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世界が優しかったのは、それは私が世界を知らなかったからだ。
「アウィス様」
執事のオルビドが差し出した紅茶は、程よい温度になっていて飲みやすい。アウィス専用に淹れられたそれは、普通の紅茶よりも少し薄めになっている。
オルビドは白髪の目立つ髪を綺麗に後ろに撫でつけ、額を露わにさせていた。記憶の中にある彼の髪型は、どれだけ遡っても同じだった。違いといえば白髪の割合くらいだ。
優しげな顔立ちに凛とした振る舞い。穏やかなのにきびきびとした行動にいつも助けられている。三歳の頃、庭の池に落ちたアウィスを一番に助けに来たのは彼だった。
随分年を取ったな、と思う。自分も、彼も。
「ねえ、オルビド。ドレスはどうなっているのかしら」
「仕立て屋によりますと、順調とのこと。様子をご覧になりますか?」
「いいえ、結構よ。デザインは悪くなかったし、なにかあれば裾直しのときにお願いするわ」
香り高いアールグレイと、焼き立てのくるみのパン。
朝食を終えて席を立とうとすれば、絶妙のタイミングでオルビドが椅子を引く。そしてアウィスの手を取り、彼女の部屋までエスコートする。生まれてからずっと、それが特別なものだとは思ったことがなかった。オルビドはいつだってアウィスの手を引いてくれた。いつだってアウィスの傍には彼がいた。
鏡台の前に座ったアウィスの長い髪を、優しく櫛が滑っていく。白い手袋に隠されたオルビドの手は、昔よりも随分と痩せ、しわだらけになっていることを知っている。
それでも、いざとなれば力強いその手に縋ることをやめられない。
「……オルビド」
「はい?」
少しだけ掠れた声。
耳に心地よいそれは、いつの間にか張りを失っていた。
「……ごめんなさいね、こんないき遅れに三十年も付き合わせてしまって」
鏡の中のオルビドは表情を変えない。昔はそうじゃなかった。アウィスがまだ幼い頃、二十代の青年だった彼は、ちょっとしたことでころころと表情を変え、アウィスはそれを見たくて危険なことまでしでかした覚えがある。
幼い頃から、常に傍にいる大人といえばオルビドだった。両親は忙しく、アウィスのことはすべて執事や侍女に任せきりだった。勉強は家庭教師が見てくれたが、常識や人としての生き方はすべてオルビドから学んだ。
だから、まだ五つだったアウィスは純粋に、思ったままに言ったのだ。「オルビドのお嫁さんになる」と。小さな子供の、小さな恋だった。
両親はアウィスが望むものならなんだって与えてくれていた。自分よりも大きなくまのぬいぐるみも、新品のヴァイオリンも、一面の花畑も、薔薇の香りがするふかふかのベッドだって用意してくれた。
優しい両親、優しい世界。けれど、無邪気に放ったその一言に、両親は眉を吊り上げた。父は今まで聞いたこともないような声でアウィスを怒鳴りつけ、目の前でオルビドを杖で殴った。「立場を弁えろ! お前はアウィスになにを教えている!」母は泣きじゃくるアウィスを抱き締め、けれど厳しい目で言った。「子供の戯言だとしても、そのようなことを口にすることは許しません」
その意味を知ったのは、もう少し大きくなってからだ。
アウィスは公爵家の娘だった。
そしてオルビドは孤児だった。父が優秀であればどんな生い立ちの者であっても使用人として雇うと町に触れ込み、そうして孤児院からやってきた極めて優秀な青年だった。
立場の違い、身分の違い。それを理解した頃には、オルビドはアウィスのとんでもない我儘にだって動じなくなっていた。ただ優しさだけをその顔に乗せて、とろけるような声で「お嬢様」と呼びかけてくる。
もう「お嬢様」と呼ばれることには抵抗を感じる年齢になってしまった今、オルビドはちゃんと「アウィス様」と呼んでくれる。五つのアウィスならばそれを素直に嬉しいと言えたのだろうが、三十を過ぎた今のアウィスにはなにも言うことができなかった。