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「それより、ねえ、おいでよ! 大丈夫だよ、お父さんがお店を貸してくれるから!」
「ありがとう、少年。でもね、それはちょっとできない相談だ」
「……なんで?」
「私はね、ここで人を待っているんだよ」

 細い腕が車椅子の車輪を回す。小さな段差に引っかかって、それは動かなくなってしまった。助けに行こうと腰を浮かせた瞬間、――彼女もまた、同じように腰を浮かせて立ち上がった。
 割れた窓ガラスを通して、夕陽が差し込んでくる。きらきら、きらきら、オレンジ色の光に照らされた本棚が、柔らかい木の色を放っていた。
 彼女は二本の足でしっかりと床板を踏みしめ、先ほど少年が必死に背伸びをしたのと同じ棚から一冊の本を抜き取って戻ってきた。スカートの裾を正して椅子に座った彼女は、なんでもないような顔で表紙を捲っている。

「なんで……?」
「それに乗っているとね、敵か味方か、分かりやすいんだよ」

 くすりと笑う彼女の横顔は、とても綺麗だった。
 敵か味方か。その言葉の意味はよく分からない。少年はどちらに分類されたのだろう。本を読む彼女の姿はとても穏やかだから、敵ではないと判断されたのだろうか。

「私の待ち人はね、君とよく似ていたんだよ。一番街の人間でね、好奇心が旺盛だった」

 そう言って、彼女は微笑む。

「なにが楽しいのか毎日のようにうちに来ては、だらだらと話して、帰りに本を買って帰っていった。そのうち買うものがなくなって、到底彼が読まないような種類の本までね」
「そんなに?」
「ああ、そんなに。そしてある日、これが起きた」

 とん、と本の一ページを指先で叩く。覗き込めば、巨大な隕石の挿絵が描かれていた。十年前、七番街に落ちた隕石落下事故の本だ。

「あの馬鹿、役所のお偉いさんだったらしいんだけど、よりにもよって調査員に志願したらしくてね。七番街に行くって言うんだよ。もちろん止めたさ。落ちてすぐは本当に地獄だった。七番街は壊滅、六番街もズタボロ。毎日毎日、たくさんの人がどっかで死んでいく。隕石の傍に行けば悪い病気に罹るってもっぱらの噂だった」

 それは少年が目を通した本の内容と同じだった。
 その隕石によって人々の生活は一変した。七番街に近い区域から荒れ果て、自然と遠い区域に富裕層が集まるようになっていった。

「それでも行くって言って、人の話なんざ聞きやしない。待たなくていいから避難しろだなんだと言っていたけれど、私はもう、それはそれは腹が立ってね。だから、帰ってくるまでここに居座り続けてやろうって決めたんだ」
「帰ってくるまで……?」
「そう、帰ってくるまで」

 隕石が落ちたのは、十年前の話だ。
 しかし彼女は、今もなおここに一人でいる。
 少年の頭でも分かった。そして彼女にもとっくに分かっているのだろう。分かっていて、それでもここにいるのだろう。それがなぜなのか、少年には分からない。

「さみしくないの?」
「たまにね。でもこうしてお客さんは絶えないから、話し相手には困らないよ」
「……これからもずっとここで待ってるの? うちに来て、毎日様子を見に来るっていうのじゃだめなの?」
「せっかく十年もここで待ってたんだ。今さらやめるのはもったいない」

 すらりとした足を組み替えて、彼女が笑う。細い指先に前髪をくすぐられて、頬に熱が籠もるのが分かった。

「暗くなる前にお帰り、少年。日が暮れたら危ないよ」

 立つように促され、そのまま背を軽く押されて玄関まで誘導された。静かに床板を踏む足音が二人分聞こえる。ギィギィとうるさい車輪の音は聞こえない。
 カランカラン――。あれほど軽やかだったドアベルの音が、今はどこか寂しく聞こえた。

「……また、来てもいい?」

 店から一歩外に出た少年は、夕陽に照らされる女性を見上げて静かに問うた。少し考えるように彼女は笑う。
 優しい手が降ってきて、くしゃりと頭を撫でられた。

「そうだね、少年ならあと五年は待ってあげようかな。安心おし、私は気が長いから。きっとその頃も、まだここにいるよ」

 五年でも、十年でも。
 もう帰らぬ人を、ずっとここで待ち続ける。
 それはまるで、覚めない夢を見続けているようだ。

「…………じゃあ、五年経ったら、また来るね」
「楽しみにしているよ。そのときはお茶菓子の一つでも持ってきておくれ」

 するりと頬を撫でて、優しい手が離れていく。物分かりのいい少年に、彼女は満足してくれただろうか。
胸の前で振られたそれに力一杯腕を振って、少年は夕暮れの路地裏へ飛び出した。
 靴裏で割れたガラスの破片が鳴く。ガラクタを乗り越え、瓦礫を踏み越え、蹲る老人の脇を擦り抜け、息が切れるまで走った。路地裏を抜ける頃にはすっかり日が落ちていて、少年は慌てて蒸気バスの乗り場へと駆け込んだ。
 バスの振動に揺られながら、路地裏へと続く細い通路に目を向ける。
 ああ、結局、秘密がなにか分からなかった。ディック達にはまた仲間外れにされてしまうだろうか。本屋で待ち続ける彼女のことを話せば盛り上がるような気はしたが、とてもじゃないけれどそんな気分にはなれない。
 家に帰ったら、きっと怒られるだろう。服も靴も埃っぽいしドロドロだ。臭いだってきっとひどい。六番街の、それも路地裏なんかに一人で行っていたと知れたらとんでもない雷が落ちるに違いない。
 うつらうつらとまどろみながら、少年はあの女性の穏やかな笑みを思い浮かべた。


 ――五年後、彼女はあの場所で待っていてくれるだろうか。


(20140125)

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