悪口にしか聞こえない。

「だが、ご自身の弱さだけは、しっかりと受け止めておられる。自分の弱さを知りつつ、歪みながらも必死で前に進む――実に愚かで、誰よりも愛おしいよ」

 あなたは半端なく捻じ曲がってますね、とは言えなかった。
 想い人の話をしているアロイジウスの顔といったら、それもう幸せそうで。なおかつずっとアンネリーゼの頭を撫で続けるものだから、それを妨げるような言葉など口には出来なかったのだ。
 今のアロイジウスはとても機嫌がいい。ならば、あと一つくらい質問しても許されるだろうか。

「アロイジウスさまは……昔から、男性がお好きなんですか?」

 ぐしゃり。心地よく撫でられていた頭が、潰されんばかりに強く握られた。同時に失敗だったと悟るも、アンネリーゼに逃げる手段は残されていない。

「質問はナシだ。もう忘れたのか? 相変わらず軽い脳ミソだ」

「いたいですいたいです! すみませんっ、もう聞きません! だからゆるしてくださいいーーーー!」

 目の際に涙が浮かび始めた頃やっと頭から手を離したアロイジウスは、寝台脇の小棚から煙管を取り出してぷかぷかと吹かし始めた。くゆる紫煙がアンネリーゼの苦手とするものだと知っていて、わざと吹きかけてくる。
 むせる彼女を面白そうに一瞥したあと、彼は七三に分けられた前髪を掻き上げ、後ろに流した。そうすると、顔の傷と雪の影色をした双眸が露わになる。
 アンネリーゼは唐突に、友人の「アロイジウスさまって、きちんとなさればきっと端整な顔立ちなのよ!」という希望的観測の言葉を思い出した。
 すぐにありえないと打ち消して首を振る。にじり寄ってくる彼から両手両足を使って後ずさり、彼女は安全を確保できるだけの距離を取ろうと試みた。

「逃げられると思うならやってみろ――これも初めに言ったはずだな」

「ふぎゃあっ!」

 とん、と煙管をひっくり返して、灰を足のぎりぎりのところに落とされる。もしも咄嗟に足をどかさなければ、確実に火傷していただろう。
 涙目で見上げた先には、したり顔のアロイジウスが普段とは違った雰囲気でアンネリーゼを見下ろしている。
 ――この三ヶ月で、気づいたことがある。アロイジウスは案外着膨れするたちらしく、なにも着ていない状態だと無駄な筋肉はそこまで目立たない。筋骨隆々としているのは確かだが、肩にスイカを入れ込んだ状態でないことは見て取れた。
 そして今、彼は自室でのんびりと過ごしていたせいか上着を羽織っていない。傷だらけの引き締まった身体は、自然とアンネリーゼの目を引く。
 見惚れかけていた彼女は、背中に固い壁の感触を感じてさっと血の気を引いた。いつの間にか壁際まで追い詰められていたらしい。
 意地悪く口角を吊り上げたアロイジウスは、彼女に覆い被さるように身を屈めると、片手を壁についてわざとらしく紫煙を吐き出す。
 盛大にむせる彼女の耳に笑いながら歯を立て、紫煙を送り込むようにそっと囁いた。

「答えてほしいか?」

「ととととと、とんでもございませっ……!」

「なら訊くな。……まあ答えたところで、貴様の身が危うくなるだけだがな」

 どの意味で?
 アンネリーゼは墓穴になりそうな言葉を租借して、涙ながらに己の悲運を呪った。
 どうやら報われる日は、当分来そうにない。



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