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「……ですから、アウィス様。どうか、……どうか、そのようなお顔をなさらないで下さい」
目元を拭われて、アウィスは初めて自分が泣いているのだと気がついた。
だからオルビドの顔が歪んでいるのだ。喉の奥が痛い。胸が痛い。眼球の奥が熱い。一度零れた嗚咽は止まることなく、子供のように泣きじゃくって彼の手袋を濡らす。
「アウィス様、あなたは私の自慢のお嬢様にございました。私のお嬢様はあなただけ。――旦那様には怒られてしまいそうですが、実は、私はあなたを妹か娘のようにさえ思っていたのです」
しわの増えた優しい顔がそっと近づいてくる。整髪料の匂いが鼻先をくすぐった。こつりと額が合わされ、至近距離にオルビドの微笑みがある。
抱き締められ、その身体にしがみついた。少し硬さを失くした身体は、おひさまの匂いがした。
「オルビド、いやよ、オルビド。私、いや。お前がいなくなるだなんて、いやよ」
「いいえ、アウィス様。いなくなるのは私ではございません。私はいつだってここにおります。いなくなるのはアウィス様にございます」
くすりと笑うオルビドの物言いに、アウィスは背中に回した拳を軽く振り下ろした。
「お前はまた、そんな意地悪をっ……!」
「それは失礼。ですが、事実ですよ。アウィス様、あなたは嫁いでしまわれる。私はこの屋敷に残る。それが事実にございます」
どうしてそんなことを言うの。私はお前とずっと一緒にいたいのに。
オルビドはアウィスを妹か娘のようだと言ったが、それはアウィスにとっても同じだった。兄や父のように慕っていたのだ。
それなのに。
「アウィス様、あなたは幸せにならねばなりません。私が三十年間、誠心誠意お仕えしたお嬢様です。誰よりも愛しい、宝です。――どんな理由で嫁いでいかれようと、幸せになってもらわねば困るのです」
ああ、オルビド。どうしてお前がそんな悲しい声を出すの。
身体を離したオルビドは、大きな窓から荒れた庭を見下ろした。大きな池にはもう水がない。噴水も止まっている。美しい花が咲いていた花壇は手入れする庭師を雇えなくなり、荒れ放題になっていた。
――どんな理由で嫁いでいかれようと。
公爵家はこの数年で力を失った。父が亡くなったからだ。妹はさっさと男を作り、どこか他国へ逃げ出した。破産寸前まで追い込まれたこの屋敷で、ありとあらゆる手を尽くした。家財を売って、使用人を解雇して。
そうして残ったのは、心を病んだ母といき遅れのアウィス、唯一の使用人であるオルビドだけだった。料理人もいない。医者もいない。家のことはオルビドがすべてこなしてくれた。
だが、それでどうにかなるはずがなかった。
最後に残されていたのは、爵位とそれを持つアウィス自身だった。だから決めた。爵位を――自分を、売ると。
すぐさま何人かが飛びついてきた。
年を食った女だが、彼らは女が欲しいわけじゃない。爵位が欲しいのだ。若い女を何人も囲っているような男のもとに、アウィスは嫁がねばならない。
それがこの家を救うために、最も多く金を出した男だったから。
男の屋敷に執事はいらない。それも老いた執事など。
「アウィス様、どうか笑って下さい。ああ、お顔を直さねばなりませんね。さあ、アウィス様」
なんで止めてくれないのかと詰りそうになって、アウィスは必死で声を飲み込んだ。そんなに家が大事かと叫びそうになった言葉は、そのまま鋭利な刃となって自らの胸に突き刺さる。
家のために? ――違う。
オルビドが止めてくれないのは、そんな理由ではない。
アウィスのためだ。アウィスがこの家を守りたいと願った。――オルビドを守りたいと願ったのだ。
だから、彼は引き留めない。
どれだけアウィスが嫌だと泣き叫んだところで、彼は止めてくれない。いってらっしゃいませと恭しく頭を下げるのだ。アウィスが本当に望むことを分かっているから。
「――お手をどうぞ」
やはりこの手は、優しくて厳しい。
(愛しい人よ、どうか笑って)
(愛しい人よ、どうか幸せに)