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 凛とした声に呼ばれた。涙で歪んだ視界に、真っ黒の影が落ちる。すぐに黒髪だと気がついた。美しい女性の顔が近づいてきたかと思うと、次の瞬間には唇を塞がれていた。同時に流れ込んでくる苦い液体に噎せそうになるが、それすら許さないというように身体を押さえ込まれる。
 おまけのように舌を相手のそれで撫でられ、思わず甲高い声が唇を割った。頭が痛い。酸欠で大きく上下する胸に、スツーカが舞い降りる。

「――ご無事ですかしら、ハインケル博士」

 にこりと笑いかけてきた美女に戦慄した。汗ばんだ前髪を掻き分けられ、肉厚な唇が額に落とされる。それだけで大きく心臓が跳ね上がった。

「頭痛は?」
「え、あ……、もう、平気……」
「そう。それはなによりですわ」

 いつの間にか引いていた痛みに、ほっと息を吐いた。恐ろしい。あんな痛みは初めてだ。どこか病気なのかと考えて、さらに泣きたくなる。様々な分野に精通しているハインケルだが、医学の分野に関しては専門外だ。基礎知識はあっても、素人に毛が生えた程度にしかすぎない。
 悲嘆に暮れるハインケルの手を、ミーティアは慰めるように握った。

「博士、きっと博士には、このプレートの空気が合わないのでしょう。どうです? 我が国の艦を迎えに来させますので、それでお戻りになられては」

 とろりとした甘やかな声が流れ込む。蜜のようなそれは、優しくハインケルを取り込んでいく。

「さぞおつらいでしょう。ビリジアンでしたら、優秀な医師もおりますわ。ゆっくり療養なされてはいかがです? 博士の具合がよくないと、例のお話も伺えませんもの」
「っ、それ、は……!」
「野蛮な軍人が近くにいては話しにくいでしょう。我が国は、博士を全力でお守りしますわ。もちろん、情報そのものも」

 つまりはそれが目的だ。泣きたくなった。新しく得たあのデータを彼女は欲している。確証のないデータを発表する気になどなれないし、なにより、他国の人間には一切口を割るなとテールベルト政府に念押しされていた。
 喋るな。もしも喋ったら――、ぞっとしない脅しを思い出し、ハインケルは身を縮こまらせた。テールベルトは、いざとなればハインケルの口を封じることくらい簡単にしてのける。両親は止めもしないだろう。
 あちこちで計器が静かな音を立てている部屋の中で小さな身体を抱えて震える姿は、どれだけ無様なことだろう。「まだよく分からないから」そう言って以前誤魔化した情報と、この場にいる苦痛と。天秤に掛けてどちらに傾くのか、ハインケルは想像した。

「我らが女王陛下は、博士の研究にとても興味がおありですもの。もちろん、博士自身にも。――博士の御身は、必ずや我がビリジアンが国を挙げてお守りすることを約束いたしましょう」

 ――国を、挙げて。
 テールベルトとビリジアンの国力に大きな差はない。
 テールベルトは白植物の研究と武器の開発に特化した結果、最新鋭の技術をふんだんに使用する空軍の地位が高まった。対してビリジアンは、昔から陸軍の強さが突出していた。白の植物の詳細が解明されていなかった時代から緑地警備隊を置いていた歴史があるように、各国の陸軍に置かれている緑地警備隊、緑地防衛部なるものは、ビリジアンが基盤となっている。
 そしてなにより、ビリジアンは英雄の国だ。
 希望の若葉を讃え、その傍らで悲劇の英雄を生んだ。三国に生きる者なら、誰もがその逸話を知っている。白の植物の歴史を語る上で、英雄の存在は外せない。
 英雄の眠る国であるビリジアンは、緑地の防衛に関して最も力を入れている。テールベルトは駆逐に重きを置くので、両国が協力して大規模な活動をすることも少なくはない。
 “守る”ことに心血を注ぐ国、それがビリジアンだとハインケルは考える。その国が自分を守るといったのだ。科学水準はテールベルトに引けを取らない。
 ――ならば。


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