神に牙を剥く [ 39/39 ]

神に牙を剥く


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 ひらりと白衣の裾が踊る。忙しなく行き交う人々をぼんやりと眺めながら、彼女はくるくると大きな瞳を動かした。青緑色の液体の向こうで、白衣の男が満足そうに笑う。

「おはよう、FT-37。今日の調子はどうだい」

 彼女はついと視線を逸らし、首を傾けながら無邪気に笑った。

『元気よ。パパは?』

「僕も元気さ。じゃあね、もう僕は行くから“ミナ”はゆっくりお休み」

『もう行っちゃうの? 折角起きたのに?』

「無理をしちゃいけないよ。でないと劣化が起きてしまうからね。君は子供達の中で一番優秀なんだ。ねえミナ、分かるだろう?」

 飛ぶようにガラスの壁まで近寄り、小さな手のひらを押し付けた彼女は唇を尖らせながらも頷いた。
 FT-37。それは唯一、名前を得ることのできた彼の娘――ミナ。
 燃えるような赤い髪に瞳は黒。肌の色は安定せず、日に日に色を変えていくが基本は白い。今日はどこか青みがかっているが、水槽に満たされた液体のせいでよくは分からなかった。
 白衣の男が彼女の水槽から離れ、別の水槽へ足を向けたときだった。彼の頭の中へ先ほどと同じように直接声がかけられる。

『ねえ、パパ。ミナはいつ、ここを出られるの?』

「君のその体から、綺麗な蝶が生まれたときだよ。ミナ、もしかして退屈なのかい?」

『だってずうっと水槽の中なんだもの。それにね――』

 そう言って続けようとしたミナの言葉を、部屋の中にいた研究員が突如として遮った。鳴り響く警報音に男がはっと目を見開く。
 途端に瞳から輝きを落とした彼女は、水槽の壁につけていた手のひらをそっと胸の前まで戻した。もう自分を映そうとはしない男の瞳を見て寂しく笑う。

「なにがあった!?」

「FT-65が暴走しました! 隣のFT-48にも影響を及ぼしています!」

「くそっ、また失敗か……。いい、分かった。騒ぎを収めたあと処分しておけ」

「はい!」

 ガラスの砕ける音と人々の悲鳴を聞きながら、ミナは水中の中で意味もなく一回転してみせた。そうでもしなければ、心が闇の中に沈んでしまいそうだったのだ。
 手にした紙になにかを苛立たしげに書きつけている男に、彼女はそっと語りかける。だが一度目は拒絶され、ようやく二度目に男の視線が持ち上げられた。

『どうしてみんなは暴走するの?』

「君と違って不良品だからだよ、ミナ。忙しいんだ、またあとでね」

 面倒くさそうに吐き捨てた男は、そそくさと白衣を翻して行ってしまった。あとはもう、いつもと同じように水槽の中から向こう側を行き交う人々を眺めることしかできない。
 あーあ、とミナはため息をついた。向こう側では研究員が慌てた様子で「パラベチーノ博士!」と叫んでいる。ふと横を見れば、隣の水槽には彼女よりも幾分か小さな少年がぷかぷかと浮いていた。
 その背にはコウモリのような翼が生えているが、片翼が異様に小さい。顔は醜く歪み、腹部から胸にかけて緑色の鱗がびっしりと並んでいた。
 ためしに呼びかけて見るのだが、返事はない。
 これも男の言う「不良品」なのだろうか。

「……君がミナ?」

 隣の少年に夢中になっていたミナの耳に、聞きなれない声が届いた。くるりと振り向けば、真新しい白衣を着た少年が水槽にへばりつくようにして立っている。
 だがその視線はどこか居心地悪そうで、ミナは少しだけ首を傾げた。しかしすぐにその理由に思い当たって、くすくすと笑う。すると、少年の顔は火にあぶられたかのように赤くなった。

『うん。私がFT-37、ミナだよ。ミナはヒトじゃないから、恥ずかしがらなくてもいいんだよ』

 たとえ一糸纏わぬ姿であろうと気にする必要はない。その台詞は少年とて聞き飽きるくらい聞かされていたし、頭では理解しているつもりだった。だけど実際年頃の娘のように見えるミナの裸体を直視することはできないらしく、顔を真っ赤に火照らせたままぎこちなく頷いた。
 ミナは仕方ないなぁと言って近くにたゆたっているコードを手繰り寄せ、適当に体に巻きつけて自慢げに表情を綻ばせる。

『これで大丈夫?』

「え、あ、う……うん」

 まだ少年は恥ずかしそうにしていたが、ここで頷かなければ無礼だと思ったのか、真っ直ぐにミナの瞳を見つめてはにかんだ。少年の綺麗な青空色をした瞳が優しく細められる。

『君、名前は? パパの新しいお友達?』

「おれはルキウス。それから友達じゃなくって、パラベチーノ博士の弟子……みたいなものかな。ここに来るの、初めてなんだ」

『ふうん、そっか』

 真新しい白衣は、彼がまだ新人であることを表していた。忙しいこの研究室の中では誰も使えない新人などに気を止めることはなく、働けと注意されることもない。
 ルキウスは鼻の頭を掻きながら、65号機の前でたくさんの研究員に指示を出すパラベチーノ博士に視線をやった。小さな丸眼鏡がよく似合う細身の中年男性は、何枚もの紙に数値を書き込んでいく。時折漏らす笑みがどこか不気味で、ルキウスはぶるりと身震いした。

『ねえ、ルキウス。ミナのミッション、知ってる?』

 突然問われ、ルキウスは言葉を忘れた。だがすぐに答えを思い出し、慌てて頷く。
 この研究所で生み出される「FT」に与えられる使命。体内に刻み込まれたそれに抗うことはできず、彼らは与えられた使命のままに生きる。
 ミナに与えられたミッションは――

「――“羽化”」

『だいせーかいっ! すごいね、ルキウス』

「……別に、ここにいる人ならだれでも知ってるよ」

『うん。でもね、ミナとこんなに喋ってくれるのはルキウスが初めてだから』

 無邪気に笑う少女の体内に巣食う闇色の蝶の存在に、ルキウスはぎりりと唇を噛んだ。

「怖く、ないの?」

 予期せずにぽろりと零れ落ちた自分の台詞に、ルキウスは驚いているようだった。何度か目をしばたたかせ、ミナがにこりと笑う。
 そのときばかりは、幼いはずの彼女がひどく大人びて見えた。

『パパはね、なにがあってもミナのパパだから。ミナがヒトじゃなくても、本当はミナのことが好きなんじゃなくっても、ミナはパパが好きだから。だから、ね』

 怖くなんて、ないんだよ。

「……それって」

『でもね、きっとパパはミナのこと忘れちゃうから……だから、ルキウスがミナのこと覚えていてね。たとえミナが――完全に、堕ちたとしても』

 FT-37として完成した場合、彼女の意思は消える。意識は混濁し、混沌に引きずり込まれ、いずれ消えてなくなる。そして残るのは魂に刻み込まれた「ミッション」の結果だけだ。
 笑ってそう告げれば、ルキウスは悲しげに顔を歪ませた。彼もFT研究者だというのに、それでいいのだろうか。ミナが尋ねる。

「………………おれは、研究者じゃないんだ。本当はア――」

『だめだよ、ルキウス。言っちゃだめ。……ミナは、嘘はつけない。ばれちゃう、から』

 生まれたときから父であるパラベチーノ博士には逆らえないように意識付けられている。いや、それすら最初から遺伝子に組み込まれていたのだろう。
 ミナはぎゅうと己を抱きしめて、ゆっくりと瞼を下ろした。

『おやすみ、ルキウス。ミナはもう寝るね。……それと、パパのこと、嫌わないでね』

 死ぬために生まれるこの命を、どうか忘れないでいて。
 誰かのために生きているのだということを、どうか覚えていて。
 闇色の蝶が空を舞うとき、私はやっと自由になるの。
 だからお願い。
 すべてを知りつつも、知らないふりを通して下さい。
 君は愚者として、ずうっと踊り続けるの。


 ――悪魔の手の上で。




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