堕ちた先に [ 34/39 ]

堕ちた先に

*「プリムローズの飛翔」続編

(矛盾している空の色)
(かきまぜることができたなら、わたしは何色を望むんだろう)



「大体ね、アンネは我侭なのよ」

 焼きたてのマフィンを口に頬張りながら、数少ない友人の一人であるフルールはじとりとアンネリーゼをねめつけた。
 思ってもいなかった言葉を受けて、アンネリーゼの思考は止まる。徐々にそれが稼動し始めた頃、フルールの手は二つ目のマフィンに伸ばされていた。

「わがままって……わたしが?」

「そう。だってただの洗濯女から、テュヒュール騎士団長のアロイジウス様専属侍女よ? それであーだのこーだの言ってるなんて、贅沢すぎるの! 確かにお顔は……そりゃ、想像してたのよりちょーっと男らしすぎるっていうか、濃いっていうか、ゴツイっていうかだけど」

「で、でも!」

「一緒のお部屋で寝てても、なにもしてこないんでしょ? それにお給金は破格の待遇。着るものも食べるものも、みーんなアロイジウス様がお金出してくれるって話じゃない」

 口の中のマフィンを紅茶で流し込み、カップ越しにアンネリーゼを見たフルールは、やってられないとぼやいて大仰にため息をつく。
 目の泳ぐアンネリーゼの額を指弾すると、彼女は栗色のふわふわとした髪を軽やかなばねのように揺らし、花の香りを辺りに散らした。

「じゃあ訊くけど、アンネはアロイジウス様のなにが不満なの? 今まで散々周りにいじめられてもへこたれなかったあんたが、ちょっと嫉妬の混じった嫌がらせに音を上げるとは思えないんだけど」

「それは……」

 射抜くような目で見られても、アンネリーゼは真実を語ることなどできなかった。
 言えばそれすなわち、死に直結する。
 アロイジウスが男色で、なおかつ軽く危ない変態だということなど誰にも言うことができない。しかも彼の想い人は皇帝で、その私物を時折拝借――と言えば聞こえはいいが、実際はただの泥棒だ――する手伝いをさせられている。
 アンネリーゼは大変困ってしまい、しゅんと眉尻を下げて俯いた。頭上からは呆れたようなフルールの吐息が落ちてくる。

「もういいわ。言いたくないならそれでも。あんたはあんたらしく、そのままウジウジ悩んでなさいよ。ただし、なんか言いたいことがあったらすぐに言いなさいよね」

「…………ありがとう、フルール。あのね、あの……へっ、陛下ってさ、すっごくお綺麗だよね!」

「なによいきなり。でもまあ、そうねえ。確かに、人形みたいなお顔立ちでいらっしゃるわね」

 突然の話題転換に訝りつつも、フルールは盆の上に盛り付けられた果物に手を伸ばして相槌を打つ。その脳内には、この国の皇帝の姿が浮かんでいるのだろう。
 しばらくすると、彼女は驚いたように目を瞠ってアンネリーゼに向き直った。

「まさかあんた……陛下に惚れたから、アロイジウス様の侍女が嫌って言うんじゃないでしょうね?」

「まっ、まさか! ちがうちがう、ただちょっと――なんていうか、確認しときたかっただけ」

「ふうん。だといいけど」

 でも一体なんの確認よ、と零すフルールの問いには答えず、誤魔化すようにアンネリーゼはマフィンを頬張る。大きさも確認せずに口に運んだせいか、欠片が喉に張り付いて盛大にむせてしまった。
 げほげほと苦しそうに前傾姿勢を取れば、フルールは呆れや怒り、心配がない交ぜになったような風体でアンネリーゼの背をさすってくれる。
 アンネリーゼは、彼女のこの優しさがなによりも好きだった。厳しいことを言いつつも、いつだってアンネリーゼの味方をしてくれる。物語でよく出てくる、理想の親友のようだと思う。
 ようやっとマフィンが喉を通過し、アンネリーゼは涙目になりながらはにかんでフルールに礼を告げた。すると彼女は、呆れたように大きな目をすっと細める。

「にしてもなんで、あんたなんかがアロイジウス様付きになったんでしょうね」

「う……それはちょっと、わたしにもさっぱり……」

「嘘おっしゃい。心当たりありまくりですーって顔に書いてあるわよ」

 ばっと顔を両手で覆い隠したとき、アンネリーゼはああまたやった、とひどく悔いた。『あのとき』も、こうやって自ら墓穴を掘ったのだ。
 にやり、と意地悪く笑ったフルールを前に、冷たい汗が伝うのが分かる。もごもごと口ごもるアンネリーゼはひとしきりどうしたものかと思案して、逃げるという結論に辿り着いた。

「なーにーがっ、あったのー? 吐きなさいよ、ほら!」

「さっき、言いたくないなら言わなくてもいいって言った! そ、それに、わたしそろそろ戻らなきゃ――」

「それとこれとはべーつっ! さっくりきっぱり話しちゃいなさ――あ」

「え? ――げ」

 突然動きを止めたフルールの視線を追ったアンネリーゼは、仁王立つ長身の影を見て口元を引きつらせた。

「ア、アロイジウスさま……」

「随分と探した。服の替えがなくて困っていたんだ。戻って来い、アンネ」

「はいっ、ただいま! あ、じゃあごめんね、フルール。わたしこれで……」

「アロイジウス様」

 アロイジウスのもとへ駆け寄ろうとしていたアンネリーゼの背に、毅然としたフルールの声音が届く。え、と思わず振り向けば、彼女は侍女という立場を感じさせぬ凛とした態度で胸を張り、なおかつ怯えや媚びの一切見受けられない表情でアロイジウスを射抜いていた。
 外面のいい――とアンネリーゼは思っている――アロイジウスが、ほのかに笑みを浮かべて「なんだ」とフルールに問い返している。かすかに感じた威圧感は、そのままアンネリーゼを震え上がらせた。

「わたくしごときが進言することではございませぬが……どうぞ、アンネをよろしくお願い申し上げます。――泣かせたらアロイジウス様といえど、ご容赦いたしませんので」

「フルール!?」

 一体なにを言い出すの、と叫びだしそうなアンネリーゼをよそに、アロイジウスは怒り出すどころかくつくつと喉を震わせて、冷たい嘲笑をその口元に湛える。
 しゃんと伸ばされた背筋を保ったまま、フルールは彼の言葉を待っていた。

「一介の侍女風情が、俺相手になにができると?」

「アロイジウス様のお食事に毒を仕込みますとか、お召し物に針を残しますとか……あああと、この身に爆薬括りつけて抱擁させていただきますわ」

「面白いな。この女のために、死ぬと?」

「最後のはこの子が死んだなら、の話です。ですが、あまりただの女だ侍女だといって甘く見ないで下さいませ。剣を交える場所だけがいくさばとは限りません」

 すっとアロイジウスの手が長剣へと伸びる。それを目にし、アンネリーゼは隠し切れない焦りを覚えた。
 思わず彼の腕に縋りつき、やめてくれと懇願する。だがフルールの方はといえば、落ち着き払った様子でにこりと笑ってみせた。

「この場でわたくしの首を刎ねようものなら、周囲の者に不審に思われますわね」

「どうだか。俺と貴様と、人はどちらを信じるだろうな」

「それはアロイジウス様にございましょう。しかしながら、覆しようのない事実を知る目撃者がおります」

 アンネリーゼの肩がびくりと跳ねる。フルールとアロイジウス、双方からの視線を受け、彼女は戸惑いを隠せなかった。
 まさかアロイジウスは本気でフルールを斬る気なのだろうか。だとすれば、なにがなんでも止めなくてはいけない。
 アロイジウスは怖い。けれど、フルールを目の前で失うことの方がもっと怖い。

「アロイジウス様は、アンネにこれ以上隠し事をさせることができますか?」

「なんのことだ」

 そう言いながら、アロイジウスは喋ったのか、という意味合いの視線をアンネリーゼに寄越してきた。
 ぶんぶんと思い切り首を左右に振って否定すると、彼は若干苛立ったようにフルールを睨む。  
 その手はまだ柄から離れてはいない。

「その子は弱い。わたくしの死と、アロイジウス様の秘密――両方背負ったまま生きていくなど不可能。ただの侍女の言であれば信じずとも、『アロイジウス様が自らご信用なされた侍女』の言ならば、何人かは信じるのではありませんか?」

「…………アンネ」

「はいっ!?」

「十分後、部屋に戻れ。一秒の遅刻も許さん。――それからそこの馬鹿女。あまり減らず口を叩いていると後悔するぞ」

「すでにしておりますので、ご心配なさらず」

 それを聞くと、アロイジウスはふんと鼻を鳴らしてアンネリーゼを手を振り払い、すたすたと背を向けていってしまった。
 なんだったのかと気持ちの整理がつくよりも先に、目の前でへにゃりとフルールの身体が崩れ落ちる。驚いて駆け寄れば、彼女は顔を真っ青に染め替えて荒い呼吸を繰り返していた。

「フルール!? ねえ、フルールどうしたの!?」

「こわ、かったー……。本気で殺されるかと思った……」

「え……? 怖かった、の?」

 あれだけ堂々と啖呵を切っておいて、なにを今更。
 そのような意味合いを込めて尋ねれば、フルールはぎっときつく眼光を尖らせた。スカートを握り締めるその拳が震えているのを見て、アンネリーゼは言葉を失う。
 怖かったというのなら、なぜ彼女はあのような暴挙に出たのだろう。真意を掴みあぐねているアンネリーゼに、彼女は顔を片手で覆いながら「馬鹿」とだけ言った。

「馬鹿って……」

「馬鹿よ。大馬鹿。あたしだってね、みすみす命を捨てるような真似したくなかったわよ。……でもね、アロイジウス様見てたらなんっか無性にイライラしてね。それもこれも、あんたが『悩んでます助けてフルール!』って顔してるからよ!」

「ええっ!?」

「秘密うんぬんは勘だったけど、どうやら当たってたみたいね。なに、あんた脅されて侍女になったわけ? ……ほんとに夜、なにもないんでしょうね」

「な、ないよ……ていうか、あるわけない」

 聞き返してくるフルールをなんとかして誤魔化し、アンネリーゼは考えた。もしかして彼女は、アンネリーゼのためにあのような行動に出てくれたのだろうか。
 微風ほどの力しかなくても、波紋を広げることはできるのだとアロイジウスに忠告するために。
 そう思い当たった瞬間、アンネリーゼは口元が弛むのを押さえきることができなかった。にへら、とだらしなく歪んだ顔を見て、フルールが思い切り眉根を寄せる。

「ちょっと、なに笑ってんの。誰のためにあんなこと――」

「フルール」

「……なによ」

「大好き。すっごく好き! いっちばん好き!」

「あんたねえ、そういうのは恋人に言ってやりなさいよ――って、こら! 抱きつくな、スカートが汚れる! もうっ、アンネ!」

 怒られても髪をぐしゃぐしゃにされても、それでもアンネリーゼはフルールからなかなか離れようとはしなかった。この幸せにいつまでも浸っていたかったからだ。
 しばらくすると彼女も諦めたのか抵抗をやめ、代わりに大きな大きなため息を二つほどついて苦笑した。
 フルールの華奢な身体からは、匂い立つ花の香りがする。恋人に贈ってもらった香水だと聞いているが、彼女にとてもよく似合っていた。なんだか大事な親友が盗られたような気がしてほんの少し嫉妬したが、恋人のことを幸せそうに語っていた彼女を思い出して唇が尖るのを食い止める。



 どうかかみさま
 このひとたちに、おおいなるさちあれ!



(……あ、アンネ。時間大丈夫なの?)
(あああーーー! どうしよう、あと三十秒しかない! じゃ、じゃあねフルール!)
(なにかあったら言うのよ! って、聞こえてないか……)


(っ、アロイジウスさま、アンネ戻りました!)
(十分二十三秒。……約束は?)
(じゅ、じゅっぷん、です。二十三秒、遅れました……)
(ほう。分かっているなら話は早い。なら今日は、不愉快な目に合わされたあの馬鹿女の分まで付き合ってもらおうか)
(っ――!(八割がた妄想を交えた惚気はいやぁぁぁぁぁっ!))

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