まるでおとぎばなしのような、 [ 32/39 ]

まるでおとぎ話のような



 怒っているのでしょうか、

 悲しんでいるのでしょうか、

 ああ、ああ、


 なにもしてあげられなくて、ごめんなさい




 空はどんよりと曇っていた。灰をバケツいっぱいの水に混ぜたかのような重苦しい空の色に、気分までどっと重たくなる。さあさあと雨音が聞こえる。窓ガラスに打ちつける雨滴が、次々に軌跡を描いていった。
 今日の海は、随分と機嫌が優れないようだ。唸り声を上げ、大きくあぎとを剥いて獲物を捕らえようとしている。空よりも暗い色をした獣は、普段の穏やかな表情からは想像できないものだった。
 あの美しい光景は、一体どこに行ってしまったのだろう。
 真っ白い砂浜に苔の生えた岩が所々に足場を作り、透き通った青が鮮やかな魚や珊瑚達を抱き締めている。遠くには青々とした緑の丘――正確には山なのだが、子供でも登れるほどなので皆が丘と呼ぶ――が見え、その上に砂とはまた違った純白の雲の帽子がかかり、抜けるような青空が広がっている。
 そんな光景が、少女はなによりも好きだった。
 この島の誇りだ。誰も文句など言えないだろうその美しさが褒められると、自身について褒められるよりも嬉しかった。
 けれど雨が降らないというのも、問題である。作物が育つためにも雨は必要なのだが、それを理解していてもなお残念に思う気持ちは止められそうになかった。
 
 窓辺で外を眺めていたら、呆れたような笑い声が背後から聞こえてきた。どうやらよほど、物欲しそうな顔をしていたらしい。
 淹れたての紅茶を受け取ると、ジルは隣りに腰掛けて同じように外を眺めた。

「姫さんは雨、嫌いなのな」
「……きらいというわけではありませぬ」
「そっかぁ? のわりには、ぶーたれた顔して外見てっけど」
「そっ、そのようなことありませぬ!!」

 けらけらと大口を開けて笑うジルは、乱暴に少女の頭を掻き混ぜた。湿気を孕んだ短い髪が、途端にあっちこっちへ跳ねてしまう。
 ――かわいいな、姫さん。ぽろりと零れ落ちた言葉には、優しい温度しか含まれていなかった。

「……ねえ、ジル」
「うん?」
「なぜ、海は青いのでしょう」

 今はとても黒いけれど。
 でも、いつもはあんなに美しく透き通った色をしている。浅瀬は鮮やかな薄い青。そして沖へ出れば、そのまま溶けてしまいたくなるような深い青が広がっている。
 海には波があって常に水が掻き回されているのに、どうして色が同じにならないのだろう。どうして色が変わるのだろう。
 カップのふちを齧りながら問うと、ジルは困ったような顔をした。

「薔薇が赤い色ってのと同じで、海も青って決められてたんだ、きっと」
「ですが、手ですくった海は、透明にございます。雨は初めから透明なのに、なにゆえ海や湖だけが色を持っているのでしょう?」
「うっ……。あー、じゃあ、あれだ。えっと、その。――あ! 空! 空だよ、姫さん!!」
「そら……?」

 言葉を覚えたての幼子と同じように繰り返した少女に、ジルは名案だとでも言いたげに胸を張って大きく頷いた。
 空だよ、姫さん。ずっとずっと広がっている、あの空さ。

「空は青いだろう? だから、海の水も青いんだよ。海も湖もでっけー水溜りみたいなもんだから、鏡っぽくなって空の色を映してんだよ、きっと!」

 だから今日の海は真っ黒なんだよ、とジルが言う。

「……なっ、なりませぬ!」
「へっ?」
「あっ、いえ、その……。なんと申せばいいのか、よく、分からないのですけれど……、その、それではだめ、なのです」
「駄目って……、姫さん。いい案だと思ったんだけどなぁ」
「ジルは悪くないのです! ただ……」
「わーったわーった、いいって別に。姫さんが嫌なら、海は空の色じゃない。だろ?」

 意味不明な我侭だとは自覚していたが、もやもやとする気持ちを抑えきることができなかった。
 朗らかに笑うジルは別に気にした風もないが、彼のそれは少女にとっては、わけもなく不安を掻き立てる発想だったのだ。
 空の色を写し取って青く染まる海。

 ――ずっと、それは逆だと思っていた。

 ジルにそのことを告げると、彼はきょとんと目を丸くさせた。
 少女にとって、空が青いのは、海の色をもらっているからだった。生命が生み出された不思議なあの海の、優しくて美しい色を分けてもらって空は染まる。
 誰にも触れてもらえないから、誰にも触れられやしないから、優しくて聡明な海が、そっと手を差し伸べてくれたのだ。
 だから空は、海が黒く染まると悲しくなって泣き出す。
 怒っているのでしょうか、それとも悲しんでいるのでしょうか。どうかわたくしに、できることはないでしょうか。
 じくじくと痛む胸の苦しみに耐えかねて、なにもできない自分が嫌になって、ほろほろと泣き出した空が雨を降らせる。
 やがて海が機嫌を直して鮮やかな色を取り戻すと、空も嬉しくなって泣きやむのだ――と、そう思っていた。

 だって現に、海は虹色に染まらないではないか。空の色を写し取っているのなら、空に架かった虹色に染まってもいいはずなのに。
 色をくれたのも、手を差し伸べてくれたのも、空ではなく海の方。
 だから、その逆は嫌なのだ。

「……ほんっと、姫さんは海贔屓だよなぁ。まるで海に恋でもしてるみたいだ」

 思わず笑ってしまった。腕につけた細身の金輪や銀輪がしゃらしゃらと鳴る。

「ではジル、恋とは、どのような気持ちなのでしょう?」
「どんなって、そりゃあ……こう、ドキドキしたり、心臓がぎゅーってなったりとか、あとは……どうしようもなく、その子がかわいく見えたりだとか。あ、でもこれは男視点な。――とにかく、幸せだよ。そりゃ、つらいときもあるけど」

 優しい顔をして、ジルが少女の髪を撫でた。

「でも、好きになってよかったって、その子がいてくれるからもっと頑張ろうって、……ずっと傍にいたいって、そう、思うもんだよ」


 ――姫さんは誰かに恋、してる?


 優しい熱が頬に触れる。とろけるような眼差しが降ってくる。
 自分とは違うごつごつとした指にそっと手を重ねて、少女は首を動かした。
 頷いたのか左右に振り動かしたのか曖昧な動きに、ジルは目をしばたたかせて苦笑する。そっと手を離そうとすると、彼女が小さな手できゅっと握った。

「――わたくしはみんなに、恋をしております」

 さあさあと、雨が降り続く。

「そのようなしあわせな気持ちが恋なのであれば、わたくしは、ばあさまも、じいさまも、アリアも、ヨーキィも、みんなに、恋をしております。もちろん、ジルにも」
「……ありがと、姫さん。でもちょっと、違うかな〜。恋はさ、一人に対してするもんだから」

 まあ姫さんにも、そのうち分かるよ。
 ――そうでしょうか、と少女は尋ねそうになる言葉を飲み込んだ。きっとその言葉は彼を傷つけてしまいそうな気がして、なにも言うことができなくなってしまった。
 気まずさが生まれ、再び窓の外へ視線を移す。

「なあ、姫さん」 

 恋とはとても幸せなものらしい。
 ならばあんなに優しい顔をしたジルは、誰かに恋をしているのだろうか。

「――早く、晴れるといいな」
「……ええ。美しいあの海を、早く見とうございます」


 あいたくて、くるしくて、せつなくて。
 痛いだけのこの想いは、きっと恋などと呼ばない。
 

そんな恋しか知らない
(翼があればと、彼女は呟く)
(ねえ姫さん、それ、恋した人の常套句だよ)



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