空に焦がれて [ 31/39 ]

空に焦がれて、


 真っ白な砂浜に、少女が一人膝を抱えて佇んでいた。押しては引く波が、少女の白い足先を洗っている。白い砂に赤い砂粒が混じっているこの海岸は、一種独特の風景だった。天高くで海鳥が鳴いている。遠くには船が見えた。
 砂を踏み鳴らす音に気がついたのか、少女はゆるゆると振り向いた。小さな頭を薄いヴェールが覆っていたが、その向こう側にあったのは両の目を包帯で覆った顔だ。少女はそれ以上近づいてこようとしない人の気配に焦れたのか、不思議そうに首を傾ぐ。
 幼さを残す唇から零れたのは、知らぬ名だ。日頃から少女の傍にいる者なのかもしれない。
 怪しい者ではないと告げると、少女はやや驚いた風を見せたがすぐに笑った。知らぬ人と話すのは久しぶりなのだという。確かにこの島は小さい。住まう人間すべてと知り合いになることなど、難しいことではあるまい。
 なぜこの島にと問われたので、王都からやってきた商人だと答えた。一緒の船には聖職者も同船していて、教会の様子を見に来ている。自分は宝石商で、ついさっきもそこの広場で娘達に装飾品を売っていた。とはいっても、年頃の若い娘など数えるほどしかいなかった。ほとんどが娘盛りを過ぎた女性で、物珍しそうに眺めるだけだ。
 そう言うと少女はころころと笑って、この島にはどんな宝石よりも素晴らしいものがあるんです、と悪戯っぽく歯を覗かせた。潮風が少女のヴェールを遊ぶ。
 どんな宝石よりも、とはすごい自信だ。一体なにがあるのだろうか。好奇心から尋ねると、少女はほんの少し頬を染めて俯いた。どうしたことだろう。彼女は言う。宝石売りさんに対して、失礼なことを申しましたと。
 美しい娘だと思った。両の目は見えない。顔の半分が隠されている。けれど顔の造作など関係なく、美しいと。
 とても純粋な、心根の清らかな娘なのだろう。大事に育てられてきたに違いない。ヴェールを留めている銀冠が、太陽光を受けてきらりと光る。

 一定の距離を開けて少女の隣に腰を下ろし、彼女がそうしていたように海を眺めた。海鳥の声も潮騒もやむことはないのに、静寂がこの場を最も飾っている。
 隣に座ってみて、初めて気づくことがあった。少女は立てた膝に、花束を抱えていた。腹と足で潰してしまわぬよう、注意を払っているのだろう。淡い色彩の花が、彼女の中でひっそりと息づいているようにさえ見える。
 無礼を承知で、その目はどうしたのかと問うた。年頃の娘にする質問ではなかったが、彼女が生まれつきの盲(めしい)だとは思えなかったのだ。
 少女は気を悪くした風もなく、包帯の上から目の辺りに手をやって微笑した。

 薬草を煎じているときに、誤って汁が目に入ってしまったのです。慌ててこすってしまったものだから、反対の目にも入ってしまって――。

 恥じたように俯いて、少女は笑う。大事はなく、あと三日もすれば元通り見えるようになるらしい。今は瞼が痺れて何倍にも腫れているから、こうして隠しているのだと彼女は言った。
 不安はないのだろうか。いくら医者が大丈夫とは言ったとしても、一時的とはいえ光を失ったのだ。これから先、ずっと見えないという不安はないのだろうか。
 少女はやや考えるそぶりを見せ、今度は首を逆側に傾けた。

 楽しい、のです。

 ――楽しい? 思いがけない言葉に、目を丸くする。少女は何度か己の言葉を反芻して、もう一度言った。楽しいのです。なにが、と当然のように尋ねる。どうやら答えを用意していたらしい彼女が、小さな手のひらを耳に当てて微笑んだ。よく笑う娘だ。
 見えなくなったけれど、いろいろなものを感じる。音やにおい、それから手触り。一生見えないとなると不便ですごく悲しいけれど、一時的だと思うと安心できる。今まで『視えていなかったもの』が『視える』と、楽しそうに言う。
 そしてすぐに、本当の盲(めしい)の方にはとてつもなく酷い言い分ですけれど、と傷ついた顔で、萎んだ声音で、苦しそうに俯いた。

 話題を変えることにした。膝に抱えた花束を指差して――少女には見えないのだが――、それはどうするのかと問いかける。彼女はそれを見えていないとは思えない正確さで手に取ると、花びらに口づけた。
 柔らかな唇に、またしても笑みが乗る。
 誰かに貰ったものなのだろうか。先ほど彼女が呼んだ相手から? これほど幸せそうに笑むのだ。大切な相手に違いない。胸の内だけで紡いでいた言葉が、いつの間にか喉から口へと抜けていたらしい。
 自分の耳から聞こえてきた自分の声に、否定する間もなく少女は首を振った。

 これは頂いたのではなく、差し上げるものなのです。

 この、海の向こう側にいる方に。
 言うなり少女は危なげなく立ち上がって、海の中へと歩を進めていく。そのか細い足が波に攫われやしないかと危惧して、慌てて追いかけたのだが、彼女はほんの僅かによろめいただけで膝が浸かるところまでやってきた。どうやら相当海に慣れているようだ。
 四方を海に囲まれた島なのだから、それも当然といえば当然だ。だが見るからにか弱い、力仕事などしたことがなさそうな娘なのだ。心配するなと言う方が無理な話である。
 宝石売りさん、と呼びかけられて現実に意識を戻す。少女は自分とは逆の方を見上げていたので、少しだけ笑ってしまった。はっとしてこちらに顔を向けた彼女の頬が赤く染まっていて、噛み殺そうとした笑声がぽろぽろと零れていく。
 少女は一瞬だけ唇を尖らせて、照れを隠すように自分もころころと笑った。彼女が身体の向きを少し変えた瞬間、大きな波がやってきて不安定な片足を襲う。小さな悲鳴が聞こえた。どきりと心臓が跳ねる。
 押して、引く。そんな波に傾く華奢な身体を、両腕を伸ばして抱きとめた。片腕だけでは彼女に負担がかかる。だから、まるで抱き締めるようにしっかりと。
 あ、と予想外の衝撃に少女が身を縮こまらせる。それもそうだろう。ずぶ濡れになることは避けられたとはいえ、見知らぬ男の腕の中とは大層不安に違いない。少女の両足がしっかり地についていることを確認して、そっと身体を離す。
 驚かせてしまってすまない。できるだけ怯えさせないように、そっと肩に触れた。ここじゃ危ない。浜に戻ろう。少女は不自然なほどに小刻みに頷いて、でもあとこれだけ、と一輪の花を花束の中から抜き取った。
 今度は慎重に沖の方へ向き直り、たった一輪の花を海の中に放り投げる。海面に浮いた花は波に乗ってすぐ足元までやってきて、帰る波によってまた深みへ戻っていく。しかし何度かそれを繰り返しているうちに、か弱い花は花びらを散らし、とぷりと波の底へ沈んでいってしまった。

 二人揃って、なにも言わずにそれを眺めていた。当然少女が見えるはずもないのだが、何度も繰り返してきたことなのだろう。花が沈むのと同じ頃、残りの花束を抱えて戻りましょうと笑む。
 濡れた足裏に砂粒が張り付いて気持ちが悪い。しかし少女は気にも留めず、近くの岩場まで迷いなく歩いて腰を据えた。本当に見えていないのかと聞きたくなるような正確さに唖然とする。それは彼女が何度も何度もこの場に訪れていることを、如実に証明していた。
 乾いた足から砂が落ちる頃、少女は穏やかな声音で再び宝石売りさん、と声を掛けてきた。今度はしっかりと自分の方を見上げて。
 そしておずおずと、花束を差し出される。訳も分からずに受け取ると、彼女は嬉しそうに破顔した。

 海の向こうに届けたくても、いつもいつもそれは叶いませぬ。だからどうか、あなたに届けて欲しいのです。

 我侭な願いだということは承知している。それでも頼みたいのだ。花束を受け取った手を、小さな小さな手のひらでぎゅっと包んで少女は懇願してきた。あまりに必死な願いに、気圧されて声が僅かに震えた。しかし少女は気づかない。
 誰に届けるのか、と尋ねた。すると彼女はふるりと力なく首を振り、顔を背ける。ただ王都に――王都のどこかに、そっと散らして欲しいのです。できることなら、王都の海に。
 王都で直接海に面しているところなど、ほとんどないと言っても過言ではない。王都の港と言われている場所も、正確にはレジテア地方のものだ。しかしそんなことを、彼女は知る由もないのだろう。
 ああ、分かったよ。安心させるようにもう片方の手で彼女の手を包み込み、優しく撫でる。途端に嬉しそうな顔をして、少女は少女らしい笑顔で礼を言った。

 それからは、王都に憧れを抱く田舎の少女に都の様子を語って聞かせた。流行っている楽曲、衣服、食べ物、街の活気など、彼女が興味を持つすべてのことに細やかに答えた。
 学校がいくつもあるということを知ると、少女は目を輝かせた。学校に通うことができるのは、ごくごく限られた者達だ。それを知ると彼女は少し残念そうに肩を落として、誰もが学べる場所になればいいのに、と独り言のように言った。
 少女はいろんなことを聞いていたが、不思議なことに、城に関しては一切触れてこなかった。先ほど相手をしていた女性達は、誰しもが王都の城はどんな様子かと身を乗り出して聞いてきたというのに。
 だが、聞かれてもいないのに教える必要もない。一通り好奇心を満たした少女が満足そうに伸びをするのを横目で見て、腰を上げる。お帰りですか。その声には、引き止めてしまって申し訳ないという思いよりも、去ってしまうことが残念だという思いの方が色濃く表れている。
 思わず苦笑して、すべらかな頬に手を伸ばす。しかし直前でぴたりと動きを止め、引き戻した。不用意に触れては怯えさせてしまうかもしれない。
 触れる代わりに、胸元から華奢な首飾りを取り出して少女の手に握らせた。手の中にあるものがなにか悟った彼女は、困惑の面持ちで見上げてくる。どれだけ身長差があるのか分からないからか、見つめられていたのはおそらく顎の辺りだろうけれど。
 お金も払わずに受け取れません、と抗議してくる少女は随分としっかりした印象を受ける。
 研磨に失敗した、売り物にならないものだ。王都で他の女性への贈り物にしようものなら、頬を張られて振られてしまう。だから遠慮せず受け取ってほしい。必要なければ海に捨てればいい。この花を届ける代わりに、受け取ってくれ。
 そう言いくるめると、少女は納得したようなしていないような顔つきのまま、二度ほど頷いて首飾りを大事そうに握った。深々と頭を下げ、礼を言う彼女に別れを告げる。

 その背に三度声を掛けられて、ゆっくりと振り返った。どれほどの距離があるか分からない少女が、潮騒に負けぬようにと声を張り上げる。そうまでしなくても十分聞こえるのに、と苦笑が漏れた。
 この島にはいつまでいるのか。いつ、王都に戻るのか。尋ねられて、この花が萎れる前にはと答えると、彼女は困ったような顔をした。
 意地の悪い答えはやめにしよう。今から。今から、もう戻らねばならないんだ。
 ヴェールの垂れた顔が、残念そうな表情をしていることは見ずとも分かった。そのまま踵を返そうとしたところで、少女が思いがけない行動を取る。

 両の目を覆っていた包帯を、ぐいと力ずくでずり下げたのだ。

 見た目の繊細さに反して、豪胆なその所作に驚きを隠せない。呆然と立ち尽くす自分の内側で、なにかが警鐘を鳴らす。それに抗い足に根を張るのも、また自分だ。
 首に弛んだ包帯をぶら下げて、少女はふるふるとかぶりを振った。僅かに色を変え、重たそうな瞼の奥で虚ろな瞳が揺れる。少女は何度も瞬きを繰り返し、必死に目を凝らしていた。
 どきりと胸が鳴る。少女の瞳の、なんと澄み渡っていることか。
 しかしその瞳がはきと己を捉えることはなく、彼女はますます悲しげに眉を下げた。ヴェールと一緒に、包帯がはたはたと身を躍らせる。

 ――やはりまだ、ぼんやりとしか見えませぬ。

 微苦笑を浮かべる少女の肩を、ふいに抱き寄せたくなった。そんな衝動など知るはずもない彼女は、あなたをこの目で見てみたかったのにと、大人びた表情で言ってのける。
 はっきりと姿を映すことはできずとも、輪郭を捉えることはできるのだろう。少女は目を細め、気を取り直したように晴れやかに笑った。随分と背が高いのですね、宝石売りさん。
 どこまで見えているのだろう。一体、どこまで。
 動き出さぬよう、必死に己を戒める震えた拳を、彼女の目に映してはいないだろうか。笑んでいるのではない、硬く引き結ばれた唇を、彼女の目に映してはいないだろうか。

 走ることをやめぬ心臓が、『視えて』はいないだろうか。

 きっと大丈夫だ。少女の目は、はっきりと自分を捉えてはいないのだから。
 大分腫れも引いているようだから、明日にはその目も見えるようになるだろう。そうしたら、彼女は首飾りを見てくれるだろうか。売り物にはならない、売り物になどできない、拙い想いの鎖を。 
 少しでもいい。伝わってくれれば。
 自分の抱く想いは、告げたい相手に届かない。彼女の想いもまた、届けることはできない。
 だからお互い、不器用な方法で想いを昇華し合うとでもいうのか。
 なんと滑稽な二人だろう。
 だのに込み上げてくるのは笑いではない、別の感情だった。

 目深に被っていた帽子を取って、一礼する。すぐに踵を返してその場から離れた。
 最後に聞こえたのは、柔らかな声。




 またお会いしましょうね、宝石売りさん。



海に溶けた
(いつかあなたに会いましょう)
(その言葉に、願いを込めて)


[*prev] [next#]
しおりを挟む

「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -