王さま殺し [ 30/39 ]

 王さまを殺したのは、だあれ?



 今日も樽の中はからっぽだった。
 ぼくは暗闇だけがぽっかりと広がっている樽を覗いて、「ああ、これはまるで井戸のようだなあ」と呟いた。こんな話し方をしている大人達を、よくオーサおばさんの家で見かける。白いひげに、黒い帽子。みんながみんな、同じ外套にすっぽり身を包んで、同じように話すんだ。「今日も陛下は生きておられる」「ああ、なぜだ!」「あれは化け物だ、早く手を打たんと」実に物騒な話だ。
 オーサおばさんの家は、お城からはそれなりに離れている。
 他人事のように言っているけれど、ぼくはオーサおばさんの家で世話になっていたりする。といっても、家の中ではなくて、ぼくの寝床は厩だ。馬達と一緒にすうすう眠り、朝を迎える。尿の染み込んだ干し草は嫌なにおいがしたけれど、どうせぼくにも染みついているので気にしないことにしている。
 厩を出てすぐのところに、からっぽの樽が三つ、置いてある。昔は水を入れていたらしいが、今はなんにも入っていない。馬達も、喉が渇いたと言ってぼくに訴えてくる。

「ごめんよ、でも、水がないんだ」

 家の中に入ることは禁じられている。一度寒さに耐えきれなくて、窓ガラスをぶち破ってあたたかい家の中に入ったことがあるけれど、そのときのオーサおばさんの怒りようと言ったら、ブロウア山の大噴火よりもすごかった。どかんどかんと怒号が放たれ、ごごごごご、と勢いよく溶岩のようにおばさんが迫ってくる。拳でがつんと殴られて、鼻血が出た。裸にされて池に落とされ、ああ、ぼくはもう死ぬんだなあなんて思った。それ以来、ぼくは絶対に家の中に入ろうとしていない。
 そもそも、あんな地獄のような場所に入るくらいなら、馬達と一緒に暮らしている方がずっと快適だった。
 おひさまをめいっぱい浴びて、かつて池だった場所を覗き込んでみたけれど、やっぱりそこにはなにもない。この十日間で、あっという間に水が枯れた。
 雨も降らない。なのにじりじりと肌を焼く熱はどんどんと熱さを増していく。ひび割れた地面に指を突っ込んでみれば、その中は少しだけひんやりとして気持ちが良かった。
 馬がヒヒンと鳴く。ああ、うん、撫でて欲しいんだね。
 厩に戻って順番に撫でてやり、それが済むと寝床を綺麗に掃除した。汗は流れるのに、喉を潤す水はない。困ったものだ。ぐいと顎の先に垂れていた汗を拭って、ぼくは空を見上げた。落っこちてきそうな青空だ。もしも天地が逆さまになったら、ぼくは迷わずあの空を泳ぐだろう。
 その日から、厩は少しずつ寂しくなっていった。骨と皮だけになった馬達が、次々と倒れていく。ばたり、ばたり、ばた。痩せこけた馬の姿はとても哀れで、これが世の無常というやつかと賢いふりをしてみる。幸いにもスコップは厩にあったので、乾いた大地をしゃくりしゃくり、地道に掘って作った大きな穴に、一頭一頭埋めていく。さすがにぼくの大きさでは抱えて運ぶことはできなかったので、申し訳ないけれど引きずって運ぶしかなかった。
 厩から穴まで、引きずったあとが続く。毛や蛆が転々と転がり、これが最後の足跡だと思うとなんだか切なかった。
 次の日も、また次の日も、ずっとぼくは馬に土をかけ続けた。寒い冬の夜、彼、彼女らはぼくをあたため続けてくれた家族だった。家族を一人、また一人と土に返していると、気がつけば厩にはぼくとあとたった一頭の馬だけになった。
 見事な青毛の大きな馬を、ぼくは王さまと呼んでいた。王さまは逞しい足と、しなやかな体つきが美しかった。アーモンド形の目は優しく、けれどとても力強く、汗を掻いた体から立ち上る湯気が、まるで王さまの気迫そのもののようにさえ見えた。
 王さまの背に乗って草原を駆けるとき、いつだってぼくは風と等しかった。いいや、風に勝っていた。びゅうびゅうと耳の横で風が走り、ぼくはそれを尻目に王さまと前を前を目指してひた走る。蹄が大地をえぐり、棹立ちになっていなないたそのとき、世界はぼくらだけのもののように感じた。
 その王さまも、今ではすっかり痩せ細ってしまっている。筋肉に覆われていた体にはあばらが浮き、ぼくの前髪をなびかせるほどの強い鼻息はぼくの寝息よりも弱々しい。王さまのたてがみを優しく撫でながら、ぼくはそっと囁いた。

「だいじょうぶだよ。オーサおばさんはどこに行ったんだろうね」

 星の降る夜に、がらんどうの厩でぼくらは二人きりだ。からからの空気を互いに貪り合い、そっと寄り添って眠る。とくん。とくん。王さまの心臓とぼくの心臓が、だんだんと同じ速さで鼓動を刻む。
 その夜、ぼくは夢を見た。
 王さまはいつもの王さまで、その逞しい体を躍動させ、ぼくを背に乗せて広い草原を自由に駆けまわっていた。手綱なんかない。ぼくは王さまのたてがみにしがみついて、振り落とされないように必死だった。王さまは幸せそうだ。「王さま、」声をかけると、王さまは軽くいなないた。「どうした」そう言われている気がして、ぼくは笑った。
 王さまに長い時間乗っていると、お尻や足がとても痛くなる。全身が痛くなって、熱が出ることもしょっちゅうだ。だけど、この夢の中で、ぼくは一切の痛みを感じていなかった。ぽんぽんと王さまの背でお尻が跳ねる。まるでぼく自身が羽根になったようだった。
 そしてぼくと王さまは溶けあい、一つになる。王さまの背にはぼくという小さな翼が生え、ぼくは王さまのために一生懸命羽ばたいた。王さまが地を蹴る。ふわり、大きな体が浮いた。
 今度は王さまが空を蹴って、そのたびにぐんぐんとぼくらは高度を増していく。高く、高く、もっと高く。オーサおばさんの家も、ぼくらの厩も、草原も、遠くの方に広がる町も、どんどんと小さくなっていく。風がぼくらを歓迎している。下から吹き上げ、ぼくらをどんどんと上昇させていく。さらに遠くに、お城が見えた。王さまは高くいなないた。王さまはみんなが崇めるお城なんて興味がなさそうに、どこまでも上を目指す。
 そうしてぼくらは太陽に吸い込まれた。


 目が覚めたとき、王さまは息をしていなかった。
 ぼくは翼でもなかったし、王さまは骨と皮だけになっていた。地に足をつけているどころか、地に倒れていた。

「王さま」

 呼んでも王さまは答えない。そこにはただ、痩せこけた馬の死骸が転がっているだけだ。涙は不思議と出てこなかった。太陽に吸い込まれたときに、一緒に蒸発してしまったのだろう。王さまもそこにいるに違いない。
 だとすると、王さまを穴に埋めてしまうのはよくないかもしれない。ぼくは昼過ぎまでじっと王さまを見つめながら考えて、そして決めた。王さまの周りに、ありったけの干し草をかけた。王さまの隣には、お気に入りだったブラシを添えた。
 油を撒く。嫌なにおいが厩に充満した。「少しだけがまんしておくれ」王さまに声をかけて、ぼくは干し草にマッチを落とした。ぼうっ。そんな音を立てて、炎が干し草を舐めていく。
 ばちばちと炎の爆ぜる音が大きくなり、やがてそれは王さまをすっぽりと包み込んだ。火の手が厩の柱に伸ばされ、そこでようやく、ぼくは厩を後にした。

「ごめんよ、王さま。ぼくはまだ、おひさまと一つにはなれないんだ」

 目の前で太陽が生まれる。王さまを包み込み、真っ赤に色づく太陽が。
 ぼくは太陽に手を伸ばし、その熱さを肌で感じた。オーサおばさんはどこに行ってしまったんだろう。帰ってきたとき、厩が燃えていることに気がつけば、怒り狂うに違いない。
 逃げようか。でも、どこへ。
 夜になるまで考えて、思いついたのは夢で見たお城だった。あそこへ行こう。王さまとぼくが二人で見た、大きなお城。なんとなく、そう思った。
 迷っていたって仕方がない。なにも持っていくものなどないのだから、ぼくは着の身着のままお城を目指した。草原を越え、町を抜け、川を渡り、丘を越え、ようやっと城下町が見えてきた頃、そこで売られていた新聞で十日あまりが経っていることを知った。
 甘いオレンジの香りがぼくを誘う。けれどぼくは途中拾ったお金でニンジンを一本だけ買い、王さまのようにそれをばりばりと貪りながらお城を目指した。
 城門の前には、鎧を着た兵士が二人いた。二人の兵士はぼくに槍の先を向け、そしてすごく驚いたような顔をする。わらわらと蟻の子のようにあとからあとから兵士が顔を出して、ぼくはあっという間に囲まれてしまった。
 そして、兵士らを割ってやってきたのは、黒い外套をすっぽりとかぶり、白いひげをたくわえた老人だった。

「おお……、なぜ、なぜだ……」

「おそろしい……、化け物が……!」

「殺せ、なんとしてでも、殺せ!」

 オーサおばさんの家の近くで聞いた声と同じ声だった。「殺せ!」しわがれた声がそう叫ぶと同時に、ぼくの体に何本もの槍が突き立てられる。ぶしゅ。そんな音が聞こえた。
 肩を、胸を、腕を、腹を、脚を、鉄の刃が貫き、えぐる。ずざっと音を立てて一斉に槍が抜かれ、また一斉に槍が突き立てられた。
 血がどっと溢れ出る。突き刺された衝撃で、体がぐらついた。視界が赤く染まる。赤だ。王さまを送った炎と似ている。水だ。王さまに飲ませてあげればよかった。
 王さまは死んだ。王さまはもういない。
 涙は出ない。だけど、悲しい。



「王さまを殺したのは、だあれ?」



 ――あれは災厄だ。禍の種だ。何度殺しても死なない。どれほど毒を盛ろうと、何度刃を突き立てようと、その心臓が止まることはない。
 城を追い出せ。国を追え。冬の池に沈めた。それでも次の日はぴんぴんとしている。樽いっぱいの毒水を飲ませた。なのに死なない。水も、食べ物も、なにひとつ口にしていないのに、あれは生き続ける。
 化け物だ。あれはこの世のものではない。
 あれが王であるはずがない。

 殺せ。
 化け物を、殺せ――。



「ねえ、王さまを殺したのは、だあれ?」



 そして、赤が舞った。


(ああ、これでやっと水が飲めるや)

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