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はらり、欠片は舞い落ちる *5
白の脅威は、すぐそこまで迫ってきている。
だのに誰も気がつかない。
そこにあるのに。
すぐ、そこに。
あなたの隣に、あなたの後ろに、あなたの前に。
どうして見えないの。どうして、見ないの。
白く呑まれたその身体が、今にもあなたに牙を剥く。伸ばした手の先、爪の間からは細い芽が出て、頬には葉脈が浮かび、唇の端からどろりとした粘液が零れ落ちる。喉の奥で、花が咲く。
放たれる奇声は、ヒトから足を踏み外した者の断末魔だ。
世界は一夜で変わる。一夜と言わず、一瞬で。
だのになぜ、それに気づかない。世界はもう、すでに変わっている。緑は白に、白は闇に。
もう、奪われているのに。
――お前はなぜ、気づかない。
「……なあ」
「んー?」
「…………なんでもねェ」
中途半端にこちらを見ながら言い淀んだアカギは、落ち着かない様子で頭を掻いていた。彼とは緑防大時代からの腐れ縁だ。短い付き合いではないから、言いたいことの想像はつく。しかし今はそんなことよりも、もっと優先させなければいけないことがあるのだ。
平日の昼間にも関わらず、この町の繁華街は人で溢れていた。広々とした道の両脇には様々な店が並び、どの店も客を引き込もうと切磋琢磨している様子が伺える。ファッション関係の店が多いこともあってか、周囲は若者で賑わっていた。大学生くらいだろうか。さすがにこの時間では、制服を着た学生の姿は見られない。
耳には、意識せずとも人々のざわめきが届く。随分と騒がしい場所だ。雰囲気だけで言えば、このプレートのこの国はテールベルトとそう変わらない。喧騒の中に混ざっている歓声と視線にたじろいでいるアカギは、とても居心地が悪そうに長躯を縮めていた。まるで、臆病な大型犬でも見ているかのようだ。
隣を歩く男の頭に、犬の耳と垂れ下がった尾が生えている姿を想像し、ナガトはぷっと吹き出した。
「――どうした?」
「あ、や、ごっめんごめん。つい、ぷっ、あはは!」
訝るアカギが僅かに首を傾げたので、その姿がまた犬と重なってさらなる笑いを生む。一通り笑い続け、ようやっと落ち着いた頃には、アカギの機嫌は下降の一途を辿っていた。そんなことにはお構いなしで、ナガトは彼の胸で揺れるシルバーネックレスを軽く引っ張ってみる。
「オイ、なんだよ」低く唸るようなその声は、さしずめ威嚇状態の大型犬か。まるで手綱を握って散歩しているような感覚だ。――普段つけている認識票は、ここでは“ドッグタグ”と呼ぶらしいから、余計にしっくりくる。
犬種で言えば、シェパードあたりがお似合いだ。
「テメェ、いい加減にしやがれ! さっきから人の顔見てくすくす笑いやがって! この服が似合ってねェって言いたいのか!? 生憎俺は、お前と違って支給品の服しか普段着ねェんだよ!」
「はーいストップ。そういうこと誰も言ってないだろー? それ、ただのTシャツだから。ただのTシャツが似合わないとかないから。つか、……ふうん? お前でも服装気にするんだ?」
「ぐっ……! それは、お前が!」
「だから服で笑ってたんじゃないっての。第一、これは俺らに一番しっくりくる服って検索かけて出てきたんだから、似合わないはずないだろ。文句があるなら艦のシステムに言え」
今ナガトが着ている襟付きのシャツも、すべて空渡艦の検索装置を使って本部から取り寄せたものだ。このプレート全体の服装を調査し、派遣された地域の平均的な服装を割り出す。そして、そこから最も自分達にふさわしい服装が転送されてくる。どのようにしてその服を本部が調達しているのかは謎だが、自分達の知らぬところでバイヤーが飛び交っているらしい。
その空渡艦は、山中に幾重にもシールドを施して隠してきた。もし艦に危険が迫ったときには、手元の警報装置が鳴る仕組みになっている。
――まあ、そんなことにはならないだろうけどね。
この世界でいう携帯電話に似た機器を片手に、ナガトは胸中で舌を出した。
レーダーに反応はない。こちらにやって来るというハインケルの信号は、しばらくこの辺りをうろついているが未だに受信されていなかった。相手に着地点探査ができるだけの能力があれば楽だったのだが、そんなことは最初から望んでいない。そもそも、仮にそれができたとしても、あのハインケルが自ら望んで自分達の元にやってくるとは思えなかった。
結局、ハインケルが派遣された理由も分からずじまいだ。
人混みに紛れやすい繁華街を中心に捜索してみたが、かれこれ一時間が経ってもハインケルのコードは引っかからなかった。
適当にベンチに座って休憩しながら、転送されてきた地図を眺める。アカギが買ってきた缶コーヒーは、テールベルトで飲んだものよりも格段に香りがよかった。向こうでは天然色のコーヒー豆などかなりの希少種なので、一般で飲めるコーヒーなど“それっぽい”だけの代物なのだから当然だ。
「未だに反応なしか。困るよねー。そろそろ着いててもおかしくない時間なんだけど」
「墜落して死んだ、とかいうオチじゃねェよな」
「そうだったらいいけどね。あ、やっぱよくないか。あの人死んだらなにかと面倒だ」
テールベルトにとって、ハインケルはなくてはならない人間だ。その鬼才は三国すべてが認めている。能力は確かに素晴らしい。
だが、彼は間違いなく軍部のお荷物だった。