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 いき遅れの公爵令嬢。
 誰とも結婚する気などなかった。十八のとき、初めて求婚された。相手は悪くなかったけれど、父に我儘を言って断った。それから何度も何度も求婚者はやってきたけれど、すべて断ってやった。
 当然両親は怒ったので、そのうち相手に断らせるように仕組んだ。デート中にわざと相手に恥をかかせて、縁談を断らせるのだ。呆れた両親はなにも言わなくなり、彼らの愛情はすべて妹に託された。

「私はアウィス様と三十年も共にあれて嬉しゅうございますよ」

 優しい声。優しい手。
 でも本当は厳しいことを知っている。

「そして、アウィス様の花嫁姿を見ることができて天にも昇る気持ちにございます」

 「もう見ることは叶わぬかと思っておりました」などと冗談めかして囁くオルビドを鏡越しに睨みつけ、アウィスは梳かし終わった髪にオレンジの花を挿すように命じた。すぐさま整えられた髪に花が飾られる。

「まさかこの年で嫁ぐことになるとはね。ずっとあなたと一緒に独身を貫くのかと思っていたわ」

「アウィス様には独り身などもったいのうございますよ。お幸せになってもらわねば」

「――オルビド。それではお前は、しあわせではないの?」

 今度は鏡越しではない。振り向いて下から睨み上げる。視力の落ちた灰色の双眸が、何十年振りかに、揺れていた。
 え、とアウィスは目を瞠った。すぐさまオルビドは表情を取り繕い、何事もなかったかのように微笑んでいる。見間違いだったかとそう思ってしまうほど、一瞬で。
 けれど、あれが見間違いであるはずがない。だってあれは、まだ彼が二十代だった頃――幼いアウィスが散々彼を困らせていたときの、あの表情だ。

「オルビド、答えてちょうだい。結婚することがしあわせなら、お前はこの三十年、しあわせではなかったの? 結婚した方がしあわせだった?」

「いいえ、いいえ、お嬢様、そうではありません」

「ではなぜ、あんなことを言ったの」

「女性の幸せと、男の幸せは異なります。お嬢様のように素晴らしい方には、誰かよき人と共にある方がよろしいかと思った次第で――、出すぎたことを申しました。大変失礼を」

「オルビド!」

 癇癪を起こした子供のように怒鳴りつける。困ったようにオルビドは笑った。きっと彼は気づいていない。この屋敷で「完璧な執事」にまで上り詰めた彼が、アウィスのことを昔のように「お嬢様」と呼んでしまっていることに。
 かつて池から引き上げてくれた手を、そっと握った。いつもいつも支えてくれた手だ。

「アウィス様、ご結婚を前に少し緊張なさっているようですね。あとで落ち着くお茶を淹れましょう」

「結構よ。私は落ち着いているもの。……ねえ、オルビド。お前、男と女のしあわせは違うと言ったわね。どう違うの? それは男と女で違うの? 人によって違うものではないの?」

「――さすがは聡明なアウィス様。まったくもってその通りにございます」

「誤魔化さないで! 私はお前のしあわせはなんだったのかと聞いているのよ!」

 三十年、ずっと手を差し伸べてくれた大切な執事。
 アウィスにとって、彼は己の足よりも重要な杖だった。彼がいなければまともに立つこともできないくらい、彼を頼り切っていた。
 そんな彼が、もし、しあわせでなかったのなら。――考えただけで血が凍る。

「……アウィス様、私はとても幸せにございました。アウィス様のお傍にあれて。アウィス様にお仕えできて。そして、アウィス様の晴れ姿を見ることができるのです。これ以上の幸せがあるでしょうか?」

 するりと逃げていった手が、躊躇いがちにアウィスの頬を撫でた。手袋越しの温度がもどかしい。
 夜中に何度も絵本の読み聞かせをねだっては、この手に頭を撫でられた。
 何度危ないと怒られても、この手に抱き止めて欲しくて傷だらけになりながら木登りをした。
 時には容赦なく頬を叩かれた。
 この手が、この優しい手が、三十年間、ずっとアウィスを前に歩ませてくれた。



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